コラム

2020.06.23

体験を元に考える

 今年度、4月に入ってからの体験は、誰にとっても初めてのことで、そこで皆、それぞれに、いろんな体験をされているのではないかと思います。そういう時の、一般的な反応や、対処法など、このサポートルームのサイトでも、皆さんのヒントになるような情報を載せていますので、どうぞそちらもご覧ください。

さて、宣伝はこのくらいにして、本日のコラムでは、また違う角度からの、コロナをめぐる体験について、徒然なるままに書いてみたいと思います。

外出の自粛が求められるようになってしばらくしてから、“コロナ疲れ”という言葉をよく聞くようになりました。朝テレビをつけると、どの番組でもコロナについてゲストを交えて議論を繰り広げています。どれだけ大変な状況であるのか、どれだけ今、耐えねばならぬのか…。私の場合、かえってテレビを見ていることで、どんよりとした暗い気持ちになるので、普段より格段に在宅時間は増えている一方で、在宅中にテレビをつけている割合が減りました。

そんな中、早くこの状況が終わって日常に戻らないかなと思っている自分は、確かにいました。何よりもまず、サポートルームでお会いしていた皆さんの様子が気になります。楽しみにしていたドラマも、放送開始は未定のまま。何をしていても、“普段とは違う”違和感は、心の中にゆっくりと溜まっていきます。

そういう中で、“変わらない”人々とオンラインで繋がる体験は、とても助けになり、自分が人とのかかわりの中で生かされていることを改めて実感することにもなりました。

一方で、それとは違う体験もあったように思います。コロナをめぐる生活の変化によって普段の密な繋がりが薄れざるを得ない中で、少しだけ、自分のスペースがとりやすくなったという側面もあったのです。

振り返ってみると、これまでがいかにいろんなものに追われる日常だったのか、ということなのかもしれません。参加する予定だった勉強会が中止になったことをはじめ、そういったものが、一旦全て棚上げになった時、立ち止まって考える時間が少しできました。

総括すると、コロナ禍をめぐる体験は、私にとって、人と繋がりを保つことの大切さと、自分一人の心のスペースを確保することの大切さを教えてくれているのではないかと思います。

自分のスぺースができて楽になった部分の私は、少しずついろんなものが再開していくことに少し戸惑いを感じていたりもします。もしかしたら、このコラムを読んでいる人の中にも、再び動き始めた社会の流れに、取り残されていくような気持ちを持っている人がいるかもしれません。

なによりもまず、オンライン授業が始まった学生さんの中には、突然レポートの締め切りが怒涛のように押し寄せてきて、戸惑っている方もいるのではないでしょうか。

ある出来事が起こると、人それぞれに気持ちが動きます。その背景にはさまざまな体験があるでしょう。どういう反応をするのが正解であるとか、答えはありません。いろんな方とカウンセリングでお会いする中で感じるのは、私がコロナをめぐってしている体験のように、ひとつの出来事がポジティブな側面とネガティブな側面両方を持っていることも少なくはないということです。

もしかしたら、よく分からないモヤモヤに襲われている人もいるかもしれません。そういう人にとっては、自分の体験を誰かと一緒に考え、“腑に落ちる”ようにすることが、助けになることもあります。

さて、皆さんは、今何を感じているでしょうか。  

学生サポートルーム カウンセラー

2020.04.20

新しい時代 Living in the New World


 2020年は奇しくも人類にとって未知なる脅威の出現とともに始まりました。

最初に新型コロナウィルスが中国で発見された当時はまだ特定の地域の問題として扱われていましたが、それは瞬く間に世界中の問題となりました。今日の人々の営みがどれだけ国境を越えて行われているのか、どれだけ私たちの世界は分断しようにもしきれないほどつながっているのかを実感させられます。

 皆さんはこの新しい事態にどのように対処していますか?

 このような有事の際にどのようにこころの健康を保つかについてはまた別途ご案内できればと思いますが、ここでは私自身がこの事態に直面するなかで大事だと痛感したことを紹介します。

 

脅威の正体を知る―信頼できる情報を得る


 生命を脅かされるような危険に対処するには、その脅威の正体をできるかぎり正確に知ることが何よりもまず必要です。得体が知れないままでは、どれくらい危険なのか、どこに危険があるのか予測がつかず、不安や怖れがとめどなく膨れ上がります。実態が分かれば分かるほど身の守り方も分かり、必要以上に怖れずにすみます。

 

危険性を冷静にみきわめる


 脅威の正体があいまいであるほど脅威を感じさせるものすべてを恐れ、排除しようと敵意や怒りが向けられることがあります。最初の頃は中国からの来訪者がみんな感染しているかのように怖れ、忌避したい気持ちになった人も多かったのではないでしょうか。感染者に対する差別的言動が報じられると「ひどい!」と怒っている自分も決してそのような気持ちにならないとは言いきれません。逆に、自分は感染しない、感染しても大丈夫だと根拠なく楽観視したり、感染を恐れて距離をとるのは失礼なのでこれまで通りに接するというのもまたリスクを過小評価した危険な行動になってしまいます。まだまだ謎が多く、敵は見えないままですから、危険性の程度を冷静に適正にみきわめることがとても難しいです。だからこそ、意識してそれに努めることが大事になるように思います。

 

できることをする


世界中で起きている圧倒的な被害を思えば、自分の手には負えない、取り返しのつかないことが多々生じていることもまた事実として認めざるをえません。そのような事態に対して憤り、あまりに無力だと感じることもあるでしょう。今回のことで失ったものが多ければ多いほど、この先に希望が見えず、何もする気になれなくなってもおかしくありません。そんな時にはすべてを脇に置いてひたすら休むことも必要だと思います。

ただ、この脅威を制圧できる日まで、私たちの人生は棚上げにするしかないのでしょうか。コロナにまつわる不安は残念ながら今後しばらくつきまといそうですが、不安との付き合い方にはいろいろな考え方があります。例えば森田療法という日本の伝統的な心理療法では、不安は欲望と表裏一体にあるものと考えられています。生きたいからこそ死の不安がある、成功したいからこそ失敗が怖い、そう考えると不安は排除できるものではなく、常に生きることと隣り合わせにあり続けます。不安がなくならなければやりたいことができないという発想では、いつまでたってもできる日はこないかもしれません。この機会に自分にとって大切なことは何なのかあらためて考えなおし、危険を回避しながらできることを無理せずやっていくというのを目指したいところです。

 

とはいえ、そんな風にうまい具合に気持ちを整えるのは簡単ではありません。そう思いたくても、不自由で不安で日々イライラしたり、びくびくしたり、いつも以上に身も心も疲れますから、愚痴や泣き言を言い合いながらなんとかしのいで、ダメージを最小限にしたいというくらいが現実的なのでしょう。

 

気持ちが落ち着かず、どうしていいか分からない時などには、学生サポートルームを利用することもぜひ考えてみてください。入構禁止期間中もメールでお申し込みいただければお電話で相談に応じることができます。この困難をしのぎ、これからの生活のために少しでも備えられようお力になれればと願います。                      学生サポートルーム カウンセラー



The year 2020 coincided with the emergence of a new and unknown threat to mankind. It started out as a local problem, specific to a certain area when COVID-19 was first found in China, but it instantly became a global problem. It showed us all so clearly how much people interact across borders day to day and how inevitably undivided our world is.


How are you coping with this new situation?

You can find an article on how to maintain your mental health in such an abnormal situation in the following thread, so here in this article, I would like to share with you what I really feel is essential to keep in mind when facing this new situation.


Identify the threat getting reliable information.

In order to cope with life-threatening danger, it is critical to understand exactly what the threat is. If the threat remains mysterious, you never know how much or in what way you should be careful. Anxiety and fear can grow uncontrollably. The more you know about the true nature of the threat, the more you know how to protect yourself and therefore you can avoid unreasonable fear.


Assess the risk rationally.

When the threat is ambiguous, you may fear everything associated with the threat, and attack it with confusion and hostility. At the beginning, many people might have feared and wanted to avoid people from China, as if every one of them were infected. You may get angry at media reports of discriminatory treatments against infected patients, but anyone could fall prey to such prejudice. On the contrary, some of you may hold an optimistic view that you are infection-proof, or may not adequately distance from others, fearing that it might be taken as a sign that you regard them as infected. However, both of these risky behaviors underestimate the danger. Since the threat will remain invisible,  it is very difficult to assess the degree of danger calmly and rationally. As such, it becomes all the more important to make a conscious effort to do so.


Do what we can.

In view of the grave situation around the world, we must acknowledge that enormous, irreversible damages beyond our control are being incurred. In the face of such a situation, it is natural to feel indignant and helpless. The greater your sacrifice in this pandemic, the more severe your feeling of depression may be, losing hope and volition. At those times, it is necessary that you put everything aside and rest.


Then, do we have to put our life on the shelf until we conquer this threat? Unfortunately, we are likely to be haunted by the anxiety of having this virus around for some time to come, but there are many different ways to deal with anxiety. For example, in Morita therapy, a traditional Japanese psychotherapy, anxiety and desire are regarded as two sides of the same coin. Because you have the desire to live, you have anxiety of dying. You fear failure because you want to succeed. From this perspective, anxiety is not something you can ever be free from but is an integral part of living. If you think that you must wait to take action until after getting rid of anxiety, that time may never come. It is therefore desirable that you take this opportunity to sit down and reflect on what is really important, and start doing the things that you can while avoiding the risks.


Having said that, our mind is not something that is completely under our conscious control.


Even if we want to feel and think that way, we are surviving in this restricted and uncertain world, feeling irritated and anxious, which is very tiring. So, let us be realistic and try to endure this situation, sharing concerns with one another when feeling vulnerable, with the hope of minimizing personal damage.


When you feel unsettled and are not sure what to do, please consider using the Student Support Room as an option. During this period when access to campus is prohibited, you can send us an email to make an appointment for telephone counseling. We hope to be of help in your effort to endure this temporary but difficult situation, and prepare yourself for your life from here on.

                                         

                         Student Support Room Counselor











































2020.03.06

深呼吸でリラックス

 わたしたちの日常生活には何かとストレスがありますから、それに対処する方法をいくつか持っていると、その分だけ生きやすくなります。みなさんはどれくらいストレスを柔らげる方法を知っているでしょうか。たとえば、次のようなことをした経験がありますか?


 やけ酒を飲む。

 やけ食いをする。

 やけ買いをする。

 サンドバックを叩く。

 お皿や茶碗を床や地面にたたきつける。

 海に向かって「ばかやろおおお!」と叫ぶ。

 からだを動かして汗を流す。

 誰かに八つ当たりする。

 誰かに話を聞いてもらう。


 ストレス解消法にはいろいろなものがあります。それぞれがどのくらい効果があったりなかったりするかは人それぞれです。中にはあまり感心しないものもあるでしょう。上にあげた方法の中にも、お勧めできるものとそうでないものがあります。それなりに効果はあるけれど、いつでもどこでもできるわけではないものもあります。たとえば、信頼のおける人にじっくり話を聞いてもらうことは、しばしばストレス緩和に役立ちますが、そういう人がいつもそばにいてくれるとは限りません。また、適度な運動も一定のストレス軽減効果がありますが、したいときにいつでもすぐできるわけではありません。

 ストレス緩和に比較的効果があるのは、自分のからだを利用する方法です。その一つに(漸進的)筋弛緩法と呼ばれるものがあり、これはからだのどこか(たとえば腕の筋肉や腹筋)をいったん強く緊張させた後で力を抜くという方法です。やり方自体は簡単なものなのですが、言葉だけでそのやり方を正確に伝えるのはちょっと難しいので、ここではそれとは別の方法を紹介しましょう。

 それは呼吸を利用したものです。

 血圧を測ってもらったことのある人は覚えがあると思いますが、お医者さんや看護師さんは血圧を測るときにはたいてい「二、三回深呼吸をしてください」などと言います。それは、深呼吸をすると一時的に緊張が少し下がり、気持が穏やかな状態での血圧が測れるからです。このように、深呼吸には心を落ち着かせる効果があります。

 呼吸と心身の安定が深く関わっていることは大昔から知られており、宗教的な行法や健康法にはゆったり呼吸をするという部分を含んでいることが多いのです。簡単に言うと、息をゆっくり吐くときに、気持ちを落ち着かせる働きを持つ副交感神経の活動が活発になることがリラックス効果を生むのです。ただ深呼吸をするだけでも一定の効果がありますが、ゆったりした呼吸の心地よさを味わえる方法として次のようなものがあります。

 まず、人に邪魔されない場所を見つけ、椅子(または椅子状のもの)に座ります。室内ならあおむけに寝てもかまいません。次に、目を閉じてからだの力を抜きます。できる範囲で力を抜く、という感じでかまいません。また、目を閉じるといやなことが頭に浮かんでくる(または、浮かんできそうだ)というときは、目はあけたままでもかまいせん。さらに、「気持ちのいい空気を胸いっぱい吸える場所」を自由に思い浮かべてください。好きな場所でかまいません。その場所が思い浮かんだら、自分が今その場所にいるつもりになって(そこにいることを想像しながら)、ゆっくり深呼吸をします。そのとき、想像した場所に注意を向けるよりも、空気が胸いっぱいに広がったり鼻から出ていったりするからだの感覚に注意を向けてください。好きな場所を思い浮かべるのは気持ちのいい息をしやすくするための手段(一種の誘い水)であり、大事なのは呼吸そのものと、息が出入りする感覚を味わうことです。頭にいろいろなことが浮かんできたら、それに対しては「勝手に浮かぶがままにしておく」という態度をとってください。これも、できる範囲でかまいません。どれくらいの時間を続けるかは「自由」でよく、「いつまでたっても変化が起こらない」と思えば、今の自分には効き目がないとあきらめてください。ちなみに、からだの感覚をじわーっと味わいつつ、自分の心やからだの中で起きていることをただ眺めるというこの状態を、このごろではマインドフルネスとか呼んでいます。

 このような呼吸法をときどき実行してみることは、一時的なストレス緩和に効果があるだけではなく、自分の身に起こることに対して「適度に興味を持ちつつしかも適度に距離を置く」という心のあり方を育む効果が期待できます。もちろん個人差があって、いつでも誰でも必ず効き目があるというわけではありません。

 さて、気持ちのいい空気を胸いっぱいに吸えそうな場所として、あなたにはどんな場所が思い浮かびますか? 暖かな日差しが降り注ぐ花壇ですか? さわやかな風が渡る高原ですか? それとも…

学生サポートルーム カウンセラー

2020.02.17

不器用ですが、何か?

 皆さんの中にもいらっしゃるかもしれませんが、臨機応変に物事に対応したり、新しいことを学ぶのはあまり得意ではありません。器用、不器用の2択で考えると、間違いなく不器用な人間です。特に機械に弱く、新しいメカを使いこなすのに時間がかかります。でも戸惑いながら、触っているうちに、時間をかければなんとかなるものもあります。
 たとえば、最近よく導入されているスーパーの自動レジ。人件費を節約するためか、増えてきていますね。最初は、え、どこにお札入れるの、どこに硬貨入れるの、と固まりました。入れてまた固まっていたら、画面に文字が。画面に出ている合計金額を確認して、精算ボタンを押さないと一連の作業が終わらないことに気づき、それをこなして終了。1回目は時間がかかったけれど、回数を重ねると人並みに精算を終えられるようになりました。
 もっと時間がかかったのが、図書館の自動貸し出し、返却機。タッチパネルで、一見、わかりやすく簡単そうなのですが、貸出、返却の画面を押してもなかなか機械が反応してくれません。押し方が甘いのだろうか?ともう一度ギューッと押してみるものの反応なし(当たり前ですが)。なぜだろうか、私の指が乾燥しすぎているから認識されないのか、はたまた冷たいからか、いやそんなことはないよなと思いながら、何度か押すうちに反応してくれるというパターンが、かれこれ2年ほど続いていました。たまに相性が悪い機械がある、これもそうなのかなぁとあきらめかけたころに、!。発見が訪れました。それは全くの偶然からでした。
 いつものようにダメ元で画面を押したのですが、ぼ~っと考え事をしながらでしたので、文字からはずれた枠の端っこの方に手が触れていたようです。そうしたら、なんと1度で返却処理ができたではありませんか!一瞬、信じられず、画面の前でちょっとフリーズ。試しに次の画面に出てきた閉めるキーも枠の端っこの方を触ってみると、今度は反応せず。あれっ違うのか…と思いながら、もう一度試してみると無事画面が閉じられました。できた!とその日は何か大発見をしたようなハッピーな気分に。いやまてよ、まだ1回だけだから、たまたまかも。次回もできるか試してみなければと自分に言い聞かせながら、帰宅しました。そして、後日、2回目、できました。そして3回目も。どうやら、この機械を操作するコツを私はやっと学んだようです。
 不器用には、不器用ならではの醍醐味があります。器用な人は無意識にこなしてしまうようなことにも、凡庸な達成感を味わうことができます。実は指が乾燥しているからと考えたことは、自分が思うほど突拍子もないことではなかったようです。冬場は乾燥によって指先の水分量が減り、電気を通す力が弱くなるから、タッチパネルの反応が鈍くなることがあるとか。なるほど。タッチパネルの仕組みなど、今まで考えたこともありませんでした。まわり道したからこそ、気づくことや見えてくるものもあるものですね。

学生サポートルームカウセラー

2020.01.09

お酒に弱くなりました

 新年早々、こんなタイトルですみません。新しい年の幕開けにあまりふさわしくないテーマかもしれませんが、このコラムの締め切りに追われて焦る私の脳裏には、昨年末に起きた衝撃的かつ笑劇的なある出来事しか浮かばず、これでいこうと思います。

 それは昨年、年末もおし迫ったある日のこと。午前中の面談を終え、お昼ご飯を買いにいつものお弁当屋さんへ行くと、年末サービスということで粕汁をふるまってくれました。
 とても寒い日だったので喜んで粕汁をもらい、職場に戻りました。同様に粕汁をもらった同僚たちと「おいしいね」「温まりますね」などと言いながら食べていたのですが、徐々に異変が起きました。最初はぽかぽかと「温まる」程度だったのですが、なんだか頬が熱くなり、ぼんやりゆったりした気分になってきました。「こ、これは!?」と嫌な予感に鏡を見ると、そこにはうっすら赤くなった己の顔がありました。そうです、まさかの粕汁で酔ってしまったのです!
「やばい!午後からもカウンセリング予約が入っているのに、酔ってしまった!」と慌てて同僚に打ち明けるも、あまりのハプニングに話す本人も半笑いですし、同僚も「粕汁で!?おもしろすぎるわ」と大笑い。笑ったせいでさらに赤くなったところで、これはまずいと我に返り、ひたすら水を飲み続けて30分。幸い、学生が来る頃には酔いが醒めて事なきを得ましたが、一時はどうしようかと本気で焦りました。
 もともとお酒に弱く、進んで飲むこともないのですが、ウィスキーボンボンや粕汁程度で酔うことはなかったので、油断していました。知らないうちに、ずいぶんとお酒に弱くなったものです。これからは気を付けよう、そして今現在の自分の体調や状態を把握しておくことも大事だな、と改めて思った年末でした。

 さて、今私はある誘惑と闘っています。目の前に、お土産の「酒粕の飴」が置かれているのです。なんとタイムリー。「どんな味だろう?本当に酒粕の味がするのかな?」と、興味はつきません。乳白色のその飴がやけにおいしそうに見えるのです。
 でもご安心ください。新たな年を迎え、私も少しは賢くなりました。同じ轍は踏みません。誘惑をぐっとこらえ、万が一酔っても大丈夫なように、一粒もらって帰ることにしました。

 挑戦や諦めずに頑張ることに注目が集まりやすい昨今。自分の限界を知り、それを踏まえたうえで無理せずに止めておく、見送る、留まる、そうした判断の大切さも忘れずにいたいものですね。 

学生サポートルーム カウンセラー

2019.11.27

サブカルチャーから日本を見る①~ゾンビ~

 最近、アメリカのテレビドラマ『ウォーキングデッド』にはまっている。時間もあまり取れず、物語はシーズン10に入っているにも関わらず、未だ私はシーズン2を見始めたところであるがはまっている。物語はいわゆる「ゾンビもの」で、ゾンビが蔓延するアメリカで、生き残った者たちの人間ドラマを描く。毎回、緊張感の中で物語が展開するので続きが気になって仕方がない。しかし、面白いのだが「まだアメリカは、結局怖いのはゾンビより人間という物語にこだわるのか」という感もまたわいてくる。ゾンビの登場は日本よりアメリカの方が先だが、ゾンビ理解は日本の方が先を行ってしまったのではないかとの思いがよぎる。
 ゾンビの歴史を簡単に振り返っておくと、もともとはアフリカ地域で信仰されているブードゥー教の神官ボコが用いる死者を復活させる粉「ゾンビパウダー」が、ゾンビの語源だという説がある。世界の中でゾンビが信じられていた地域を調べてみると、主にイギリス・アメリカ・アフリカで、土葬の文化とも、ペストの流行とも因果関係はないように思える。私の考えでは奴隷の三角貿易の歴史と何か関係がある気もしている。綿花プランテーションに従事させたアフリカからの奴隷の信仰するブードゥー教、集団の奴隷に対する、使役者の潜在的な罪悪感や恐怖感。そういった様々な要因がゾンビという怪物を誕生させる契機になったのではないかと考えているが、推測の域を出ない。
 ゾンビの名を一躍有名にしたのは、ジョージ・A・ロメロのゾンビ三部作であることは言うまでもない。もはやこの時点で、「ゾンビ=環境」の図式は完成していた。もちろん、ゾンビは襲ってくるし怖いんだけれど、物語は結局逃げ込んだ先での人間同士のいさかいに焦点化していく。ここでは物語は「ゾンビという環境の中での人間同士のドラマ」がメインであり、この図式は、ロメロが『Night of the Living dead』を発表してから半世紀以上たった『ウォーキングデッド』においても変わっていない。
 一方、日本においては事情がいささか異なるように思われる。それは、今年NHKの夜ドラ枠で放送された連続ドラマ、『ゾンビが来たから人生見つめ直してみた件』などにおいても顕著である。ここでは「ゾンビ=自分」と相対化される。これは、イギリスのゾンビ映画の名作『ショーン・オブ・ザ・デッド』が提出したテーゼをさらに拡大している。集団の中で行動し、集団にいることで不安がないように見えるゾンビは、みんなと同じでいることに安心を覚えやすい日本人のメンタリティととても良くあうのかもしれない。
思えば20年以上前、アメリカのB級映画『バタリアン』が日本でスマッシュヒットしたが、原作では名前などなかった個性的なゾンビ達に「オバンバ」「タールマン」などの名前を付けたのも日本の配給会社だったし、そこから「おばたりあん」などという流行語まで生まれた。2012年のハヤカワミステリマガジンには、ゾンビのペイントを施して、集団で公園等を練り歩くという「ゾンビウォーク」なるイベントまで紹介されている。
 「ゾンビとは何か」を考えることは、「日本人とは何か」を考えることとほとんど同義。ゾンビ文化としては後発の日本であるが、日本におけるゾンビ受容の多様性は画一的理解に留まるアメリカをもはや追い抜いているのかもしれない。
 

学生サポートルーム カウンセラー

2019.11.08

すみっこは好きですか?

 「すみっコぐらし」というキャラクターを知っていますか?
 シロクマやねこ、恐竜の生き残りである、とかげ、ペンギンに似ているけれども緑色をしている、ぺんぎん?といった「すみっコ」といわれるキャラクターには、なんと、とんかつもいたりします。これだけで、動物なのか、生き物なのか、食べ物なのか、という感じですが、さらには、風呂敷や、ざっそう、タピオカ、といった「みにっコ」というキャラクターもいます。すみっこが落ち着く、ということを共通点として、彼らは日々集い、部屋のすみっこをお互いに譲り合ったりしているのです。雑多な感じは確かにするのですが、百鬼夜行のように、ものが命をもつ話はたくさんあるのですから、現代においても、風呂敷やざっそうやたぴおかやエビフライのしっぽだって、しゃべったり遊んだりするのです。生き物の中に、生き物ではないものが入っているのはおかしい、とか、なにかのコンプレックスのあらわれかしら、などというのは、無粋というものです。
 シロクマは、シロクマであるにも関わらずなぜか寒がりで暖かいところを目指してきたということになっており、とかげ、は、本当は恐竜で離れて暮らす恐竜のお母さんがいるけれども、わかると捕まえられてしまうかもしれないので、恐竜であることを隠してとかげのふりをしています。ざっそうは、お花屋さんでブーケにしてもらうことを夢みており、とんかつやタピオカやエビフライのしっぽは、残さず食べてもらいたい、と思っています。
 どこか憎めず人をほっとさせるキャラクターたちですが、恥ずかしがりだったり、すみっこが好きという一見自信がなさげな様子に反して、それぞれ自分の分を全うに発揮することを望んでいるようです。あぶら身が多くて食べ残されたとんかつが、ひれかつになりたい、と思うのではなく、そのままで、食べてもらい役割をまっとうすることを望んでいるのです。ねこは、スリムな体型を理想にしながらも実際はぽっちゃりしていて、恥ずかしがりの性格です。ぺんぎん?は自分はぺんぎんに似ていると思っているが、自信がなく、遠い昔には頭の上にお皿が乗っていたのではないか?と遠い祖先(河童?)に思いをはせています。すみっコたちが、すみっコのままで、ほかのものになりたいと思うのではなく、自分の分を十分に発揮するならば、とても楽しいですし、なにか予測できない可能性が拓けてくるような気持ちまでしてこないでしょうか。
  あらゆるものに、命があると思い、こころの息吹を感じることと、背景になるものごとに、価値を見出すことが、私たちの文化にはあると思われます。「すみっコぐらし」は東洋的な価値感に沿うところがあるのかもしれません。
 大学生のみなさんは、課題やしなければいけないことが多く、日々、目の前にあることをこなしていくことで目一杯に忙しいという人も多いかもしれません。効率を重視して、目的をかなえるために、一直線、というときも、あるとは思いますが、すみっこに関わると、広がりや風景が違って見えることがあるのではないでしょうか。普段は人の前や、いろいろな人の真ん中でがんばるけれども、それと同じくらいに、すみっこですごす時間がいちばんほっとするという人もあるかもしれません。また、人見知りでわりといつもすみにいることが多いかもしれない、という人は、すみっこに隠された価値を見出してみるとよいのではないでしょうか。ひとつの中心があって、辺縁があるのではなく、それぞれ小さな存在の中に、生き生きとした中心があって、個性があるということ、それぞれの中心の中にこそ、なにものにも代えられない価値があることを、すみっコたちは教えてくれているのかもしれません。
  

学生サポートルーム カウンセラー

2019.10.07

夏の学び ~宝塚編~

宝塚にはまった。

これがこの夏私に起きた鮮烈な出来事であった。

酷暑もどこ吹く風、私はひたすら室内にて、フランスの、あるいはスペインの、はたまたアメリカやイギリス、ロシア、中国、もちろん日本も、世界各国のいろいろな時代のいろいろな境遇の人たちの物語を、女性たちが演じ踊るのを見ていた。
睡眠や食事の間も惜しむストイックさから、受験勉強に励む受験生のようだと評する人もいた。

宝塚とはもちろん、宝塚歌劇団のことである。

思えばこれまで、宝塚とは縁遠い人生だった。

音楽や映画、本、アートなど人間の創作活動には強い関心があり、それなりに好きなものを追いかけてきたつもりだったが、演劇や舞台に関してはあまり関心がもてず、かつ宝塚は男役の存在、トップスターがヒエラルキーの頂点に立つという制度、派手やかな化粧などの特異さから、リアリティの高い作品を好む私の嗜好からは遠い存在だった。

しかし、あるトップスターの雰囲気が好きで、かつその人が優れた人格者であることも教えてもらっていたので、なんとなく気にかける時間も増えてきていた。

そして、忘れもしない7月の終わり、あなたは見ただろうか?
地上波の歌番組で、宝塚のスターたちが踊っているのを。
信じられない頭身バランスで、惜しみなくウィンクをばら撒きながら、色気と魅力を画面越しにねじり込んできた彼女たちの姿を。

そこから、気が付けば宝塚について調べ、作品を観る日々が始まった。

宝塚で見る女性たちは、私がこれまで見たことのないものであった。

外見上の美しさはさることながら、男女という生物学上の性差を超えた、オリジナルな性別が存在していると思った。男役は、ワイルドでエレガントでセクシーななにか、であり、娘役は可憐で可愛くて美しくて時に包容力のあるなにか、であった。
そして、男役は決して男とは違う。

そこに存在するのは究極の虚構である。そして、宝塚に入団した人たちは、長い年月をかけて虚構を探究していく(ように見える)。

思えば夏、私は思い悩んでいた。
これからどこに行き何をすればいいのか。
もういい大人なのに、迷っている。しかも、大人だから誰も教えてくれない。
月明かりもない海を、動力のないままボートを漕いできたが、力尽きてぼんやりと浮遊しているような気分だった。
仕事には元気いっぱい取り組むことができるものの、自分のこころはガス欠状態だった。

そこに、宝塚の世界はさながら桃源郷のごとく、光り輝きながら姿を現してきた。
あまりにも美しく活力のある世界であるため、吸い寄せられるように私は迷い込みひと夏を過ごすことになったのだった。

宝塚は非常に厳しい世界である(というように見える)。
タカラジェンヌたちは、短い稽古時間の中で芝居を覚え、歌・踊りを覚え、刃物を研ぐように精度を上げていく。
若さや素朴さというありのままのその人の魅力を打ち出すわけにはいかず、宝塚という芸の世界で求められる姿を体現できるよう、タカラジェンヌたちは日夜努力を惜しまない。
そして、彼女たちは現実にはいない存在・世界を高い精度で目の前に見せてくれる。
そんな姿から徐々に、しかし確実に学んだのは、努力は(ある程度は)実るということだった。

また、熱心に宝塚をみる過程の中で、私は思春期のときの自分に再会した。
ここではないどこか、へ行って、私ではない誰か、になりたかった私だ。
思春期のときの私は性別を超えたかったし、外国人になりたかったし、ロックミュージシャンになりたかった。
そして、今そのどれもが実現しているわけではないが、さして不満があるわけでもないことに驚いた。
ひとつには自分がある程度はやりたいことをやれているから。
そしてもうひとつは、そうして虚構の世界をたゆまぬ努力によって体現し続けてくれているタカラジェンヌたちがいることを知ったからである。
宝塚が続く限り、私はどこかでなにかになりたい私の部分を捨てる必要はないし、あこがれ続けることもできる。

宝塚の光に照らされてもなお、明るく確実な航路がすぐに見いだされるわけではないが、私のこころのガス欠はましになりつつある気がする。

カウンセリングと呼ばれる面接の中で、趣味や、その人が好きなものを聞く機会は少なくない。私は目の前の人を知るために、好きなものについての語りに耳を傾けてきた。

しかし、自分の経験を経て、はたと気づいたのだ。
好きなものについて語るとき、その背後には迷いや苦しさや、そして好きなものに縋り、何を見いだそうとしている、そうした気持ちがあるかもしれないことを。
もちろん、いつでもそうであるとは限らないだろうが、私たちが何かにはまるとき、なにかを猛烈に好きになるとき、後ろには癒されるのを待っている傷があるかもしれないと思った。

そして、私が生まれて初めて宝塚の好きな演出家についてプレゼン資料を作ったように、好きなものは幾つになってもその人を変える可能性を孕んでいることを思い知った。

さて、この経験を経て、私の内なる聴力は少し精度が上がった(かもしれない)。
とにかく、私はいつでも本気で、あなたが語る好きなものについて耳を傾けている。
あなたも、これまでも、これからも好きなものを臆せず教えてほしい。

学生サポートルーム カウンセラー

2019.09.03

旅に出れば自分は見つかるか

 みなさんは旅が好きですか?私は重度の出不精なので、旅ほど億劫なことはありません。それでもこの仕事をしていると研修等で遠出を強いられたり、会いたい知人が遠方に移住してしまったり、重い腰を上げざるを得ないこともあるのです。まあ一旦出かけてしまえば、そこまで嫌でもなかったりもするんですが。とくにひとりだと気楽ですしね。

 旅、しかもひとり旅というのは、よく「自分探し」とセットで語られ、そこでは非日常に身をおいて、ひとり心静かに己を見つめることの効用がうたわれているように思います。

しかし、旅に出れば本当に自分は見つかるのでしょうか?

 私の最近のひとり旅はアラスカでしたが、この極北の地域にまでも世界の均質化の波は押し寄せています。もちろん日本では考えられない風景(夜23時でも外はまだ明るいとか)や食べ物(トナカイ肉のホットドッグとか)も目にしましたが、都市部には大手チェーンの店舗が並び、アプリひとつでUberがさっと迎えに来てくれ、片田舎のスーパーマーケットにも日本メーカーのしょうゆが減塩バージョンまで並んでいます。そして大自然のなかで静かに己と対話をしようにも、一般旅行者が安全に足を踏み入れられるのはほんの一部であり、そこにはカップルや観光客グループが笑いさざめく、よくある日常が流れているのです。

 「自分探しの旅」を求めるなら、もっとワイルドを追求せねばならないのか??バックパッカーとか?星野道夫とか?・・・そんなのは、動物には怖くて近寄れず、海外に行くときには各地のトイレ事情をネットでチェックするような性格の私にはとうてい無理なのです。

 それでもひとりで滞在していると、同志と誤解されるのか本物のソロ・トラベラーに話しかけられてなんとなく地ビールを飲み交わしてみたり。また行く先々では、私の知人も含め米国内外から様々なきっかけでこの地に移住してきて、人生のある一時期をここで過ごし、またいずれ別の地に移り住んでいくのであろう人たちにもいろいろ遭遇しました。そして、地球の片隅に時を同じくして居合わせたという縁に、お互い「なぜ今ここにいるの?これからどこに行くの?」を問いかけ合う(その場で直接口に出す場合もあれば、心の中でそっとつぶやいたり、後からひとり考え続けるだけのこともあるのですが)なかで、私のなかの過去の様々な経験や信念、理想や願望といったものがいくつも撚り合わされていき、ああアラスカに自分がいるというこの出来事は、何も突飛なことではなくて、“これまでの自分”と“未来の自分”をつなぐ一条の線上に起きたことなんだなあ・・・としみじみ実感するのです。

 いやー、旅っていいですね。あれ?そんな話でしたっけ。もとい、これが「自分探し」ですね!きっと。つまり、非日常に身を置くことそれ自体というよりも、「自分の芯に響くような問いを投げかけられる」チャンスが旅には潜在しているということが鍵で、またそのチャンスは「他者と語る」ことで手元に飛び込んできやすいようです。

 そしてそのようなことは、私たちが学生さんのお話をうかがう時に感じることと同じです。学生の皆さんは、研究で行き詰まったとか、指導教員との関係が苦しいとか、友達や恋人との関係で悩んでいるとか、眠れないとか心の不調を感じるとか、さまざまな主訴でサポートルームにやって来られます。現在抱えているそれらの問題自体はとてもつらいことですが、それらは多くの場合、唐突に勃発したものではなく、あなたのこれまでと、ここから先のあなたをつなぐ一条の線上に起きたものなのです。そしてカウンセリングでは、当初の主訴のことだけに絞ってというよりは、それも含めた「丸ごとのあなた」の様々なことを語ってもらうことが多いです。そのやりとりのなかで、カウンセラーという他者の発する問いがふとあなたの芯に響くことがあり、それに伴って当初の主訴の見え方・感じ方が変わってきたり、糸口がおのずと見つかったりするようです。

 皆さんのそんな自分さがしの旅に同伴させてもらうことを生業にしているということと、出不精の私が旅を嫌いになれない(というか結構好きなのかもしれない)理由とは、どこかつながっているのかもしれません。

学生サポートルーム カウンセラー

2019.07.31

こころの時代

 暑い季節です。外に出るのも気合が要ります。外での用事を済ませて家に戻ったら、ぐったりとなります。しなければならないことがたくさんあるのは分かっているのに、もう少し休みたい、もう少しだらだらしたい、と思っているうちに時間は過ぎていきます。そして随分と時間が経ってから、あぁ何もできなかった、と後悔しながら立ち上がる、そんな日々です。

 平成の約30年は、いろいろな視点からまとめることができますが、「こころ」が注目された時代でもありました。それは、たびたび起きた自然災害や事故によってPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患った方が多かったことや、経済の低迷による精神疾患の増加、価値観が多様化する中で様々な葛藤や軋轢が生じたこととも無縁ではありません。平成に生まれ、平成に育った学生の方々はご存じないかもしれませんが、それ以前の昭和の頃まで、ひとの「こころ」はあまり顧みてこられなかったのです。
 ひとの「こころ」が注目されたのは、社会にとって大きな変化でした。「こころ」のパターンや傾向を捉えることで、ひとの複雑な行動を理解し、社会に活かそうという流れが大きくなりました。また、何かがうまくいかなくなって行き詰まり、困った時、それを「こころ」の在りようの行き詰まりだと捉え、それを扱うことで解決しよう、という流れができました。後者の流れの中で、悩みや様々な症状を専門家に相談して解決・改善を目指す、という選択肢が現れました。
 しかしその反面、時に困ったことも生じます。本来は「こころ」の在りようが理由ではないことも、「こころ」の問題だ、とされることも出てきたように思います。カウンセラーは時々、相談に来られた方に生活リズムや食生活、課題の量等を尋ねることがあります。それは「こころ」の問題だけではなく、そもそも身体的、環境的な問題がないかを知りたいためです。「気分がふさいで仕方がない、うつかもしれない」という相談で来られ、病院で検査をしたら、身体疾患が明らかになったこともありました。「バイト先でうまく仕事をこなせない、自分の性格の問題だと言われた」という相談をよくよく聞くと、そもそも仕事の量がとても多い上に、それをサポートし合うシステムがバイト先にない、ということもありました。「こころ」の在りようだけが行き詰まりの理由になるのではなく、身体的な不調や社会が要求するものの矛盾、組織やシステムの不備といったものも、不調や症状の大きな要因となるのです。
(だからと言って身体的、環境的な問題と「こころ」の行き詰まりは関係ない、悩みや症状に対して専門家の援助は必要ない、と言いたいわけではありません。それでも社会で生きていくためにどうしたいか、どうなりたいかを伺った上で、解決のお手伝いを致します。)

 つまり何が言いたいのかというと、こんなに暑い日は身体的な疲労が大きく、だるい気分になるのは私にやる気がないのではなく自然なことなので、身体を労わることを大切に、アイスでも食べながらぼちぼちやっていきましょう。

学生サポートルーム カウンセラー