アジア・マップ Vol.01 | カザフスタン

《エッセイ》カザフスタンと私

李眞惠(立命館大学OIC総合研究機構・専門研究員)

 カザフスタンと私の歴史は、2005年に大学に入学した時に始まった。その年の夏、私は初めてカザフスタンのアルマトイに言語研修のために5週間滞在することになったのである。その後18年間、カザフスタンとの縁が続いている。この文章を書きながら、もう一度、歳月の流れに驚き、これまで私は研究者としてどれほど成長したのかと反省する気持ちにもなる。

 最初から研究者になりたかったわけではない。ただ、外国語を学んでその文化を知っていくことが楽しかった。大学に入学して本格的にカザフスタンの言語と文化を身につける経験をするようになった時、知的刺激にとても熱狂していた過去の自分を思い出す。

カザフ国立大学(2021年3月10日、同大学東洋学部イ・ビョンジョ教授提供

写真1.カザフ国立大学(2021年3月10日、同大学東洋学部イ・ビョンジョ教授提供(以下同様)

 1年生の夏、初めてアルマトゥ市を訪問した時に、今までは経験したことのない生々しい風景と人々、そして文化に少なからず驚いた。世界で9番目の広い領土を有する国だけあって、湖や滝のような自然物はもちろん、人工造形物も巨大で、圧倒的な印象を受けた。ヨーロッパとアジアを横切るシルクロードの歴史を持つだけに、カザフスタンという国に対する初印象は、ヨーロッパの服を着て、アジアの顔をした人々が集まって暮らす不思議な国であった。

 カザフスタンは130以上の民族から成る多民族国家である。中には、顔が私と似ている人もいれば、私の友達や知人と似ている人も、いくらでもいる。そのため、外国人や少数民族という概念がなかなか使われないところでもある。それもそのはずで、どこにでも多様な顔が存在するので、どこに行っても親しく話しかけてくる人たちがいる。道を聞いたり、時間を聞いたりなどなど。韓国人がほとんどである韓国だけで暮らしてきた当時の私にとって、それは非常に興味深い経験だった。

 カザフスタンは、ロシア語とカザフ語を国家の公式語に登録している二重言語の国である。しかし、ソ連解体と独立宣言以降は、実質的には、カザフ人中心の国民統合を実施してきた。私は学部でカザフ語を専攻した。2005年以降、カザフ語に慣れていった頃には、滞在中に「韓国からカザフ語を学びに来た」というと、そんな私を好奇の目でみたり、「カザフ人の中でもカザフ語ができない人がいるのに、外国人がカザフ語を話している」と驚き感心してくれる人たちや、家族行事に招待して歓迎してくれて、家族や親戚に私を引き合わせる人もいた。2007年の交換留学時には、週末ごとに招待してくれる友人の家に遊びに行ったり、カザフスタンへの留学生としてカザフ国立大学の広報映像に活用されたり、現地のラジオやテレビ放送でインタビューを受けたりもした。カザフスタンは、私という存在を不思議に思いながらも、ただ自分のためだけにカザフ語勉強に熱心だった私に、称賛と愛をたっぷり与えてくれる国だった。

 正直に言うと、必ずしも良い思い出ばかりではなかった。2000年代までは、カザフスタンにタクシーというものは特になく、路上の車をヒッチハイクして、運転手と料金を交渉する方式だった。特定の宗教を布教しようとする運転手に取り込まれないように努力するうちに、行き先を通り過ぎてしまったこともあった。また、タクシー走行中に軽微な交通事故が起きた時に、私は「待っていたら保険会社の処理が始まるだろう」と韓国式思考でそのまま座っていたが、運転手が車を捨てて消えてしまったため、私もやむなく黙って降りて他のタクシーに乗りかえたこともあった。混み合う市場で多くの人々と会話するうちに、ふと気がつくとわけの分からないマルチ商法の勧誘を受けている自分に気が付いたり、韓国は豊かな国だと言って家賃を毎回少しずつ上げようとする大家さんのおばさんと言い争って、とうとう夜中に住まいを出てホテルに行かなければならないはめに陥ったこともあった。今思い出せば、どれも懐かしい思い出になっている。

写真2.アルマトゥ市コク・バザールのコリョ・サラム商人(2022年9月16日)

写真2.アルマトゥ市コク・バザールのコリョ・サラム商人(2022年9月16日)

 私は、カザフスタンのコリョ・サラム(高麗人)を研究している。コリョ・サラムは、旧ソ連地域のコリアン・ディアスポラを指す、自称である。コリョ・サラムに初めて会ったのは、アルマトゥ市が主催する行事のボランティア活動をしていた時だった。その時の私は、初めは「同胞」あるいは「韓民族」という韓国式の教育と思考の枠組みで、彼らを見ていたように思う。しかし、そのような考え方では到底説明できない、私と相手の間に存在する異質な感じとぎこちなさに衝撃をうけ、それに対して好奇心を持つようになったことが、研究を始める契機となった。当時感じていたその乖離は、彼らを同胞と韓民族中心という既存のフレームを通じて見るのではなく、ソ連期を経て、旧ソ連諸国のそれぞれ異なる特性の基幹民族政策に対応して生きているマイノリティ集団と位置づけることに帰結した。当初の現地調査では、コリョ・サラム関連機関や、コミュニティのエリート・グループを中心にインタビューを実施してきた。彼らの意見を、コリョ・サラムを代表する見解ととらえることもできるが、一方で一般人の多様な意見という側面もあった。

 同国の政権や年金制度などの社会福祉に対して一般人からアピールが少しずつなされていると感じたのは、2010年代半ばに入ってからである。現地調査中の移動では主にタクシーを利用したが、アプリで予約したタクシーの運転手たちが、政権や政策に対する正直な意見を積極的に述べることもあった。私がカザフスタン人ではなく、外国から研究のために来たと先に自己紹介したからだろうか。

 2018年の現地調査では、街の看板のいくつかがラテン文字に変わったことに気がついた。まもなくカザフスタンの政府は、カザフ語のキリル文字表記を全面的にラテン文字へ改訂することを発表し、2025年の完成をめざしてその作業が進められている。そうした変化を目の当たりにしながら進めてきた博士論文執筆が終盤に至った2019年3月、突然、カザフスタン初代大統領ナザルバエフは、1991年独立宣言以降続いてきた自らの政権を、第2代大統領であるカシムゾマルトに委譲すると発表した。その後、初代大統領の長女であるダリガに権力が譲渡される可能性もあったが、現在まで第2代大統領が国政を運営している。そのおかげで論文の数カ所を急いで修正する作業をしなければならなかった。

写真3.外壁補修中のアルマトゥ市庁舎(2022年9月16日)

写真3.外壁補修中のアルマトゥ市庁舎(2022年9月16日)

 2022年1月初め、西部カスピ海沿岸の油田地帯であるマンギスタウ州で燃料価格の高騰に対する反発から始まった抗議デモは、その後全国主要都市に広がり、アルマトゥで最も激しく繰り広げられた。その鎮圧過程は外信を通じて報道された。なじみぶかいアルマトゥ市街に戦車が入った様子、たびたび通っていた市庁舎の外壁が燃えた様子に驚きながら、神経を尖らせてニュースを検索した。その後、海外の反政府テロ団体の鎮圧に成功したという政府発表とともに、アルマトゥは再び平和を取り戻した。

 カザフスタンは独立宣言以降、社会変革が多様な形で続いてきた。2015年、グローバル企業であるスターバックスの中央アジア第1号店が、カザフスタンにオープンした。それ以降、カザフスタンを毎年訪問するたびに、都市の姿が徐々に先進化していることに気付く。毎年このような変化を実感しながら調査を続けるのは、刺激的で非常に興味深い。一方、どうすれば研究がもっとうまくできるのか、どうすれば社会貢献できるのか、どうすれば地域と人々をより深く理解できるのか、悩むこともある。もっとベテランの研究者になれば、その答えが分かるだろうか。まだ自分なりの答えには到達していないが、これまでのように持続的に関心を持って対象地域に対する理解を深めるという姿勢で、少しでも前に進んでいきたいと思う。次のフィールドワークを楽しみにしている。

書誌情報
李眞恵「《エッセイ》カザフスタンと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, KZ.2.02(2023年7月15日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/kazakhstan/essay01/