アジア・マップ Vol.01 | ウズベキスタン

《総説》
ウズベキスタンという国

帯谷 知可(京都大学東南アジア地域研究研究所・教授)

《概要》
正式名称: ウズベキスタン共和国 O'zbekiston Respublikasi
面積: 448,900平方キロメートル(注1)
人口: 3540万人(2022年4月1日現在)(注2)
通貨: スム
言語: ウズベク語(国家語、74.3%)、ロシア語(14.2%)、タジク語(4.4%)、その他(7.1%)(注3)
主な宗教: イスラーム(スンナ派、88%)、ロシア正教(9%)、その他(3%)(注4)
民族構成: ウズベク人(84.4%)、タジク人(4.9%)、カザフ人(2.4%)、カラカルパク人(2.2%)、ロシア人(2.1%)、その他(4.1%)(2021年)(注5)
行政区分: タシュケント市(首都、特別市)、アンディジャン州、カシュカダリヤ州、サマルカンド州、ジッザフ州、シルダリヤ州、スルハンダリヤ州、タシュケント州、ナヴォイー州、ナマンガン州、フェルガナ州、ブハラ州、ホラズム州、カラカルパクスタン共和国(カラカルパクスタン共和国はカラカルパク人の自治領域)
主要産業: 綿繊維産業、食品加工、機械製作、金、石油、天然ガス
国民の祝日: 1月1日(元日)、1月14日(祖国防衛者の日)、3月8日(女性の日、母の日)、3月21日(ナウルズ)、5月9日(記憶と名誉の日)、9月1日(独立記念日)、10月1 日(教師と教育者の日)、12月8日(憲法記念日)、ラマザン・ハイト(ルザ・ハイトとも、断食明けの祭り)の初日、クルボン・ハイト(犠牲祭)の初日
世界遺産: [世界文化遺産]ヒヴァのイチャン・カラ、サマルカンド―文化交差路、シャフリサブズ歴史地区、ブハラ歴史地区
[無形文化遺産]ボイスン地区の文化空間、シャシュマカーム(注6)(タジキスタンと共同推薦)、カッタ・アシュラ(注7)、即興芸術アスキヤ(注8)、ノウルーズ(注9) (全12か国による共同推薦)、パロフ(注10)の文化と伝統、工芸振興の中心マルギラン(注11)、ホラズム舞踊ラズギ、ミニアチュール(細密画)芸術(アゼルバイ ジャン、イラン、トルコと共同推薦)、バフシ(注12)芸術
[世界自然遺産]西天山(カザフスタンおよびクルグズスタンと共同推薦、ウズベキスタンはチャトカル国立生物圏保護区が対象)

写真1:ボイスンの刺繍工芸(N. Utarbekov撮影)

写真1:ボイスンの刺繍工芸(N. Utarbekov撮影)

カッタ・アシュラ(N. Utarbekov撮影)

写真2:カッタ・アシュラ(N. Utarbekov撮影)

 ウズベキスタンは1991年に独立した旧ソ連中央アジアの1国で、中央アジア諸国の中で最大の人口を有する。カザフスタン、クルグズスタン(キルギス)、タジキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタンと国境を接する。いずれの隣国も海に面していない二重内陸国であり、また海に出る河川のない内陸流域を形成している。典型的な大陸性気候で、年間降水量は300ミリに届くことは稀であり、特に夏期は著しく乾燥する。季節間および昼夜間の寒暖の差も大きい。

 国土の大部分は砂漠や山岳地帯が占め、西北部にはクズルクム、西南部にはカラクムの広大な砂漠が広がる。その一方で、中央アジアの2大河川であるアム川とシル川、ザラフシャン川などの流域では歴史的にオアシス都市が発展し、川沿いにオアシスが点在する様子は時にグリーンベルトとも呼ばれる。ウズベキスタンの領域における中央アジア有数のオアシスには、チャシュまたはチャチ(タシュケント)、コーカンド、サマルカンド、ケシュ(シャフリサブズ)、ブハラ、ヒヴァなどがあり、それらは現代の主要都市の礎となった。今日、農業の可能な灌漑地は国土の10%前後となっている。なお、ウズベキスタンとカザフスタンにまたがるアラル海の干上がりは国際的な環境問題として広く認識されている。

この地は古来シルクロードの中継地、東西交渉の要所でもあり、シルクロードの商人として有名なソグド人とは現在のウズベキスタンのサマルカンド周辺を故地とした人々であった。南部にはアレクサンドロス大王や玄奘三蔵も通った、山岳地帯を抜けるための唯一の通路「鉄門」も存在する。また、漢の武帝が汗血馬を求めて張騫を派遣した「大宛国」とは、ウズベキスタンの東部、フェルガナ地方のことである。

9世紀頃からこの地域で進展したテュルク化(住民の大多数がテュルク系の言語を話すようになること)とイスラーム化(住民の大多数がムスリム=イスラーム教徒になること)という歴史的プロセスは、現代の文化にまで深く影響を残すこととなった。

ウズベキスタンの主たる住民であるウズベク人は、テュルク諸語の1つであるウズベク語を話し、一般的には中央アジアのマーワラーアンナフル(中央アジアの2大河川であるアム川とシル川の間の肥沃なオアシス地帯)のオアシス定住民の生活様式と伝統を引き継ぐ人々と理解される。しかし、実際にはウズベク人の出自は多様であり、オアシス定住民以外に、モンゴルの征西以前からこの地に暮らしていたテュルク系諸部族、モンゴル到来以降のテュルク=モンゴル諸部族、16世紀初頭にこの地に到来した遊牧ウズベクの子孫など、遊牧文化の伝統をもつ人々も含まれていることも無視してはならない。

近現代史に目を向けると、19世紀半ば、現在のウズベキスタンの領域には、コーカンド・ハン国、ブハラ・アミール国、ヒヴァ・ハン国のウズベク系3王朝が割拠していたが、ロシア帝国の進出により、コーカンド・ハン国は解体され、ブハラ・アミール国とヒヴァ・ハン国は保護国化された。ロシア帝国は中央アジア統治の拠点としてタシュケントにトルキスタン総督府を設置した。その後約半世紀を経て、この地にロシア革命とソヴィエト化の波が押し寄せた。

独立国家としてのウズベキスタンの前身は、1924年、ソ連における中央アジア民族・共和国境界画定により成立した、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国(以下、ウズベク共和国)である。ソ連の構成単位となる民族共和国の1つであり、中央アジアのテュルク系定住民ウズベク人の民族自治領域として、ウズベク共和国が成立しえたのは、ソ連初期の民族理論・民族政策と非ロシア系民族の優遇という国家統合原理と、当時の現地の改革派知識人らの主張した「チャガタイ主義」(中央アジアの定住民の一体性を強調し、イスラーム国家の正統性とティムール朝期以来のチャガタイ・テュルク語を中核とする文化の継承を目指した)が部分的に合致した結果だったといえる。ウズベク共和国は、中央アジアの歴史的なイスラーム都市と重要なオアシスをほぼ独占的に領内に抱える豊かな共和国となったが、ソ連体制のもとでは原綿供給地としての役割を課された。ソ連的・社会主義的な近代化の過程で、ウズベク民族文化が成型されると同時に、ロシア語やロシア文化が浸透し、政教分離と世俗化が進行した。

ソ連解体後、他の旧ソ連諸国同様、政治的には民主化、経済的には市場経済化を進めることが重要課題となった。ウズベク共和国共産党第一書記から共和国大統領となったイスラム・カリモフ(1938-2016)は、1980年代後半のペレストロイカ期からウズベク共和国内の民主派やイスラーム派など反対勢力を徹底的に排除したことで知られたが、独立後も大統領に選出され、自身に忠実なエリートで周囲を固め、大統領にさまざまな権限が集中する大統領制権威主義体制を築いた。カリモフは「民族独立理念」なるものを国家イデオロギーとし、そのもとでは政治・経済をはじめあらゆる分野に、ソ連時代さながらに、政府のコントロールが及び、大統領令や大臣会議決定などの形で指針や方向性が示され、民主化も市場経済化も進展は限定的だった。カリモフは独立以降4期25年にわたって、亡くなるまで大統領の座にあった。

イスラム・カリモフ初代大統領の名を冠したモスク(N. Utarbekov撮影)

写真3:イスラム・カリモフ初代大統領の名を冠したモスク(N. Utarbekov撮影)

その後を執ったシャフカト・ミルズィヨエフ(1957-)は権威主義体制を維持しながらも、国民の声を聴く姿勢をアピールし、一定程度の自由化を促進して、隣接する中央アジア諸国との関係改善、汚職追放、経済の活性化、イスラーム政策の緩和など、さまざまな改革を矢継ぎ早に打ち出している。首都タシュケントでは、国際ビジネス地区として国際会議場やホテルなどのユニークな建築物が立ち並ぶタシュケント・シティが建設される一方で、政府公認の壮麗なモスクが市内中心部に設置されたり、旧市街のムスリム宗務局周辺地区の再開発が進み、新たに「イスラーム文明センター」が建設されたりと、新たなイスラーム的空間の拡大・整備も進んでいる。それに象徴されるように、ウズベキスタンは今まさにポスト社会主義時代の別のフェーズに入ったと見ることができ、大きな変化の時を迎えている。

タシュケントのパロウ(ピラフ)・センターにて(帯谷知可撮影)

写真4:タシュケントのパロウ(ピラフ)・センターにて(帯谷知可撮影)

日本との交流も独立以降、徐々に裾野が広がり、近年では格段に多様化している。学術交流や相互への留学生派遣は着実に実績の積み重ねられてきた分野だが、ウズベキスタンからの技能実習生の受け入れも始まっている。草の根交流の草分けとして、ある日本人夫妻によって陶芸の町リシュタンに設立された無償の日本語学校ノリコ学級は、その息の長い活動ですでによく知られているが、最近では日本のNPOとも連携して、現地の女性の就労支援などにも貢献するような、多彩な活動が展開されている。かつて「王の紙」として知られながら製法の伝承が途絶えてしまったサマルカンド紙の復興に和紙漉きの技術が生かされる、あるいは日本の専門家の指導を受けてリンゴ品種「ふじ」がウズベキスタンで栽培され、市場に出回り始めるなど、興味深い事例が増えている。ウズベキスタンでは、同じように年長者を敬い、床に座り、布団で寝る生活をする文化があるから、ウズベク人と日本人はお互いによく分かり合えるというような、ある種のステレオ・タイプな理解が存在するが、そうしたステレオ・タイプを超えて、より実質的で深い交流がこれからますます生まれていくだろう。

【参考文献】
荒川修「ウズベキスタンのリンゴ栽培―「ふじ」が育む日本との交流」(「特集 青天の下、日月は流る―ウズベキスタンの過去・現在」)『K』第3号、2022年、52-54頁。
宇山智彦編『中央アジアを知るための60章』明石書店、2010年。
帯谷知可編『ウズベキスタンを知るための60章』明石書店、2018年。
小松久男『革命の中央アジア―あるジャディードの肖像』東京大学出版会、1996年。

(注1)"Territory." Government Portal of the Republic of Uzbekistan.[https://www.gov.uz/en/pages/territory]
(注2)"Population." Government Portal of the Republic of Uzbekistan. [https://www.gov.uz/en/pages/population]
(注3)"Uzbekistan." The World Factbook. [https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/uzbekistan/]
(注4)) "Uzbekistan." The World Factbook. [https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/uzbekistan/]

(注5)«Опубликованы данные об этническом составе населения Узбекистана.» газета.uz[https://www.gazeta.uz/ru/2021/08/20/ethnic-groups/]
(注6)伝統的な宮廷音楽の形式の1つで、「6つの旋法」の意。主な担い手はブハラ・ユダヤ人。
(注7)口元に皿をそえて演じられるフェルガナ地方の歌唱。
(注8)2人以上で行われる対話形式のユーモアを交えた即興話芸。
(注9)ウズベク語ではナウルズ。イラン歴の元日。春の訪れと農業の始まりを祝う。
(注10)羊肉、ニンジン、タマネギなどの入ったピラフ。ウズベク語ではパロウまたはオシュ。
(注11)主にアトラスやアドラスなど伝統的な絣模様の手織物を対象とする。これらは近年「中央アジア・イカット」としてグローバルなファッションの世界でも注目されている。
(注12)バフシは歴史的には多様な意味を持つが、ここでは弦楽器を弾きながら叙事詩などを語り、時に地域コミュニティにおいて占いや予言などシャーマン的な役割を果たす人物を指す。

書誌情報
帯谷知可「《総説》ウズベキスタンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, UZ.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/uzbekistan/country/