アジア・マップ Vol.01 | ヨルダン

《エッセイ》ヨルダンの都市
アンマン・ドライブ

佐藤 麻理絵(筑波大学人文社会系・助教)

 9月中旬でもアンマンはまだ暑く、強い日差しと乾いた風を頬に感じて、「ああ、この地に帰ってきた」と思う。車窓からは黄色と茶色の中間色とでもいうような地表面が、緩やかな起伏とともに続く。最初は窓全開でハンドルを握っていたものの、じわりと汗ばむのを感じて窓を締めた。日中の車内は常にクーラーを入れていなければもたない。コロナ禍以降、実に3年ぶりのヨルダン渡航である。

 今回は空港でレンタカーを借り、北部や死海周辺での調査を終えた後、アンマンで最後の一週間程を過ごす予定を組んでいた。北部へ向かうには、アンマンの西端を縦に走る道路をひたすら北上する。途中、右手には巨大なショッピング・モールが出現し、左手には王立公園と、その上のキング・フセイン・モスクを見上げる格好になる。同モスクはヨルダンを代表する国内最大のモスクとして知られ、ラマダーン中には礼拝の様子が国営放送で中継される。

 キング・フセインはヨルダンの初代国王である。現在は二代目アブダッラー二世国王に引き継がれ、息子であり次期国王と目される若きフセイン王子を横に従えながら、ヨルダンを率いている。世襲の君主制が敷かれ、比較的安定した政権運営が維持されており、先般の「アラブの春」も乗り切った。アンマンはそんな小国ヨルダンの心臓部にあたる。全人口は一千万人ほどでありながら、その半分近い400万人以上がアンマンに暮らす。そのため、密集度は一際高い。ヨルダン各地から、そして国外から人が集まり、国際色や活気に溢れる大都市圏をなしている。町中を歩けば観光客の姿もちらほらと見かけ、コロナ禍で停止していた国際的な人の往来も少しずつ戻っているようだった。代表的な産業の一つである観光業も、もう少ししたら以前のような活況を取り戻すだろう。

 アンマンの歴史は古く、中心には紀元前のローマ遺跡も残されている。歴史的には長らく空白の期間があったものの、1800年代後半に当時のオスマン帝国が露土戦争によるチェチェンからの避難民を受け入れたことで、彼らの定住が始まると、周辺にいた遊牧民の定住も進み、現在のアンマンの原型が出来上がる。その後パレスチナ難民の流入とともに人口は爆発的に増加し、難民キャンプも都市の一部となっていく。イラク難民やシリア難民をも受け入れながら、アンマンはさらに西へ西へと拡張し、懐の深い大都市圏が形成されていった。

 そんなアンマンに戻ると、見覚えのある海外チェーンのカフェ看板が目に入り、車線も交通量も、路上駐車の数も目に見えて多くなる。その中に流されるようにして車を走らせながら、ハンドルを握る手にはじっとりと汗をかいている。暑さもありながら、それは慎重さゆえの冷や汗であったと思う。それまで滞在していたヨルダン第二の都市であるイルビドも、交通量は比較的多かったが、アンマンの比ではない。

 市内の運転で一番の難所は、ドワールと呼ばれるロータリーの攻略だろう。アンマンの道路に、信号はそこまで多くない。その代わり、左右四方に伸びる道路を丸いドワールがぐるりと囲む。ぐるぐると流れる車列に入り込む度胸、自分の出たい道路にえいやと出るための自己主張が必要だ。もたもたしていると「なんで先に進まないんだ」との視線を感じ、先を急ごうとすれば行き先を阻むようにして真横まで車列が迫る。そんな車列を見やれば、運転席にはたいてい恰幅の良いおじさんが、手首を前に突き出して上下に揺らしながらどかっと座っている。その手は指先がキュッと詰まっており、多分アラブ世界に共通の「ちょっと待て」の合図が繰り出されている。

 交通整理の警官が立つ場合もあるものの、ほとんどのドワールが運転手の完全なる民主主義の元で、譲ったり譲られたり、割り込んだり割り込まれたりしながらぐるぐる周る。平日の日中や週末にあたる金曜の朝、夜中などはすいすいと進むのだが、ラッシュの時間の渋滞に巻き込まれると、難易度はぐっと上がる。そもそもドワールに入るまでに全く動かなくなる場合すらある。苛立つ運転手がクラクションを鳴らし、それが連鎖するように断続する。ようやく動いたかと思うと、ドワールまであとちょっと、というところでまた停止の合図。そうなると、ドワールに入れても、先を急ぐ車でその中は一種のカオス状態である。行き先の道路に出られるかは、ドワールのどの辺りを運転し、どのくらいのタイミングで道路側にすり寄るかが肝心だ。周りの動きを予見しながら、且つ予想外の動きにも万全の注意を払いながら進む必要がある。

 アンマン市内でもよく混むドワールの一つが、ドワール・ダーハリーヤだ。名前の由来はドワールの側にある内務省に因んでいる。ラッシュ時にはドワールに入るまでにも随分と待たされるし、端っこの方を歩行者も多く行き交う。左右四方に伸びる道路の一つはヨルダン大学方面に続き、その道路脇に停車するセルビス(乗り合いのバン)乗り場は学生と思しき若者たちで連日ごった返す。セルビスからは行き先を合図する掛け声が、周りの車からはクラクションが聞こえ、ドワールの一帯は一際にぎやかだ。

 何日か運転をしていると、なんとなく感覚が掴めた感じがして、ラジオから聞こえてくる音楽を楽しむ余裕も出てきた。ドワールに入るタイミングも、周りの車と自然と合ってくるから不思議である。周囲との阿吽の呼吸で、出るタイミングもスッと決まる。一度コツがつかめれば、ドワールをすいすいと信号に止められることなく運転が出来るアンマン市内はとても心地よい。窓を締め、クーラーを効かせ、市内を走る。クラクションが鳴っても我関せず、の域に達したときには、アンマンを生き抜くってこんな感じか、と流れる町並みを横目に見ながらぼんやり思った。

1. アンマン市内の様子

1. アンマン市内の様子

2. 北部へ向かう道中の車窓

2. 北部へ向かう道中の車窓

3. アンマン市内道路の様子

3. アンマン市内道路の様子

書誌情報
佐藤麻理絵「《エッセイ》ヨルダンの都市 アンマン」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, JO.4.04(2023年5月16日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/jordan/essay02/