アジア・マップ Vol.01 | レバノン

《エッセイ》
レバノンと私

溝渕 正季(広島大学大学院人間社会科学研究科 准教授)

 私が最初にレバノンの地を踏んだのは2007年2月のことであった。その頃私は上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科の博士前期課程に1年次生として在籍しており、修士論文のテーマや博士前期課程修了後の進路について色々と迷っていた時期でもあった。

 当時のレバノン政治・社会は、2004年9月のエミール・ラッフード元大統領任期延長問題、2005年2月のラフィーク・ハリーリー元首相暗殺事件、そして同年4月のいわゆる「杉の木革命」やレバノン駐留シリア軍完全撤退などの出来事を経て、親シリア派と反シリア派のあいだで深刻な分断が生じ、極度の混乱状態にあった。加えて、2006年7〜8月には、ヒズブッラー1)戦闘員がレバノン南部のイスラエルとの国境地帯においてイスラエル兵2名を拘束したことに端を発し、イスラエルとヒズブッラーのあいだで激しい戦争(いわゆる「第二次レバノン戦争」)が戦われていた。

 戦争・紛争・軍事といったテーマ、そしてイスラーム政治運動にぼんやりと関心を持っていた当時の私は、そんな混迷するレバノン情勢、戦争の傷跡やその影響、そして分裂する社会について、実際に自分の目や耳で体験し、ひるがえって自身の研究や将来について思いを巡らせてみたいという思いがあった(とはいっても、もちろん当時は明確な問題意識や綿密な調査計画など皆無であり、実際にはほとんどバックパッカー、もっと言えば「自分探しの旅」のようなものではあったが)。

 ただ、初めてのレバノン訪問は私にとってきわめて印象深い出来事の連続であった。ダマスカス街道(ベイルート・ダマスカス間を結ぶ幹線道路)に架かる大きな橋に開いた巨大な穴は戦争の激しさを生々しく物語っていた(写真1)。南部の山岳地帯では実際にゲリラ戦の舞台となった緑豊かな渓谷を見渡すことができた(写真2)。首都ベイルートのダウンタウンでは様々な政治勢力が泊まり込みでデモを行っており、緊張感の中でもどこかお祭り的なムードが漂う中で、いくつかのテントではお茶(ときにワインやアラク)を振る舞われつつ、様々な政治的見解を聞くことができた(写真3)。その一方で、レバノン山脈東山腹に位置するザハレの街はフランスの片田舎を連想させるほどに緑と花に溢れており、傍らに流れる小川の水は見たこともないほどに澄みきっており、そこで滞在したワイナリーは非常に芳醇な香りのワインを製造していた(写真4)。ユネスコの世界遺産にも登録されているバアルベックの遺跡群は壮麗で美しく、圧倒的な存在感を持って観る者に迫ってきた。(写真5)このような戦争と平和、壮麗さと生臭さ、緊張と娯楽、低俗さと高尚さのグロテスクに混じり合う混沌とした雰囲気がきわめてレバノン的であるようにこの時は強く感じられ、レバノンという国のどんどん魅了されていった。

① 第二次レバノン戦争時にイスラエル軍の空爆によって開いた陸橋の巨大な穴

① 第二次レバノン戦争時にイスラエル軍の空爆によって開いた陸橋の巨大な穴

② 第二次レバノン戦争時にゲリラ戦の舞台となった南部レバノンの緑豊かな渓谷

② 第二次レバノン戦争時にゲリラ戦の舞台となった南部レバノンの緑豊かな渓谷

③ ベイルートのダウンタウンで泊まり込みのデモを行う自由国民潮流支持者たち

③ ベイルートのダウンタウンで泊まり込みのデモを行う自由国民潮流支持者たち

④ レバノン山脈東山腹の街ザハレの小川

④ レバノン山脈東山腹の街ザハレの小川

⑤ バアルベックの遺跡群

⑤ バアルベックの遺跡群

 そして、今でもよく思い出すのは、私が逗留していた安価なバックパック宿(恐らく現在はもう営業していないだろう)の雇われ門番をしていた青年との会話である。彼とはレバノン滞在中に様々な話をしたが、将来についての悩みを吐露した私に彼は、「そんなの神さま以外は誰も分からない。今日を生きよう」と何気なく声をかけてくれた。このとき私は、何やら色々なものが吹っ切れたような気分になった。

 今日、私が研究者として一応生活できているのも、このときのレバノン訪問と、雇われも門番であった青年の言葉があったからこそであろう。

 この滞在以降、私はレバノンの魅力に大いに取り憑かれ、レバノンを研究対象に選び、機を見ては頻繁に同国を訪れるようになった。レバノンは訪れる度に新鮮な驚きを与えてくれるが、それでも最初の訪問の際の印象は決して薄れることはなかった。円安やコロナ禍といった様々な障害はあるにせよ、これから中東研究を志す若い方々にも同じように人生を左右するような貴重な経験をしてもらえればと願っている。

1)ヒズブッラーとは、内戦のただ中であった1982年、イスラエルによるレバノン侵攻への草の根的抵抗運動として誕生した政治政党・抵抗運動組織である。誕生当初からイスラエルを「非合法で拡張主義的なシオニスト政体」と断じてきたヒズブッラーは、1990年の内戦終結以降も軍事力を保持し続けることを特権的に認可され、対イスラエル抵抗運動を継続してきた。その結果、彼らは、2000年5月にはイスラエル軍の占領下にあった南部レバノン地域を「解放」し、2006年夏のレバノン戦争においてはイスラエル軍と互角以上に渡り合うなど、その軍事的存在感を誇示し続けてきた。

書誌情報
溝渕正季「《エッセイ》レバノンと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, LB.2.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/lebanon/essay01/