アジア・マップ Vol.01 | フィリピン

《エッセイ》
フィリピンと私

舟橋 豊子(立命館大学政策科学部・准教授)

 「なぜ、フィリピンを研究しているのか」とよく尋ねられる。私はフィリピン人に間違えられることが多いので、尋ねる人は、私がフィリピンに由来があることを期待しているのかもしれない。しかし、残念ながら、私はフィリピン人の祖先や親戚を知らない。ただ、調査研究には有利である。インタビュー相手が緊張しないどころか、逆にタガログ語で話しかけられてしまう。

 フィリピンとの初めての出会いは、2007年に訪れたセブ島の語学学校であった。それまでは、仕事の休みを利用して欧米各国に短期の語学留学で訪れていたが、あるとき、近くにある東南アジアには行ったことがないことに気づき、公用語が英語で、英語学校があるフィリピンに関心を持った。未知の場所であり、少々怖いので英語学校の寮に入った。

 フィリピンは治安が悪く、怖いイメージがあった。しかし、実際にフィリピンを訪れてみると、陽気な人々にとても親近感を感じたのであるが、帰国後、たまたま見ていたテレビのドキュメンタリー番組にショックを受けた。第二次世界大戦中のマニラ湾で米軍からの砲撃に対抗するため、日本軍が一般のフィリピン人を盾とした内容であった。そのような悲しい歴史があったのにも関わらず、そして、セブ島ではもっとたくさんの悲劇があったというのに、私が初めて出会ったフィリピンの人たちは、戦争について一言も口にしなかった。

 フィリピンの歴史は、スペイン統治以前(1521年以前)、スペイン統治時代(1521〜1898年)、アメリカ統治時代(1898〜1945年)、独立以後(1946年以後)の4つに大きく分けられる。日本のフィリピン占領は第二次世界大戦中の1942年から45年にかけてである。そのためだろう。言葉や食事、習慣はこうした国々の影響を受けている。フィエスタ、クリスマス、イースターはカトリックの影響である。ミンダナオ島ではイスラム教徒が多いものの、フィリピン全体でみると9割以上がカトリック教徒である。そして、ラテン気質の彼らに人生とは楽しむものであると教えられる。何度も他国に統治されながらも、その時々に強く生き抜いてきた彼らの生きる知恵であろうか。

 マニラ首都圏からバスで南東に3時間程度のカビテ州の友人の家では、第二次世界大戦中にお祖母さんが日本軍から逃避するため、1週間以上も山に隠れた話を聞いた。マニラ首都圏から北に2時間程度のパンパンガ州では、村の男性たちが虐殺され、女性たちは日本兵に「赤い家」に連行された。この家は今も残っている。

 2010年、私は大学院の博士課程に進学し、フィリピンについての研究を始めた。主に小売業や製造企業を対象として、現地調査や文献研究を進めてきた。聞き取り調査のため、フィリピン全土に広がるサリサリストア1を200店余りは訪問しただろうか。バスやジプニー2、トライシクル3、フェリーに乗り、山を越え、谷を越え、海をわたった。その調査を踏まえて『フィリピンのサリサリストア-流通構造と人々のくらし-』を2021年8月に出版している。

中部ビサヤ地方の村にて。民家に併設されたサリサリストア。

中部ビサヤ地方の村にて。民家に併設されたサリサリストア。

ジプニー。フィリピンのどの地域に行ってもみられる住民の移動手段である。

ジプニー。フィリピンのどの地域に行ってもみられる住民の移動手段である。

 博士課程で頻繁にフィリピンに行き始めたのは、元はといえばBOPビジネスに関心をもったからであった。BOPはBase of the Pyramidの略であり経済ピラミッドの底辺を示している。ビジネスで貧困を解決する、金銭を恵むだけでなく、魚を与えるだけでなく釣り方を教える。私はこの考え方に強く共鳴し、事例をまとめて博士論文に取り組みたいと思った。残念ながら、BOPビジネスについて書籍では事例の記述があるものの、局地的な取り組みであり、フィリピンの現地の人にそのような事例はないかと尋ねると、知らないという。そして、貧困を解決するには「寄付」だという。これは、格差社会のフィリピンだからこそではないか。あるいはキリスト教の慈悲からくるものだろうか。フィリピンでは、生まれながらにして極度の貧困状態にあり、努力だけでは這い上がれない人たちも多い。

 フィリピン全体をまとめて「貧困」だけを語るのは不適切であろう。フィリピンには、それぞれの暮らしがあり、愛情豊かで、家族の結束が固い。父が存命だったころ、大家族で結束が固く、金銭的にも助けあうフィリピン人の暮らしを話すと、懐かしそうに「昔の日本もそうだった」と言った。

 立命館大学では政策科学部の授業の一環として、毎年、二回生のフィリピンプロジェクトのメンバーがフィリピン各地に訪れて学ぶ機会がある。貧困や格差社会の解決に向けて、私達に何ができるだろうか。所詮、私達は日本から来たよそ者かもしれない。「なぜ、日本人である私がフィリピンの貧困解決に取り組まなければならないのか」。この問いに、以前、NGOのスタディツアーで出会った一人の女子学生は「気づいた人が課題解決のために取り組めばよい」と言った。

 これからもフィリピンの研究を続けたい。そして、関わった学生たちが少しでもフィリピンに関心をもち、そして、国内外の課題に目を向けるきっかけとなれば嬉しい。

マニラ首都圏のマカティにて。オフィスとコンドミニアム(マンション)が広がる。

マニラ首都圏のマカティにて。オフィスとコンドミニアム(マンション)が広がる。

1雑貨店。
2フィリピンの公共路線バス。トラックの荷台や軽ワゴンなどの車体を改造している。
3バイクに片輪のサイドカーがついた三輪車。

書誌情報
舟橋豊子「《エッセイ》フィリピンと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, PH.2.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/philippines/essay01/