アジア・マップ Vol.01 | イスラエル/パレスチナ

《エッセイ》イスラエル/パレスチナの都市
ヘブロン

山本健介(静岡県立大学国際関係学部・講師)

 「ヘブロン」と聞いてどんなイメージが浮かぶだろうか。そもそもパレスチナ/イスラエルにあまり関心がなければ、中東研究者であっても聞き覚えがないかもしれない。ヘブロンはパレスチナのヨルダン川西岸地区に位置する都市で、アラビア語では「アル=ハリール」と呼ばれている(ヘブロンはヘブライ語および英語での名称)。イスラームに詳しい読者であれば、このアラビア語名を聞いてピンと来るだろう。アル=ハリールと言えば、イスラームの聖典クルアーンにおいて「神の友(ハリールッラー)」と呼ばれた預言者アブラハムのことである。この町には彼とその家族が眠る墓所がある。そうした経緯から、ユダヤ教徒もムスリムも古くからここを「預言者の町」として大切にしてきた。

 今日のヘブロンを特徴付けるものと言えば、この町の中心部を支配し続けるイスラエル占領軍とユダヤ人入植者の横暴ぶりである。ヘブロンの歴史的な中心である旧市街を訪れると、そのところどころに何らかの落下物から歩行者を守るかのような網が張られていることに気がつく。よく見ると、頭上の網に引っかかっているのはスナック菓子の空き袋など様々なゴミである。実はそれは旧市街の建物の上階に住むユダヤ人入植者が一階で商店を営むパレスチナ住民への嫌がらせとして投げたものだ。このほかにもユダヤ人入植者はパレスチナ住民に暴言を吐いたり、様々な挑発行為を仕掛け、自発的な移住を迫っている。両住民のあいだでトラブルが発生することは日常茶飯事だが、パレスチナ自治政府の警察はヘブロン中心部では活動できない。ここにいるのはイスラエル軍である。彼らの役割はあくまで入植者たちの安全を守ることであり、入植者の行動を咎めることはほとんどない。

 意外に思われるかもしれないが、世界を旅するバックパッカーの界隈でヘブロンはそれなりに名が知られている。その理由は「紛争の最前線」であることが肌身に感じられる場所だからである。ヘブロンの旧市街は、この町で長年続く紛争の厳しさをありのままに伝えるダークツーリズム的な観光名所になっているのである。古代イスラエル王国の時代に始まる長い歴史を持ち、歴代イスラーム王朝の支配下で経済的、文化的に繁栄を遂げてきたヘブロンが、いまや過酷な紛争のイメージで塗り固められつつある。これはあまりに嘆かわしい事態であろう。そこで以下では、ヘブロンが誇る二つの名産品に光を当て、普段あまり言及されることのないヘブロンの一面を紹介したい。

ヘブロン旧市街(2012年2月、筆者撮影)
ヘブロン旧市街(2012年2月、筆者撮影)

ヘブロン旧市街(2012年2月、筆者撮影)

 まず取り上げたいのはガラス工芸である。ヘブロンの旧市街から北に数キロ離れた大通り沿いにガラス製品と陶磁器の工場兼販売所がある。道路に面した工場では灼熱の熔解炉に向かって職人たちが吹きガラスの製作に没頭している。流れるような動作でガラスの成形を進める様子は大胆でありながら繊細でもあり、どれだけ眺めていても飽きが来ない。20世紀のはじめには町に十数軒あったとされるガラス工房もいまでは数軒に減っており、職人たちの作業を直接見られる場所は貴重である。

 ヘブロンでのガラス工芸の起源には諸説あり、古代フェニキア人の時代から連綿と続くという説もあれば、13世紀頃に南欧や北アフリカから持ち込まれた技術が現地に馴染んだものであるとも言われる。かつては原料となる珪砂やソーダ灰が近隣の村や死海などで容易に入手できた。それがヘブロンにガラス工芸が根付く一因となったが、いまでは壊れたガラス片などを原料に混ぜて製作されるようになっている。それでも燃料がガスに変わったことなど、些末な点を除けば、ガラス工芸の伝統的な製法がいまも踏襲されている。ガラス工芸が古くからヘブロンの主要産業だったことは、ヘブロンの旧市街に「ガラス職人地区」という街区があったり「ガラス職人モスク」という名称が残されたりしていることからもはっきりと分かる。ヘブロンのガラス製品は品質の高さで知られ、エルサレムのアクサー・モスクやヘブロンのイブラーヒーム・モスクといった重要な宗教施設のステンドグラスやランプにも使用された。ちなみに陶磁器もガラス工芸に並ぶヘブロンの名産品である。ガラス製品と同じ頃から製作されており、いまでもパレスチナ人の家庭を訪れると皿やコップなど日常的な生活器具にヘブロンの陶磁器がよく使われている。2016年には、工芸品の普及などに従事する国際組織「世界工芸会議」がヘブロンを「世界工芸都市」に選出し、ガラス製品や陶磁器を高く評価した。

ガラス製品と陶磁器を扱う工場/販売所(2013年9月、筆者撮影)
ガラス製品と陶磁器を扱う工場/販売所(2013年9月、筆者撮影)
ガラス製品と陶磁器を扱う工場/販売所(2013年9月、筆者撮影)
ガラス製品と陶磁器を扱う工場/販売所(2013年9月、筆者撮影)

ガラス製品と陶磁器を扱う工場/販売所(2013年9月、筆者撮影)

 吹きガラスの製作が長い修行期間を要することは想像に難くない。今日のヘブロンでガラス工芸に従事しているのはナトシャ家だけであり、多くの場合は多くは親から子へと職人の技巧が引き継がれてきた。ガラス職人を志す若い世代は父の手伝いをしながら、その作業を傍らで学び、長い年月を経て一人前に成長する。伝統的な徒弟制のような形態がいまなお主流である。「子どもの頃から学ばなければ一人前の職人にはなれない」という言葉もヘブロンのガラス工芸の世界では頻繁に口にされる。こうした事情から、日本の伝統工芸と同様に、ヘブロンでも跡継ぎ不足の問題は深刻な課題になりつつあるが、そこにはパレスチナ特有の背景もある。イスラエルは2000年代に占領政策を強化し、治安対策の名の下で人やモノの移動を大きく制限するようになった。それにより、ガラス製品を含む工芸品の輸出に高いコストがかかるようになり、工場の経営者や職人たちが得る収入はかつてよりも大きく減少した。イスラエルによる占領支配の終わりはまだまだ先のことになるだろう。そんななかで、ヘブロンにおけるガラス工芸の将来に暗い影を落としているのは、家計を支える生計手段として、そして産業としてそれが今後も成り立つのかという問題なのである。

 ヘブロンのもう一つの名物として紹介したいのはブドウである。ヘブロン旧市街の中心にある聖地イブラーヒーム・モスクの近くに、このモスクとブドウを併せて描いたグラフィティがある(いまもそこにあるかは分からないが)。そこには「ハリールのブドウには蜜がある」というアラビア語の文言が添えられている。これはパレスチナの有名な詩人であるイッズッディーン・マナーシラの詩から取られたものである。筆者の拙いアラビア語で詩を忠実に訳すのは難しいが、「ハリールのブドウには蜜がある、それはサルサビールの湧水、世代を超えて受け継がれてきたもの」といった調子で始まる(サルサビールはクルアーンで天国の描写のなかに登場する泉の名前)。ブドウの房でイブラーヒーム・モスクを包み込むように描かれたこのグラフィティは、ブドウの蜜にあたる部分、つまり欠かすことのできない本質的な中核が、この町にとってのイブラーヒーム・モスクであると主張しているようにも見える。

ヘブロン旧市街のグラフィティ(2013年9月、筆者撮影)

ヘブロン旧市街のグラフィティ(2013年9月、筆者撮影)

 ヨルダン川西岸地区は全体として農業が非常に盛んであり、野菜や果物が豊富に収穫できる。最も広く知られた名産品はオリーブであるが、ブドウもしばしばその次に挙げられる。ヘブロン市やその周囲の村落で生産されるブドウはヨルダン川西岸地区における生産量の約半分を占めるとも言われ、ガラス工芸と同じくマムルーク朝やオスマン朝の時代からヘブロンの特産品だった。ヘブロンは旧市街を中心に交易の拠点として発展した歴史があり都市文化が根付いているが、町の中心から車を10分ほど走らせ、市の郊外に出ると高大な農地のブドウ棚をそこかしこに見ることができる。ヘブロンで生産されるブドウの品種は数十種類に及び、色合いも赤みがかったものや薄緑のものなど様々であり、日本ではあまり見かけないものも多い。

 ヘブロンでは、2010年頃からパレスチナ自治政府や商工会議所などの主催で毎年秋に「ヘブロンのブドウ祭り」が開催されている。近隣村落の農家が育てた大粒のぶどうが売りに出されるほか、ブドウの房を寄せ合わせてパレスチナ全土の形にかたどったアート作品などが展示される。またこのブドウ祭りでは「ディブス」(果汁を煮詰めて作る糖蜜)や「マルバン」(果汁から作るチューイングキャンディのような食感のお菓子)など、ブドウを使った甘味やジャムも売られる。ブドウはそのまま食すだけでなく、様々な加工品に形を変え一年を通して食卓に並べられるのである。

 筆者は滞在先の村でディブスを作る光景を見たことがある。そこではワインを作るような要領でブドウの実を踏み潰して、余すところなく果汁を搾り取った上で、それを大鍋で煮詰めていく作業が家族総出で行われていた(ちなみにこの家庭では足踏みのために古いバスタブが再利用されていた)。この家族にとってディブス作りは秋の風物詩とも言うべき大切なイベントであった。できあがったディブスを翌日パンに塗って食べてみたが、あまりの甘さと美味しさに衝撃を受けたことをいまでも覚えている。

ヘブロン近郊にあるB村でのディブス作り(2013年9月、筆者撮影)
ヘブロン近郊にあるB村でのディブス作り(2013年9月、筆者撮影)

ヘブロン近郊にあるB村でのディブス作り(2013年9月、筆者撮影)

 ブドウを生産する農家にとってもイスラエルの占領政策は悩みの種である。物流に関する問題は先ほど言及したガラス製品の場合と同様に農家の収益を減少させている。さらにブドウ生産にとって厄介な問題を起こすのは入植地の存在である。ユダヤ人が住む入植地はヨルダン川西岸地区の各所にあるが、入植者の人口増加などに併せて頻繁に増築され、その過程では農地も接収されることがある。しかも、入植地は農地を奪うだけではない。農地の横まで入植地が迫れば、入植者から暴行を受けたり、農地を荒らされたりといった問題に見舞われる。場合によっては、入植者の安全を守るという名目で、パレスチナ人が自らの農地に自由に立ち入れないようになったり、農作業の度に軍の許可を得なければならなくなったりする。パレスチナ人の農家に対しては多くの国際NGOが精力的な支援活動を展開しているが、入植地問題という政治的な課題が解消されない限り、ブドウ生産をはじめとする農業の先行きは怪しいままである。

 イスラエルとパレスチナ人の鋭い対立に彩られるヘブロンにおいて生業全般を取り巻く状況は確かに紛争から強く影響を受けている。だが、過酷な紛争の側面を切り取るだけでヘブロンを語り尽くすことは到底できない。ヘブロンに住む「ハリーリー」たちにとっての故郷はもっと豊かな意味を持つからである。ガラス工芸もブドウ生産も単なる生活の糧ではなく、町が誇るべき財産として、家族に代々受け継がれてきた遺産として位置づけられているのである。このような現地社会の不可視化された実態を描き出していくことは、私たち地域研究者に課せられた重要な使命と言えるだろう。

書誌情報
山本健介「《エッセイ》イスラエル/パレスチナの都市 ヘブロン」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IL.4.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/israel/essay02/