アジア・マップ Vol.01 | キルギス

《総説》
キルギスという国

小田桐 奈美(関西大学外国語学部・准教授)

はじめに
 ユーラシア大陸の真ん中に位置する中央アジアのキルギスは、国土の94%を海抜1000m以上の山地が占める山岳国である。Googleマップで地形の表示をオンにして眺めると、天山山脈とその支脈が国土全体に広がる様子が見てとれる。周囲をカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、中国に囲まれた内陸国で、面積は日本の約半分(19万9000㎢)、人口は697万7000人である。シルクロードの国でもあり、世界第二位の透明度を誇る湖イシククリには、かの玄奘三蔵も立ち寄ったという。

 筆者が初めてキルギスを訪れたのは、2006年4月のことである。当時の日記を読むと、首都のマナス空港から市内へ向かう道中で、放牧される家畜の群れや、万年雪を頂く山並みに目をうばわれたことが記してある。キルギスの基幹民族であるキルギス人は、元来遊牧民であった。国旗には、遊牧民の移動式住居の天窓が描かれており、首都ビシュケクの名前も馬乳酒を作るための撹拌器に由来する。

 筆者は大学でロシア語と地域研究系の授業を担当している。授業で初めてキルギスを取り上げる際には、地図上に番号で示した5つの国・地域の中からキルギスを選んでもらうクイズを出している。ある授業で84人に答えてもらった結果、①ロシア連邦内のトゥヴァ共和国:12人、②キルギス(正解):18人、③カザフスタン:20人、④トルクメニスタン:24人、⑤ベラルーシ:10人と、見事にバラける回答。クイズの問題としては素晴らしい出来だが、何とも寂しいものである。

 事実、キルギスは中央アジアの中でも貧しい小国であり、キルギスについて日本語で得られる情報も決して多くはない。だが、実際に現地に滞在すると、訪れた人を惹きつけてやまない魅力に溢れたところである。以下では、筆者が現地で体験したことや見聞きしたエピソードも交えながら、キルギスの一端を紹介していきたいと思う。

多民族・多言語国家キルギス
 キルギスは多民族・多言語国家で、憲法ではキルギス語が国家語、ロシア語が公用語として定められている。上位3民族の割合は、キルギス人73.8%、ウズベク人14.8%、ロシア人5.1%である。その他、ドゥンガン人、ウイグル人、タジク人など、100近くの民族が居住していると言われている。ロシア人の割合は、ソ連時代の1989年には21.5%だったが、その後減り続けている。それに代わってキルギス第2の民族となったのが、ウズベク人である。

 どの地域を訪れるか、またどの家族やコミュニティーと交流するかで、キルギスの多言語・多民族状況に関する印象は大きく異なってくる。キルギスには7州あり、北のタラス州、チュイ州、イシククリ州、ナリン州、そして南のジャララバード州、オシュ州、バトケン州に分かれる。

キルギスの地図

キルギスの地図

 州や都市によって民族構成も大きく異なる。キルギス文化にどっぷり浸かるならナリン州で、キルギス人が99.2%を占めている。キルギス語の標準語は北部方言を基にしているが、最もきれいなキルギス語が話されているのはナリンだと言われる所以である。北部のチュイ州ではロシア人が多く、首都ビシュケクの民族構成は、キルギス人66.2%、ロシア人23%となっている。ある生まれも育ちもビシュケクというロシア人は、「キルギス語で知っているのは挨拶ぐらいで、ビシュケクではキルギス語の知識が無くても生きていける」と語っている。南部では、ウズベキスタンの国境に近いこともあり、キルギス第2の民族であるウズベク人が多く暮らしている。オシュ市ではキルギス人47.9%、ウズベク人44.2%と拮抗しており、ウズベク語も広く使われている。ウズベク語の公用語化を求める声もあるが、今のところ実現していない。

ビシュケク中心部のアラ・トー広場

ビシュケク中心部のアラ・トー広場

キルギス語とロシア語
 キルギスは、旧ソ連諸国の中で最もロシア語が維持されている国の一つである。正式国名である「キルギス共和国」を、キルギス語で表記するとКыргыз Республикасы、ロシア語ではКыргызская Республикаとなる。どちらもキリル文字を使うが、キルギス語はテュルク諸語、ロシア語はインド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派に属し、言語的には遠い関係にある。

 キルギス語とロシア語はどのように使い分けられているのだろうか。総人口中、キルギス語を母語または第二言語として習得しているのは76.5%、ロシア語は48.3%である。大まかに説明すると、ソ連時代の名残で、民族間コミュニケーションではロシア語が使われる場合が多い。一方、キルギス人同士では、状況に応じてキルギス語とロシア語が使い分けられている。1つの場面や会話の中で2言語を織り交ぜながら併用するコード・スイッチングという現象も広く見られる。ある時、「キルギス人は舌が柔らかいから、他の言語も訛りなしに話せるんだ」と語る人がいた。他の言語を身につけたり、相手に合わせて言語を切り替えたりすることが、肯定的に捉えられているのである。生きていくために他の言語を身につけざるを得ないという事情もあるが、キルギス語を大事にしつつも、言語に対して実用的な態度を持っていることが伺える。

 一方で、キルギス語に対して複雑な思いを抱える人たちもいる。キルギス語よりもロシア語の方が得意なキルギス人である。ソ連時代、ロシア語は社会的成功をおさめるために必須の言語として、ソ連全土に広く普及した。そのため、多くの親が子供にロシア語を身につけさせることを望んだのである。独立以降、国家語であるキルギス語を重視する方針が強まるにつれ、キルギス人でありながらキルギス語が苦手なことにプレッシャーを感じて苦しむ人々もいる。「ロシア語の環境で育ったんだから、仕方ないよね」と理解を示す人も多いが、メディアなどで公然と批判する人もいる。

 このように、必ずしもキルギスだからキルギス語、キルギス人だからキルギス語、というわけではないが、相手がキルギス語を母語とするキルギス人である場合、外国人がキルギス語を使うと、熱烈な歓迎を受ける場合が多い。

経済
 キルギスの主な産業は、農業・畜産業、鉱業(金採掘)である。水資源が豊富で、東日本大震災の時には、キルギスからミネラル・ウォーターが支援物資として日本に届けられた。石油や天然ガス等の資源には恵まれず、キルギスの経済は、海外への出稼ぎによって支えられている。外国からの送金額は対GDP比で33%、その大部分である82%がロシアからの送金である(2021年)。

 筆者がモスクワに滞在した際、街を歩くと、キルギス語だけでなく、中央アジアの様々な言語を耳にする機会が多々あった。中央アジアや他の旧ソ連諸国出身の出稼ぎ労働者は、ロシアでの労働で収入を得るとともに、ロシア経済・社会を支えてもいるが、近年、彼ら・彼女らが直面する様々な問題も指摘されている。最近は、パンデミックやウクライナ情勢の影響が追い討ちをかけている。

 2017年のことだが、ビシュケク発モスクワ行きの便の中で、まさにこれからロシアに出稼ぎに行くところだというおじさんと知り合った。アンズで有名な南部バトケン州の出身で、故郷で長い間コックをしていたという。最近はビシュケクで建設労働者として働いていたが、給料の遅れや踏み倒しも多く、ロシア行きを決めたらしい。行き先はロシア北西部の北極圏にあるヤマルで、同行者30人が同じ便に乗っているという。別れ際、手作りのボールソク(伝統的な揚げパン)と、バトケン名物の干しアンズを持たせてくれた。一期一会だったが、おじさんは今頃どうしているだろうかと時々思い出す。

タラス州
 筆者は主に首都ビシュケクをフィールドにしているが、ここでは首都の次に縁深いタラスについて紹介したい。留学時代、タラス出身の友人が実家に連れて行ってくれたことがきっかけで、キルギス滞在時は時間を見つけては訪問している。

 タラスは、キルギス最大のシンボルである英雄叙事詩マナスゆかりの地である。マナスはユネスコの無形文化遺産、そして50万行にも及ぶ世界最長の叙事詩としてギネス世界記録にも登録されている。また、キルギスが誇る作家チンギス・アイトマトフの故郷もタラスである。歌手のミルベク・アタベコフに、「私のタラス」という歌があるが、歌詞はタラスへの愛着と誇りで満ち溢れている。

 ビシュケクからタラスへは、乗合バスやタクシーで向かう。途中でトー・アシュー(ラクダ峠)という3000メートル級の峠を越えると、スーサミル渓谷が目の前に広がってくる。美味しいクムス(馬乳酒)で有名なところで、放牧中の羊の群れも見える。筆者が友人とその従妹(当時10歳ぐらい)と一緒にタラスに向かう道中、ここでクムスを買って飲んだのが良い思い出だ。クムスのアルコール度数は低く、キルギスでは健康飲料扱いで、小さい子供にも飲ませるそうだ。

 タラス州ではキルギス人が91.9%を占めるが、第2の民族はクルド人であり、またカザフスタンに隣接するためカザフ人も多く、他の州とは異なる趣を持つ。タラス方言もあり、例えばキルギス語では年上の女性に対して◯◯エジェ(◯◯お姉さん)と呼びかけるが、タラス方言では◯◯アプチェという。友人の家族・親戚は、40人ほどがタラス州の村・町で4軒の家に分かれて暮らしており、訪問する度に子供が増えているのだが、小さい子供たちにナミ・アプチェと呼ばれると、嬉しさもひとしおだ。

 首都に戻る時は、いつも後ろ髪を引かれる思いでタラスを後にする。前掲の歌「私のタラス」では、「遠くからきた人たち タラスを去りたくないのだ」とうたわれているが、まさに私のことだ。余談だが、ある時タラスからビシュケクに向かう際に、とんでもない酒飲みと乗り合わせたことがある。ウォッカを少しだけ飲むと、山越えの時に血圧の上下が抑えられて体の負担が減るとか何とか言い出したのだが、少しで済むわけもなく、酒盛りが始まった。峠のくねくね道に揺られながらウォッカを浴びるように飲む羽目になり、本当に酷い目にあったが、今となっては良い思い出である。

タラス州の放牧地
タラス州の放牧地

タラス州の放牧地

食文化
 キルギスで食される料理は、炊き込みご飯のプロフなど中央アジア全体で共通するものも多いが、具材やスパイスの使い方には国・地域差がある。国民の大半がムスリムのため、羊肉や牛肉が好まれるが、中華料理店などでは豚肉を食べることもできる。少数民族の料理もバリエーションが豊かで、ウイグル料理のラグマン、朝鮮風人参サラダ、ドゥンガン料理のフンチョーザ(春雨の炒めもの)やアシュリャンフー(冷麺)、各種ロシア料理など、ユーラシアの多様な料理を楽しむことができる。以下では、蒸し餃子のマンティと、発酵飲料のジャルマを取り上げて紹介したい。

マンティ
 勤務先の高大連携事業で、「東西文化漫遊 ギョーザと旅するユーラシア」というイベントを開催したことがある。中国・キルギス・ロシア・ドイツで親しまれているギョーザに似た食べ物を通して、言語や文化を学びながら、古代から続く東西の交流に思いを馳せるというものである。キルギスからはマンティを出品することになったのだが、レシピで香辛料のクミンを入れるものと入れないものがあり、どうしたものかと悩み、SNSで中央アジア出身の友人たちに聞いてみた。その結果、マンティの思わぬ多様性が明らかになり、第一回マンティ論争とでも呼びたくなった。タジキスタンでは入れるが、キルギスやカザフスタンでは入れないという。あるキルギス人は、「マンティにクミンを入れても良いというのを、実は2年ぐらい前に初めて知ったところだ。個人的にはクミンを入れるのが好きじゃないし、味が損なわれるとさえ思う」とのこと。

 確かに、キルギスではシンプルな味付けが好まれるようだ。キルギス料理といえば、まず一番に名前が挙げられるベシュバルマク(羊や馬の肉を使った麺料理)も、味付けは塩のみでシンプル。遊牧文化で、肉そのものの味が好まれているのかもしれない。キルギス人がよく口にするこんなジョークがある。「世界で2番目に肉が好きなのがキルギス人だ。ちなみに、1位はオオカミだ。」キルギス人の部分をカザフ人に入れ替えたジョークも、カザフ人から聞いたことがある。同率2位ということで良いだろう。

皿いっぱいのマンティ

皿いっぱいのマンティ

羊の頭が添えられたベシュバルマク

羊の頭が添えられたベシュバルマク

発酵飲料ジャルマ(マクシム)
 タルカンと呼ばれる大麦などの穀物を挽いた粉や、羊の油などから作られる。発酵が進んだジャルマをマクシムと呼ぶらしい。元来、家庭で作られて飲まれてきた飲み物だが、ショロ社という企業がマクシムを商品化してから、道端で樽に入ったマクシムが売られるのが夏の風物詩となった。売り子に注文すると、カップに注いでくれる。暑い日のビールよろしくゴクゴク飲むと、暑さや喉の渇きが一気に吹き飛び、爽快感が得られる。日本に類似する飲料は無く、味を説明するのはなかなか難しいが、1回目で美味しいと思う人はまずおらず、3回飲むと病みつきになる味である。少し前に、日本で麦茶の後にりんご酢ソーダを飲んだ瞬間、ショロ社のマクシムを思わせる味を感じ、驚いたことがあった。確かに、麦茶の香ばしさに、りんご酢の酸味、炭酸のシュワシュワと、マクシムの特徴が揃っている。実は、筆者は妊娠・出産とコロナの影響で、ここ数年キルギス訪問を実現できずにいるのだが、行きたいと思う気持ちが幻を見せたのかもしれない。

日本とキルギス
 2022年は、日・キルギス外交関係樹立30周年の記念すべき年である。これまで多くの人々が多様な分野で日本とキルギスの交流に尽力してきた。例えば、JICAによる一村一品(OVOP)事業。地域経済の活性化を目指す同プロジェクトによって、フェルト製品や蜂蜜など、付加価値を持つ製品が数多く開発されており、キルギスを訪れる旅行者の定番のお土産にもなっている。キルギス人と知り合うと、必ずといっていいほど言われるのが、「大昔キルギス人と日本人は兄弟だったが、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は海を渡って日本人となった」という言い伝えである。真偽はともかくとして、日本に対して熱い視線を送ってくれているのは間違いない。

付記
 キルギスタンという呼称も、憲法第1条で正式国名の後に併記されており、広く使われている。日本語でクルグズ(共和国)やクルグズスタンと表記されることもあるが、本稿では慣用に従いキルギスと表記した。

 統計データは、キルギス国立統計委員会、世界銀行等で公開されているものを参照した。人口は2022年8月、上位3民族の割合は2021年時点の推計に基づく。各州・都市ごとの民族構成や、キルギス語とロシア語の習得率は、2009年国勢調査のデータに基づく。パンデミックの影響で延期されていた国勢調査が2022年に実施されたが、2022年9月上旬時点で詳細な結果が明らかにされていないためである。

 写真はいずれも筆者撮影。

書誌情報
小田桐奈美「《総説》キルギスという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, KG.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/kyrgyz/country/