アジア・マップ Vol.01 | アフガニスタン

《エッセイ》アフガニスタンの都市
カブール

嶋田晴行(立命館大学国際関係学部・教授)

厳しくも美しい街
 日本では「カブール」と表記されるアフガニスタンの首都は、かつて(おそらく1970年後半まで)日本では現地の発音に近いとされる、「カーブル」と呼ばれていた(それでも現地での発音からは離れるのであろうが)。現在の呼称となった経緯については単なる「勘違い」など諸説あり筆者も詳しくないが、ここでは日本のメディアなどで通常使われている「カブール」を使う。

 そのカブールは海抜およそ1,800メールの高地に位置し、アフガニスタン自体が内陸国であり海からも遠いため寒暖の差が激しい。年間でも夏は摂氏40度を超える日があれば(5月くらい)、冬は氷点下20度を下回る日もある。そして1日の中でも朝晩と昼間の気温差は大きい。何よりも乾燥が激しく、そして紫外線の強さもあり、日本と違い肌のケアなど十分にできない人々の肌のひび割れや深く刻まれた皺を見て、気の毒に思ったものである。あるいは、日差しの強さから洗濯物は信じられない早さで乾き、取り込み忘れて放っておくとひどいダメージを受ける。

 このように書くと、アフガニスタンの「良くない」イメージと相俟って、随分と厳しく住みにくい土地と思われるかもしれない。ただ、早朝や夕方に響くモスクから流れるアザーンと溶け合う古い街並み(開発は随分と進んでしまったが)、ブッチャー・ストリートやフラワー・ストリートといった市場の活気(写真1、2)、季節ごとに移動する遊牧民がヒツジやヤギを連れてエサを求めて朝晩市内を歩く光景(写真3)、冬の真っ青な空と雪景色のコントラスト、そして厳しい冬が終わり、花々が咲き誇る春の美しさは(写真4)、現地での暮らしでしか味わえないものである。かつて1960年代から70年代半ばにかけて、バックパッカーの楽園と呼ばれた面影は確かに残っている。

写真1 ブッチャー・ストリート

写真1 ブッチャー・ストリート

写真2 フラワー・ストリート

写真2 フラワー・ストリート

写真3 家畜のエサを求めて市内を巡る遊牧民

写真3 家畜のエサを求めて市内を巡る遊牧民

写真4 春−アンズの花

写真4 春−アンズの花

 カブールのどの場所からも大抵は見ることができるランドマーク的なアスマイ山(各放送局の中継基地とアンテナが設置されているので「通称テレビ山」(写真5))は、その頂上に登れば市内を一望でき、彼方には標高5,000メートルを超えるヒンドゥー・クシュ山脈を望める。市内に目を向ければ、かつて築かれた城壁(シェール・ダルワザ)や砦(バラ・ヒサール)がこの街の歴史を物語る。そしてダル=ラーマン宮殿を中心とする旧市街と商業施設が立ち並ぶ新市街、さらに近郊の避暑地である湖(カルガ湖)まで見渡すと、カブールの大きさがわかる

写真5 ア冬のアスマイ山

写真5 ア冬のアスマイ山

写真6 アスマイ山から旧市街を見渡す

写真6 アスマイ山から旧市街を見渡す

憧れと混乱の象徴
 中央アジアに興りムガル帝国を築き上げた初代国王のバーブルはカブールの気候・風土を愛し、今もこの地に眠っている。現在アフガニスタンと呼ばれる国家として統一したとされるアフマド・シャー・ドゥッラーニーの息子ティムールが、それまで政治の中心であった南部カンダハールの有力者たちの影響力を避け距離を保つため、1775年にカブールへ首都を移した。それ以来、カブールはアフガニスタンの首都として政治、経済の中心として繁栄と混乱を経験してきた。

 過去40年間に限っても、1979年12月のソ連軍の侵攻とその後の抵抗、1990年代前半に国内各派が繰り広げた内戦、治安は保たれたが独自のイスラーム解釈による厳しい統治下にあったタリバン(この標記も日本の一般的なものに準ずる)政権時代と、「安定」したとは言えない状況をカブールとそこに住む人々は経験してきた。

 2001年の前のタリバン政権の崩壊後、多くの人々が海外からあるいは地方からカブールを目指したことで人口は急激に増大し、正確な数字は不明なままだがその数は500万人とも600万人ともいわれている。1960年代に人口30〜50万程度を想定して計画されたカブールは、道路網、電力供給、上下水道や廃棄物処理といったインフラの供給能力が限界をはるかに超えている。

 そのような中で、普段余り取り上げられることはないが、カブリー(カブールっ子)が生活する上で大きな課題となっていたのが「水」の確保である。市内にはカブール川が流れるが、夏場は涸れることが多く、古代に蓄積したとされる地下水に頼るにも限界がある。アイデアとしては遠くヒンドゥー・クシュ山脈に積もった雪解け水や北のパンジシール川から導水するという案もあるが、莫大なコストと治安の面ですぐ実現することは考えにくい。中東のみならず世界では「水」をめぐる争いは絶えないが、カブールもその問題を抱えている。

 そのような活気と混乱の中で、カブールのみならずアフガニスタン経済を支えていたのは海外からの支援と駐留する外国軍の存在であった。しかし、外国軍は撤収し、2021年8月15日のタリバンの政権再掌握以降、大部分の支援は停止されている。

 NGOや国連を通して様々な支援は続いているが、「国家」として承認されないままの状況では、根本的な問題解決へ向かうことは難しい。そして、そもそも支援に頼らなければ政治・経済的に成り立たない構造の「国」を安定させていくことは、外部の助けを利用しながらもそこに住む人々自らが立ち向かわねばならないことでもある。

 そのような混乱と束の間の安定を繰り返してきたこの街は、今、また気楽には行けない場所となった。だからこそ、この街を経験したもの、そして行ったことがないものを誘(いざな)う魅力があるのかもしれない。

参考文献
関根正男「カーブル−国の激動の歴史を体現している都市」、前田耕作・山内和也編著『アフガニスタンを知るための70章』第41章、明石書店、2021年。
デュプリ、ナンシー・ハッチ『アフガニスタン 歴史と文化の旅』日本・アフガニスタン協会訳、日本・アフガニスタン協会、1974年。
Barfield, Thomas, Afghanistan A Cultural and Political History Second Edition, Princeton University Press, 2023.
Rubin, Burnett, Afghanistan What everyone needs to know, Oxford University, 2020.

書誌情報
嶋田晴行「アフガニスタンの都市」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.1, AF.3.05(2023年9月5日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/afghanistan/essay02/