アジア・マップ Vol.01 | ヨルダン

《総説》
ヨルダンという国

吉川卓郎(立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部・教授)

正式国名
鏡のような存在である。 ヨルダン・ハシミテ王国(ハーシム家のヨルダン王国)

概要
第1次世界大戦後、中東進出強化を狙う英国の委任統治領としてヨルダンは誕生した。1946年に独立したヨルダンは、イスラエルと2度の戦争を含む長い紛争に突入し、両国の対立は1994年の平和条約によって終結した。その間、故郷を追われたパレスチナ人が難民としてヨルダンに流入しており、パレスチナ問題は今もヨルダンの主要課題のひとつである。またヨルダンはその地政学的位置から中東諸国の様々な紛争の影響を受けており、イラクやシリアからの難民や避難民を受け入れてきたことでも知られる。ハーシム家という古い一族の末裔である王家が支配する、新しい国家ヨルダンは、今日の中東情勢を映し出す鏡のような存在である。

首都アンマーンの旧市街。2022年8月に筆者撮影。

(首都アンマーンの旧市街。2022年8月に筆者撮影。)

国土
ヨルダンの陸地面積は約9万2千キロ平方メートルであり、イスラエル、パレスチナ自治区(ヨルダン川西岸)、シリア、イラク、サウディアラビア、エジプトと国境を接している(エジプトのみ海上で接続)。水面積はごくわずかで、南西部アカバ湾周辺が唯一の領海である。 少雨地帯であるヨルダンの主な水源は表層部を流れるヤルムーク川およびヨルダン川、各地に点在する地下帯水層である。可耕地はわずか4600キロ平方メートルであり、人口の大半は主要水源のある国土の西部・北部に集中している。ヤルムーク川とヨルダン川はヨルダンと周辺諸国の国境線を形成している。キリストの受洗で知られるヨルダン川は、ヨルダンとイスラエル、パレスチナ自治区の間を南北に流れ、最終的に死海に到達する。

人口
ヨルダンは、短期間に急激な人口増加を経験してきた。国際連合人口基金(UNFPA)の統計では、2022年9月時点での総人口は1030万人を超えている。(注1)2002年の世界銀行による統計では約531万人であったから、わずか20年で倍近くになった計算である。(注2) 都市部の人口増は顕著で、首都アンマーン行政区の場合、1946年に6万人強だった人口は1959年に約17万人、2003年に約200万人、2021年のヨルダン統計局によるデータでは約464万人に膨れ上がっている。(注3)急激な人口増加の背景には、自然出生率の高さに加え、難民の流入も大きく影響している。例えば第1次中東戦争(1948)と第3次中東戦争(1967)では、それぞれ約40万人と約50万人のパレスチナ人がヨルダンへ逃れた。1991年の湾岸戦争ではクウェートはじめ湾岸諸国から追放されたパレスチナ人がヨルダンに移り、2003年のイラク戦争では数十万人のイラク人がヨルダンに避難した。2011年のシリア内戦では、ヨルダンは一時200万人以上のシリア人を受け入れた。2022年8月時点で約67万人のシリア難民がヨルダンに居住しているが、これは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に登録済の難民の数であり、実数は倍近いとみられる。(注4)

言語
アラビア語を公用語としている(ヨルダン憲法第2条)。首都アンマーンや観光地では、英語も通じるところが多い。

民族構成
ヨルダンは、独立アラブ民族国家であり、国民はアラブ民族の一部であると宣言している(ヨルダン憲法第1条)。国内では50を超えるアラブ系部族が建国以前から定住しており、今日でも同族意識は強い。非アラブ系集団としては、19世紀後半にオスマン帝国領内から農民として集住した、チェチェン/シャルカスが知られる。かれらは建国当初から王国の支持基盤のひとつであり、現在もヨルダン下院で専用の議席枠を与えられている。パレスチナ系ヨルダン人については、実質的な人口多数派と言われることが多いが、それを裏付ける公式の統計は存在しない。

宗教
イスラームを国教としている(憲法第2条)。ヨルダンとイスラームのつながりは強く、王室はイスラームの預言者ムハンマドの出身一族ハーシム家に属し、王室のホームページでもその歴史的な関係を明記している。またヨルダンは今日でもエルサレムのイスラーム聖地管理を行っている。アンマーンはじめ西部や北部の都市圏では、建国以前から多くのキリスト教徒が定住しており、下院で専用の議席枠が与えられている。

国家の成り立ち
ヨルダンの成立過程を理解するためには、この地に英国とハーシム家がほぼ同時に進出した背景を整理する必要がある。1916年のアラブ反乱でハーシム家当主フサインと英国は協力関係にあったが、第1次世界大戦後、英国はフランスと共にアラブ世界の分割を開始した。1920年、英国はヨルダン川東岸に高等弁務官と政治将校を派遣し、地元部族との対話を試みつつ、支配の方向性を模索した。
この時期にフサインの次男アブドゥッラーが東岸に進出したことから、英国はかれを主君とする傀儡国家トランスヨルダンを成立させた。初代国王となったアブドゥッラー1世は英国の支配下で徐々に権力基盤を固め、1946年に完全独立を果たした。第1次中東戦争でアブドゥッラー1世は領土拡張を目指し、1950年に西岸を併合した。1951年に暗殺されたアブドゥッラーの後を継いだタラール国王は憲法改正や議会改革など法治国家としてのヨルダンの基盤を固めたが、持病のためわずか1年で退位した。
若くして即位したフサイン国王は、当時アラブ世界を席巻していた民族主義勢力との対立、第3次中東戦争の敗北と西岸の喪失(ヨルダンは1988年に西岸領有権を放棄)、1970年のパレスチナ武装勢力との戦い(黒い9月)などの紛争を乗り越え、ヨルダンの独立を守り抜いた。フサイン国王はイスラエルとの平和条約以降も中東和平に積極的に取り組んだが、1999年に死去、後をアブドゥッラー2世が継いで現在に至る。

ヨルダンの国会議事堂。手前は1916年アラブ反乱を記念する像。2022年8月に筆者撮影。

(ヨルダンの国会議事堂。手前は1916年アラブ反乱を記念する像。2022年8月に筆者撮影。)

政治体制
いわゆる君主制権威主義体制である。上院と下院の2院から成る議院内閣制であるが、最終決定権は国王の手中にある。1990年代初頭に政党結成の自由化や下院の権限強化が進められたが、その後は改革の遅れが指摘されている。

課題
ヨルダンの世論調査でしばしば上位に挙がる課題は、政治改革、民主化、経済改革、腐敗撲滅である。政治改革と民主化については、アラブの春を経て、野党が長い間求めてきた下院選挙法改正が実現し、地方選挙改革も実現した。社会運動も活性化し、大規模なデモや労働争議の件数も増えた。しかし「イスラーム国」やシリア内戦への対応が喫緊の課題になるにつれ、政府は安全保障を優先するようになった。また2020年に新型コロナウィルスの感染が拡大すると、政府は公衆衛生を理由に社会運動全般を取り締まるようになり、組合運動や国内最大のイスラーム主義組織ムスリム同胞団もその対象となった。 経済については、アブドゥッラー2世主導で経済の自由化が進められ、IT産業や観光業等の振興で一定の成果があった。しかし、ヨルダンでは高い出生率と多数の難民流入によって労働市場のミスマッチが慢性化しており、ここ30年ほどは失業率が高止まりしている。さらに、高度人材の海外流出も問題である。

大規模な再開発が進むアンマーン市のアブダリ地区。中央奥に、国内最大のアブドゥッラー・モスクと国会議事堂が見える。2022年8月に筆者撮影。

(大規模な再開発が進むアンマーン市のアブダリ地区。中央奥に、国内最大のアブドゥッラー・モスクと国会議事堂が見える。2022年8月に筆者撮影。)

(注1)https://www.unfpa.org/data/world-population/JO 、2022年9月1日アクセス。
(注2)https://data.worldbank.org/country/jordan 、2022年9月1日アクセス。
(注3)http://www.dos.gov.jo/dos_home_e/main/Demograghy/2017/POP_PROJECTIONS(2015-2050).pdf 、2022年9月10日アクセス。
(注4)https://data.unhcr.org/en/situations/syria/location/36 、2022年9月10日アクセス。

書誌情報
吉川卓郎「《総説》ヨルダンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, JO.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/jordan/country/