アジア・マップ Vol.01 | フィリピン

《総説》
フィリピンという国

清水 展(関西大学政策創造学部・特任教授)

フィリピン共和国は、国土面積が30万平方キロメートルで日本の8割ほどの大きさ。地理的には日本列島の奄美・沖縄から台湾を経て南下した先、北緯20度から5度のあいだに位置する。国土は7641の島々から成り、その数は日本より多く世界第7位である。それゆえ島々を結ぶ内海航路が発達し、関係して外洋船の船長や船員として多くのフィリピン人が世界中で活躍している。日本の経済を支える国際貿易を担う外洋船の船員の7割以上がフィリピン人である。

 地理的には、首都マニラ(人口1,300万人)のある北のルソン島、その南にあって中小の島々が多いヴィサヤ地域(フィリピン諸島の中央部)、さらに南のミンダナオ島が主要な構成体となっている。全国には81の州があり、州は市(City)と町または郡(Municipality)からなり、その下の最小行政単位は区または村(Barangay)からなる。それぞれの役職者(長や議員)は選挙で選ばれる。20世紀前半にアメリカの植民地支配を受け、アメリカ式の統治が移植されたため、議会と選挙そして民主主義の理念や建前が重要となっている。

 ミンダナオ島の南にはインドネシアのカリマンタン島(北部はマレーシア領北ボルネオ)がある。日本からインドネシアに至るこの帯状の島嶼地域は、太平洋プレートがユーラシアプレートにぶつかる西辺縁にあり、そこに蓄積された地殻エネルギーの放出によって定期的に巨大地震に襲われてきた。そのほか火山噴火や台風、洪水、時に干ばつなどの自然災害が多発する地域である。太陽と水の恵み、そして海の幸に恵まれた豊かな生活基盤がある反面、自然の猛威も受けながら人々が暮らしている。

 フィリピンは民族的にはマレー系が主体であり、ほかに中国系やスペイン系そして少数民族(先住民)がいる。国語はフィリピノ語(マニラを中心とするルソン島中部で話されるタガログ語を母体として外来語やフィリピン諸語などを取り入れる)、公用語はフィリピノ語及び英語、そして少数言語を含めれば180以上の異なる言語がある。宗教はASEAN唯一のキリスト教国であり、国民の83%がカトリック、その他のキリスト教(プロテスタントやイグレシア・ニ・キリスト)が10%、イスラームが5%、その他である。

 政体は共和制で正副大統領はそれぞれ直接投票により選出され、大統領の任期は6年で再選禁止、副大統領は任期6年で再選が一回まで可能である。議会は二院制で、上院は24議席で任期は6年、連続三選が禁止。下院は311議席で任期3年、連続四選が禁止されている。現在の元首(2022年5月〜)はボンボンの愛称で呼ばれ、第10代大統領として20年にわたり(1965年12月〜1986年2月)強権的な政治支配をしたフェルディナンド・マルコス大統領の長男である。父親の治世の前半は「中央からの革命」による「新社会の建設」を掲げて政治的安定と経済的成長を図り「アジアのケネディ」とも称された。しかし後半は一次産品(農産物や木材)の値下がりや輸出指向型の経済振興策の失敗によって成長が鈍化し、国民の不満が高まった。それとともに1970年代終盤から非合法の共産党・新人民軍が地方で勢力を増し、国軍との衝突が激しくなっていった。

 そして1983年8月に亡命先のボストンから帰国したベニグノ・アキノJr.が、白昼のマニラ空港で搭乗していた飛行機から2人の国軍兵士に前後をはさまれて連行されタラップを降りてゆく途中、後ろから後頭部を銃撃されて暗殺された。野党のリーダーと目されていたニノイ(アキノJr.の愛称)の真昼間の暗殺を契機に反マルコスの市民運動が急速に盛り上がった。街頭デモ("street parliament")や集会が頻発し、最終的にはピープルパワー革命(1986/2/22~25)によってマルコス体制は崩壊した。大統領一家はマラカニアン宮殿からヘリコプターでクラーク米空軍基地へ逃れ、そこから軍用機でハワイに亡命した。マルコス大統領は在任中の人権弾圧や汚職・不正蓄財などを厳しく批判され、その遺体をフィリピンに連れ戻したいとの遺族の希望は長らく認められなかった。しかしドゥテルテ大統領(2016年6月〜2022年6月)のときに遺体の帰還と国家英雄墓地への埋葬が認められ、マルコス大統領の評価が大きく変わる契機となった。

 ピープルパワー革命は国の中心的な幹線道路(エドサ通り)を非武装の市民が座り込みで占拠して平和裡に達成した「革命」であり、リアルタイムで世界中に衛星・実況中継された。テレビ局の取材クルーや新聞雑誌記者のカメラの注視が、座り込む市民と最前列で対峙する装甲車や兵士の発砲や突入を押し止めた。その映像は平和革命の方途として、他国の独裁的な政権を打倒する運動に大きな刺激と示唆を与えた。それは韓国(1987年民主化運動)やミャンマー(1988年8888運動)や中国(1989年天安門事件)、さらには東欧の共産圏諸国の反政府運動へと続き、ベルリンの壁の崩壊(1989年)や社会主義政権の打倒と東西冷戦の終わり、ソ連邦の解体に至る導火線の発火点となった。

 フィリピンの現在の人口は現在1億1千100万人ほど。私が初めてフィリピンに留学した1977年には4360万人だったので、この45年間で人口は2.5倍に増えている。その間に日本の総人口はほとんど横ばいのままで、年齢別構成比だけが大きく変わった。当時30歳弱だった日本人の平均年齢は現在では48歳となり少子高齢化が急速に進んでいる。日本では女性一人が産む子供の平均数(合計特殊出生率)は1.35(2020年)であり、将来さらに人口減が進行してゆく。対してフィリピンでは2.6(2020年)である。過去を振り返れば1990年は4.3、2000年は3.8、2010年は3.2であり、これから30年ほどは人口ボーナスが続き持続的な経済成長の原動力となることが期待されている。

 IMFでフィリピンを担当した経歴をもつ日銀エコノミストの井出穣治の新書『フィリピン:急成長する若き「大国」』(2017, 中公新書)が掲げる3つのタイトル・キーワード(成長、若さ、大国)が、フィリピン経済の現況と将来を的確に示している。かつて経済不振に苦しみ「アジアの病人」とまで揶揄されたフィリピンは、近年そのイメージを一新している。世界経済のグローバル化とIT化の急速な進行の波に乗り、海外マーケット向けのサービス業が経済を力強く牽引している。なかでも成長が著しい分野はBPO(ビジネス・プロセシング・アウトソーシング)産業である。顧客企業から業務の一部を請け負って代行するビジネスである。具体的には1)コールセンター(カスタマーサービス)、2)バックオフィス(人事、財務、会計などの企業の内部管理)、3)ソフトウェア開発、4)アニメーション・ゲーム制作、5)トランスクリプション(医療や裁判記録のデータ化)などである( 同上、36頁)。

 長期的に振り返ると、21世紀に入った2000年から2021年までの21年間のフィリピンの実質的なGDP成長率の平均は5.8 %である。その間2007年のリーマン・ショックや2020年のCOVID-19の流行による世界的な経済の停滞に連動した落ち込みを除けば、毎年6〜7%の持続的で安定した成長を維持している。経済成長の原動力はサービス業の急成長とともに海外出稼ぎによる仕送りの寄与も大きい。フィリピン中央銀行によれば2021年の在外フィリピン人の本国への送金額が前年比で5.1%増の349億ドル(約4兆円)であり、2019年(335億ドル)を上回って過去最高額を更新した。人口の1割強を占めるとされる出稼ぎ労働者による送金が、新型コロナウイルスの感染拡大で厳しいロックダウンを長期間続け打撃を受けた経済や、個人消費を下支えした。

 フィリピン人の出稼ぎの特徴は、ほぼ半数が女性であることである。かつては住み込みのハウスメイド職が多かったが、近年では看護師や介護・養護者(care-giver)ほか専門職が増えている。看護学校は海外に出て高収入を得るためのステップとなっている。フィリピンでは女性が専門職に就く比率が高く、国内でも企業や官庁、大学などで役職に就いており男女差はほんどない。それはフィリピンでは性差よりも階級差が社会的な分断線となっているからである。マニラと地方の違いは大きいが、マニラでも地方でも富裕層と貧困層の分断のほうが顕著である。富裕層は男女の別なく子弟に高等教育を受けさせ、女性も卒業後は専門職としてキャリアを重ね結婚後も働き続ける。家事育児は住み込みや通いのお手伝いが代替してくれる。他方で貧困層でも女性も働くことが当然と考えられており、働く女性の子供たちを近くに住む親戚やスタンバイ(失業中)の夫が世話をすることが普通である。

 海外出稼ぎに関しては、短期的な雇用契約(2〜3年)によって単身で海外に出稼ぎに行く就労者(200万人/年ほどが出国)のほか、永住権や市民権を得て家族とともに生活している永住的移民も多い。正確な統計数字は不明だがおそらく500万人前後と推定される。フィリピン人にとって海外へ出稼ぎに出ることの心理的な壁が低いのは、英語によるコミュニケーション力とキリスト教の信仰と関係していると推察される。世界中のどこに行っても英語で意思疎通ができること、またほとんどの都市には教会がありそこの日曜ミサにゆけば同胞同郷人に会えること。さらにミサの後に情報交換したり、地元の信者や支援組織のネットワークにもアクセスしやすいことなどで安心感があり、別の国、新しい土地に入ってゆきやすい。

 キリスト教と英語という現在のフィリピン人のグローバルな活躍を支える生存基盤は、フィリピンがスペインに330年間(1571~1898)、アメリカに半世紀弱(1899〜1942)の植民地支配を受けたことと関係している。フィリピンではスエズ運河の開港(1869)にともなって国際貿易と経済活動が活発となって富裕層が形成され、地方の大地主だけでなくマニラの貿易商会で働くメスティーソの子弟などがサント・トーマス大学(1611年創立、現存する大学の中ではアジア最古)で学んだり、スペイン本国に留学できるようになった。彼らがフィリピン人であることを自覚し、フィリピン・ナショナリズムを評論や小説をとおして言語化し意識化させていった。その代表がホセ・リサール(1861〜1896)であり、彼はアンドレス・ボニファシオが組織した革命結社カティプーナンがマニラで武装蜂起したとき、それを教唆した首謀者としてスペイン政庁に反逆罪で囚われ処刑された。その日(12月30日)はアメリカ統治時代にスペインの圧政の象徴として祭日とされ、学校教育でリサールの生涯と思想を学ぶことが必修とされてきた。

 日比関係については、アジア太平洋戦争中に日本軍は60万人の将兵をフィリピンに派遣し、48万人が戦病死した。戦死よりも餓死や病死が多かった。武器弾薬、食料が尽きた後も投降を拒み山奥に逃げ込んで持久戦を試みたからであった。フィリピンで日本軍は最大の犠牲を出したが、フィリピン側は政府の公式数字として110万人が犠牲となっている。彼らの大半はゲリラおよび戦闘の巻き添えとなった民間人であった。戦争末期のマニラ市街戦では、山下将軍の無血開城の決定を無視してマニラ海軍防衛隊および幾つかの陸軍残置部隊が徹底抗戦を続けたため、1万6千人の日本軍はほぼ全滅、アメリカ軍は1千人ほどが戦死、それ以上に11万人のマニラ市民が巻き添えとなって殺された。

 日本軍の拷問や虐殺について、私が初めてフィリピンに留学した頃は、家族や親族の経験として直接に話を聞かされることもあった。しかし、その後に「じゃぱゆきさん」や国際結婚をとおした草の根の交流が深まるとともに、「今の日本人は昔の兵隊とは違う」と言ってもらえるようになった。けれど過去を消すことも歴史を書き換えることもできない。それらを引き受けて、より良い日比関係を作ってゆけたらと心から願っている。

<参考文献>
井出穣治 2017『フィリピン:急成長する若き「大国」』中公新書。
大野拓司・鈴木伸隆・日下渉(編著)2016『フィリピンを知るための64章』明石書店。

マニラ空港に着陸した中華航空機から、国軍兵士に連れ出されるベニグノ・アキノJr.。この後、タラップを降りて行く途中、祖国の土を踏む直前に背後から後頭部を銃で撃たれ暗殺される。(1983年8月21日)白昼夢のような暗殺は、それまで「羊のように押し黙っていた」市民が街頭に出て反政府のデモに参加する契機となった。

マニラ空港に着陸した中華航空機から、国軍兵士に連れ出されるベニグノ・アキノJr.。この後、タラップを降りて行く途中、祖国の土を踏む直前に背後から後頭部を銃で撃たれ暗殺される。(1983年8月21日)白昼夢のような暗殺は、それまで「羊のように押し黙っていた」市民が街頭に出て反政府のデモに参加する契機となった。

繰り上げ大統領選挙(1986年2月7日)の開票結果はマルコス勝利とする中央選管に異を唱え、アキノ勝利を支持してクーデター決起した国軍改革運動(RAM)の指導者ホナサン大佐(左)とエンリレ国防大臣(中)、ラモス将軍(右)。3人の背後には聖母マリア像が高く掲げられている。ピープルパワー革命の平和理の達成は「神の恩寵に護られた奇跡の顕現」と事後的に解釈された。革命の舞台となったEDSA通りの正式名称がEpifanio de los Santos Avenue(人名から採られたが、「聖人たちの顕現」という意味)であることも、その物語の生成に寄与した。

繰り上げ大統領選挙(1986年2月7日)の開票結果はマルコス勝利とする中央選管に異を唱え、アキノ勝利を支持してクーデター決起した国軍改革運動(RAM)の指導者ホナサン大佐(左)とエンリレ国防大臣(中)、ラモス将軍(右)。3人の背後には聖母マリア像が高く掲げられている。ピープルパワー革命の平和理の達成は「神の恩寵に護られた奇跡の顕現」と事後的に解釈された。革命の舞台となったEDSA通りの正式名称がEpifanio de los Santos Avenue(人名から採られたが、「聖人たちの顕現」という意味)であることも、その物語の生成に寄与した。

リサール記念碑で供花する天皇皇后両陛下(2016年1月27日)。この後フィリピンの戦没者を祀る英雄墓地にも参拝され、フィリピン側の対日感情を宥和した。

リサール記念碑で供花する天皇皇后両陛下(2016年1月27日)。この後フィリピンの戦没者を祀る英雄墓地にも参拝され、フィリピン側の対日感情を宥和した。

書誌情報
清水展「《総説》フィリピンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, PH.1.02(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/philippines/country/