アジア・マップ Vol.01 | タイ

読書案内

玉田芳史(放送大学京都学習センター所長/特任教授)

一般向け
柴田直治『バンコク燃ゆ:タックシンと「タイ式」民主主義』(めこん、2010年、345頁)
 タイの現代政治については現地に駐在して取材をした新聞記者によって書かれた好著が多い。本書は民選政権を打倒した2006年クーデタから、それに抗議する民衆を容赦なく弾圧した2010年にかけての時期の政治を扱っている。現代タイ政治でもっとも熱いその時期を、偏向したタイの「知識人」からの情報に惑わされることなく、著者自身の見聞と勘に基づいて生々しく描き出している。
野津隆志『国民の形成:タイ東北小学校における国民形成のエスノグラフィー』明石書店、2005年、286頁
 本書は教育省の政策と、東北地方でのフィールドワークを重ね合わせることによって、学校教育を通じて、仏教や国王を介して、子供たちにどのように国民意識(臣民意識?)が植え付けられてきたのかを具体的に描き出している。教育に関する専門書ながら、門外漢にも分かりやすく、教育の視角からタイの社会や政治がよく見えてくる。2020年以後若者の間で君主制や学校への批判が湧き上がる背景を理解するのにも役立つ。
ニティ・イーオシーウォン『当てにならぬがばかにできない時代』(吉川利治訳、NTT出版、2000年、220頁)
 ニティはタイを代表する歴史学者であり、この四半世紀は社会、文化、政治、経済などの幅広い分野の評論を多数執筆し、権威に阿ることのない鋭利な分析のゆえに、現代タイで最高の知性として尊敬されている。本書は、タイ語でしか書かない彼の評論を翻訳したものである。論理明晰ながら読みにくい彼の文章が明快な日本語へと見事に訳されている。タイ社会の解剖図のような評論集は、タイ理解を助けてくれる。
川口洋史『文書資料が語る近世末期タイ:ラタナコーシン朝前期の行政文書と政治』(風響社、2013年、67頁)
 タイの近代国家はどのように生まれたのか。本書はこの問いに、公文書の渉猟と読み込みを通じて、斬新な答えを提示する。5世王(在位1868-1910年)の偉業とする通説に対して、本書は現王朝(1782年~)における行政文書の分量や内容の変遷を検討して、3世王(1824-51年)治世に大きな変化が生じたことを明らかにする。国王の文書業務や大臣の素性などに依拠した独創的で明晰な分析は説得力がある。小品ながら、文献歴史学の面白さと著者の力量を教えてくれる力作である。
末廣昭『タイ中進国の模索』(岩波新書、2009年、203+17頁)
 著者は世界に冠たるタイ経済研究者であり、おびただしい数の著作がある。英語からタイ語へ訳された『タイにおける資本蓄積』、日本語から英訳された『キャッチアップ型工業化論』など枚挙にいとまがない。著者は専門の経済にとどまらず、政治・社会・文化・歴史などにも好奇心旺盛に目配りして著述を進めることで、読者にタイを立体的に理解させてくれる。本書は1990年代からの20年間の政治経済を明快に説明している。
研究書
柿崎一郎『鉄道と道路の政治経済学』(京都大学学術出版会、2009年、488頁)
 著者はタイの公文書館での一次資料の徹底的な渉猟に基づいて、鉄道を中心とした交通網の整備や物品や人の輸送の歴史を詳細に分析・叙述する作品を何冊も著してきた。研究は、1)交通史、2)物品輸送と社会経済史、3)駐留日本軍と鉄道、に大別できる。作品の中に英語とタイ語に訳されたものが2冊ずつあることが、著者の研究の質の高さを証明している。多くの作品からあえて1冊ということなら、本書を選びたい。
遠藤元『新興国の流通革命』(日本評論社、2010年、261頁)
 著者はタイの流通について地道な現地調査に基づいて研究を積み重ねている。本書は、百貨店、スーパーマーケット、コンビニエンスストアの興亡史を、外資と地場資本の攻防、さらにそれらの店舗に商品を納入する消費財メーカーの奮闘から描いている。本書を読むと、タイの小売業界の全体像をつかめる。著者が寄稿する『コンビニからアジアを覗く』(日本評論社、2021年)の併読もお勧めしたい。
飯島明子・小泉順子編『世界歴史大系タイ史』(山川出版社、2020年、422+97頁)
 タイの仏教や歴史の研究で大きな足跡を残した石井米雄先生の功績ゆえに、山川出版社が世界歴史大系シリーズのなかで東南アジアから唯一タイだけを扱う1冊として出版した。先史時代に始まり、スコータイ、アユタヤーを経て、バンコク時代に至る通史が、第一級の研究者によって多角的に描かれている。上っ面だけではなく内奥までタイを理解したい人には必読の1冊である。
櫻田智恵『国王奉迎のタイ現代史:プーミポンの行幸とその映画』(ミネルヴァ書房、2023年、354頁)
 本書は、一次資料をふんだんに使用し、前国王プーミポンが実施した地方行幸とその奉迎、及びニュース映画である「陛下の映画」の急速な伝播に着目し、民衆が崇敬する「プーミポン国王神話」が形成される過程を描きだした力作である。タイの君主制については、不敬罪があることなどを理由に研究があまり進んでこなかったが、本書を通じて、なぜタイでは君主制が大きな影響力をもち、また民衆も大きな関心を払うのかという根本的とも言える疑問が解明されている。
玉田芳史『民主化の虚像と実像』(京都大学学術出版会、2003年、364頁)
 タイでは、1992年5月の政変をきっかけとして、都市中間層が主たる民主化推進勢力という説明が有力になり、都市中間層の政治的発言力が高まった。本書は、都市中間層が政変の主役ではなかったこと、都市中間層が支持した政治改革が民主化と矛盾することを明らかにしている。21世紀に入って多数決民主主義が定着し始めると、都市中間層は最大の抵抗勢力という馬脚を現すことになる。

書誌情報
玉田芳史 「タイの読書案内」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, TH.5.03(2023年9月5日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/thailand/reading/