アジア・マップ Vol.02 | インド
《総説》 インドという国
仏教からみるインドの社会と宗教
インドと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。たとえば、自然環境でいえばガンジス川やデカン高原、建築物のタージ・マハル、食文化でいえばカレーやチャーイなどが浮かぶだろうか。また社会的にはカースト制度、宗教ではヒンドゥー教や仏教などが挙がるかもしれない。本小論では、このうち、「カースト」と「仏教」が交差する事象についてとりあげたい。すなわち、「不可触民」iとされる人びとによる仏教改宗である。この事象の考察をとおして、インド社会における宗教の様相を見通してみたい。
インド社会における宗教の概況「多様性社会」と形容されることが多いインドであるが、「宗教」もまた多様性を有している。多数派であるヒンドゥー教をはじめ、イスラーム、キリスト教、シク教、仏教、ジャイナ教、そしてゾロアスター教やユダヤ教、さらには少数先住民による土着の信仰体系も挙げることができる。人口統計上は、2011年のセンサスiiによれば、人口比の割合が高い順に、ヒンドゥー教(79.8%)、イスラーム(14.23%)、キリスト教(2.3%)、シク教(1.72%)、仏教(0.7%)、ジャイナ教(0.37%)となるiii。
ただし、地域によってこれらの割合には多寡があり、特色ある州が少なくないことも留意を要する。たとえばシク教徒が半分超を占める北西インドのパンジャーブ州(57.7%)や、キリスト教徒の割合が比較的高いアラビア海に面したゴア州(25.1%)やケーララ州(18.4%)などを挙げることができようiv。
ところで、上で記したように、日本においてインドは「仏教発祥の地」として広く知られ、仏教遺跡をめぐるツアーなども多く目にするところである。しかし、人口統計的には、現代インドにおいて仏教徒は、全人口(約12億1千万人)の1%に満たない約0.7%(約844万人)となっているv。そしてその中心を占めるのが、ヒンドゥー教から仏教に改宗した元「不可触民」の人たちであるvi。
不可触民の人たちは、どういった理由をもって、またどのような経緯から、仏教へと改宗を行っているのだろうか。この検討の前に、まずは、インド社会における「カースト」についてとりあげておきたい。
「カースト」と人びとの暮らし「カースト」viiは、インドからイメージするものとして中心的に挙げられるとともに、社会的身分差別制度を代表的に表象する概念として、広く認識されているものと考えられる。実際、日本でも「スクールカースト」という言葉が流通したりviii、あるいはアメリカ社会における人種に基づく階層構造について、「カースト」を用いて論じたりということもみられるix。こうしたカースト概念の流用が、問題の明確化ならびに指弾といった一定の利点をもつことは確かであるが、同時に、一面的で本質的なカースト認識が広まることもまた指摘されるところである。つまり、カーストとインド社会、そして差別性との等値である。しかし、インドの人びとにとってカーストは、社会関係(特に階層的関係)の規定性を有するに留まるものではなく、宗教的観念との関わりや婚姻関係への影響、職業との関連といった経済的側面、そして政治的活動の基盤としての機能など、生活の諸局面に深く関わる非常に多面的なものである。
そうしたことから、インド社会における「カースト」を考えるにあたって、カーストに基づく階層構造(ヒエラルキー)については、きわめて強い批判的観点から捉えて考える必要があるが、一方、カーストが人びとの共同体の軸となっている、すなわち、アイデンティティの核となっているという点についてもまた、深く考える必要がある。つまり、改めて後述するが、インド社会に生きる人びとにとって、他者との関係性の交渉をはじめとする生活実践において、カースト的属性が非常に重要な意味をもち、カーストから完全に脱した生のあり方はきわめて困難と考えられるということである。
「不可触民」の仏教改宗さて、上述した社会状況のなか、カースト制度の最下層に位置するとされる不可触民の人びとは、いかなる経緯でもって仏教改宗へと至っているのであろうか。これを考えるにあたって、B・R・アンベードカル(1891~1956)という人物を外すわけにはいかない。アンベードカルは、インドの独立後から現代におけるダリト運動(不可触民解放運動)の始祖とされ、「バーバーサーヘブ(Bābāsāhab、偉大なる父祖)」、さらに後述するように博士号保持者であることから「ドクター」との尊称をもって呼ばれ、不可触民たちからのきわめて強い崇敬の対象となっている。
ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar)は、マハーラーシュトラ州の主要な不可触民カーストのひとつである「マハール」に出自をもつ、インド独立運動期に活躍した政治家・運動家である。苦学して奨学金を得る機会に恵まれた彼は、米英に留学し、アメリカのコロンビア大学、ならびにイギリスのロンドン大学(London School of Economics and Political Science)で博士号を取得した。
インド帰国後、アンベードカルは、不可触民の政治・経済・社会的地位の向上のための運動に尽力し、不可触民の分離選挙をめぐる意見の相違をはじめ、不可触民問題の政治化に関する運動方針をめぐって、M・K・ガーンディー(マハートマー・ガーンディー)と激しく対立した。また宗教的には、ヒンドゥー教の古典籍である『マヌ法典』の焼き捨て(1927年)、ヒンドゥー教棄教宣言(1935年)といったように、不可触民制、ひいてはカースト制度、そしてヒンドゥー教自体への苛烈な批判を行っていった。
政治家としてのアンベードカルは、不可触民や社会的被抑圧層を中心とした組織の設立や政党の創設を企図した。また独立インド憲法の起草委員会委員長を務め、憲法草案作成の中心を担うとともに、ジャワーハルラール・ネルー率いる初代内閣において法務大臣を務めた。
晩年に至って、アンベードカルは、長期間の熟慮の末、仏教への改宗を敢行し(1956年10月)、同カーストであるマハールの人びとを中心に、多くの不可触民がアンベードカルに従って改宗を行った。しかし、この大改宗から2ヶ月に満たない同年12月、仏教を不可触民の人びとの間に、そしてインド社会に大きく普及させるという目的を達することなく、アンベードカルは逝去した。アンベードカルに従って改宗を行った仏教徒(元「不可触民」)たちにとって、明確で堅固な理念をもって導いてくれる人物を失うことになった。その後は、アンベードカルの遺著となった『ブッダとそのダンマ』を拠り所として、仏教徒たちは、仏教思想の追究と仏教的実践の執行を模索しつつ行っているものと考えられる(写真1参照)。
不可触民の人びとの改宗の所以として語られるのは、ひとつに、上述した偉大なるリーダーであるアンベードカルの主導であること、また理念的には、仏教が「平等主義」を標榜する宗教であること(これは往々にして、「差別的」なヒンドゥー教との対比として語られる)、さらに仏教が自分たちの祖先の宗教であったという言説も語られる。以下に、筆者のフィールドワークで聞かれたかれら自身の語りを紹介したいx。
仏教は、われわれの祖先の宗教だ。バーバーサーヘブ・アンベードカルが、すべての宗教をみて、間違いを見出し、そしてすべてのなかでよいものとして仏教を出した。バーバーサーヘブ・アンベードカルが、仏教とわれわれを引き合わせた。仏教は、実際的な(vyavăhārik)宗教であり、平等な(samāntā)宗教だ。
仏教が好ましい理由は、仏教では、ジャーティの観念(jāti-bhāv)や差別(bhed)がないから。
仏教がいいのは、名前が何であろうと、宗教が何であろうと、問題なく、身分の高い低いもないから。仏教では、一つの場所に、身分の高い人も低い人も(choṭe-baṛe)、わたしや、首相や、大統領や、誰でも、一緒になっていることができるから。
上述の背景をもとに、現代インドにおける不可触民の人びとによる仏教改宗運動は、アンベードカルの出身州であるマハーラーシュトラ州や、首都圏のデリーとその近郊地域を中心として、漸進的に展開してきている。ここでは最後に、筆者の調査地である北インドのウッタル・プラデーシュ州西部の一村落の事例からxi、改宗仏教徒の人びとの生活実践ならびに宗教儀礼実践を紹介し、宗教(信仰)と実践、カーストと他者との関係性、そして自己意識について考えてみたい。
まず、かれらの「仏教徒として」の実践をとりあげたい。仏教徒としての生活実践としては、ひとつに、きわめて日常的であり、ゆえに頻度も高いものとして、あいさつ言葉を挙げることができる。すなわち、「ナモ・ブッダィ(Namo Buddhay、ブッダに帰依します)」そして「ジャイ・ビーム(Jay Bhim、アンベードカルに勝利を、ないし、アンベードカル万歳)」xiiといったあいさつの、意識的・積極的な使用である。改宗前は、かれらも、一般的なあいさつ言葉である「ナマステー」や「ナマスカール」といった言葉を使用していたが、改宗を経て、次第に使用頻度に変化が起こってくる。「ナマステー」といった語を完全に使わなくなるわけではないが、特に仏教徒同士のあいさつにおいては、「ナモ・ブッダィ」「ジャイ・ビーム」が主となってくる。そこでは、お互いの「仏教徒として」の自己意識と関係性が、改めて確認されていると考えられる。
そして、このあいさつ言葉が多く飛び交う場が、仏教集会である。「インド仏教徒協会(The Buddhist Society of India)」xiiiをはじめとする仏教組織の各地域支部などが、仏教集会を主催し、仏教の教えの普及と改宗への導きを積極的に展開している。各地方都市を中心として、近郊地域の村落部に至るまで、ローカルな指導者たちが主要な担い手となり、集会が催される。いわゆる一般の人びとは、人的ネットワークのもとに集会に集い、新たな知見と思想、また人脈を得るものとなる。
次に、混淆的な仏教実践についてみてみたい。ここでは、葬送儀礼の事例をとりあげたい。写真2は、改宗仏教徒の葬送儀礼の様子である。写真2から、故人の遺体が、ヒンドゥー教による葬送儀礼時同様、幾重もの布で包まれており、しかし最後には、仏旗をもって包まれていることが分かる。故人の枕元には、ブッダとアンベードカルの肖像画が置かれていることもみてとることができる。儀礼の執行としては、まず会葬者たちは、故人の家の前で三帰依五戒を唱和する。のち、三帰依五戒を唱えつつ河岸まで遺体を担いで赴いたのち、火葬へと至る。点火の前にも、同様に三帰依五戒が唱和される。
このように、従来から見知っている葬送儀礼のやり方をベースにしつつ、そこに、仏旗の使用や三帰依五戒の唱和など、仏教的要素を組み込んで、儀礼実践を遂行しているさまをみることができる。
最後に、選択的な宗教実践について確認しておきたい。具体的にとりあげるのは、ヒンドゥー教の大祭であるディーワーリー(Dīvālī)祭xiv前後における実践である。まず、ディーワーリーの9日前に行われる「カルワー・チョウト(Karvā Cauth)」についてみてみたい。カルワー・チョウトは、その由来をヒンドゥー教の神話に有し、既婚女性が夫の成功と長寿を祈願して、終日、食べ物と飲み物を絶つ断食儀礼である。この儀礼は、夫婦間の絆を強める、非常に重要な機会であると捉えられている。また、嫁いできた妻と義母(夫の母)との関係を強める機会であるともされている。
改宗仏教徒の人びとの間で、カルワー・チョウトの遂行を確認したものとなるが、その所以としては、カルワー・チョウトが、夫婦間の関係性を祝う意味と機能を持っているからであると考えられる。ある仏教徒曰く、「女神に捧げる礼拝儀礼もあるが、われわれがするのは、夫と妻の絆に関する儀礼だけだ」xvということになる。
先のカルワー・チョウト同様、改宗仏教徒の人びとも行うバイヤー・ドゥージには、家族・親族間の関係、特に兄弟姉妹の関係をつなぐ機能がある。さらにいえば、婚出した姉妹を兄弟が訪れて再会し、家族としての絆を再確認する機会でもある。そこにおいてはもちろん、ヒンドゥー教徒であるか仏教徒であるかは問われないxvi。すなわちバイヤー・ドゥージは、ヒンドゥー教の祭礼というよりも、「兄弟と姉妹に関するお祭り」ということになる。
ここで指摘しておきたいのは、実践の選択と、それぞれの儀礼の意味と機能、そして「幅」の関係である。すなわち、一連の儀礼・祭礼があるなかで、かれら改宗仏教徒が実践を選択したカルワー・チョウトとバイヤー・ドゥージは、その意味と機能が、ともに、家族(および親族)との関係性を確認・強化するというものとなっている。つまり、その神話的伝説(あるいは宗教的意味)がいかなるものであれ、神との関係性というよりは、自分と他者(特に家族・親族)との関係性をとり結ぶ儀礼が、特に重要視されていると考えられるのである。
また、特にバイヤー・ドゥージの場合、単に現在同居している家族内で収まる儀礼ではなく、嫁ぎ先/元との関係をとり結ぶものである。すなわち、儀礼の実践の「幅」が、同居の家族内のみではなく親族にまで広がる/つながるものであり、ゆえにこそ、そうした関係性の確認・維持のため、実践が選択されているものと考えられるのである。
おわりに以上、改宗仏教徒の人びとの生活実践ならびに宗教儀礼実践を具体的にとりあげて、実践の様相にみられるかれらの自己意識と他者関係のありようについて考えてきた。そこでは、宗教的属性(「仏教徒として」のアイデンティティ)を重視しながらも、特にカースト的属性を同じくする他者(すなわち親族や姻族)との関係性を継続的にとり結びつつ、生を送っている改宗仏教徒たちのすがたを確認するものとなった。
冒頭でみたように、インド社会において、仏教徒は少数派となっている。「宗教」と「カースト」が、人びとの生のありよう、特に人間関係において非常に大きな影響を有する社会状況のなか、改宗仏教徒たちは、仏教徒としての自身を確認し、打ち出しながら、同時に、他者(すなわち他宗教徒)との関係を交渉しているものと捉えられる。インド社会の「多様性」は、こうしたさまざまな宗教的・カースト的背景をもつ人びとによる交渉の累積によりxvii、形成・維持されていると考えられよう。
iインド憲法において、「不可触民制(Untouchability)」は廃止が明記されていること(第17条)、また何より、きわめて差別的な語句であることから、「不可触民(Untouchable)」との語は、現在、基本的に使用されることはない。現在は、解放運動のなかで登場した自称である「ダリト(Dalit、「抑圧された者たち」の意)」や、主に行政用語として使用される「指定カースト(Scheduled Caste)」が用いられることが多い。ただ、日本においては、これらの呼称は馴染みが薄いこと、またかれらの被差別の歴史性・社会性に強く意識をおくために、本稿では、鉤括弧を付して「不可触民」との語を用いることとする。ただし、鉤括弧の多さから文面が煩雑化してしまうことを避けるために、初出以降は、文脈的に必要な場合を除いて、鉤括弧は付けずに表記するものとする。
iiイギリス統治期に始まったインドのセンサス(国勢調査)は、第1回目を1872年に行ったのち、10年ごとに末尾が「1」の年に実施されてきたが、2021年は、新型コロナウイルス感染拡大の状況から未実施であった。2024年10月現在もまだ調査は行われておらず、最新の数値としては2011年のものを参照することになる。
iiiOffice of the Registrar General & Census Commissioner, India,[https://censusindia.gov.in/census.website/(2024年10月18日最終アクセス)]。
iv同上。
v同上。
vi従来、「新仏教徒(Neo-Buddhist)」と称されることも多かった人びととなるが、この呼称は自称ではなく、旧来の仏教徒からの「新」との一方的な名付けとレッテルであることから、適当ではない呼称といえよう。かれら自身は、基本的に、自分たちを指して単に「仏教徒」と言う。本稿では、同様に、「仏教徒」、あるいは改宗という行為の重要性を考慮に入れて「改宗仏教徒」との語を用いることにする。
vii「カースト(caste)」は、インドの人びとにとってみれば外来語であり、その語源はポルトガル語で「家柄・血統」を意味する「カスタ(casta)」であった。つまり「カースト」とは、15世紀末に始まった「ヨーロッパとインドとの出会い、さらには、その後に続いた支配と領有のなかで形成されていったもの」[藤井毅、2007年、『インド社会とカースト』、山川出版社(世界史リブレット86)、1頁]ということになる。
インドで用いられていたのは「ヴァルナ(varna)」と「ジャーティ(jati)」という用語・概念であり、前者は四ヴァルナ(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)を基本とし、後者は血縁的結合関係に基づく社会集団を指す。カーストは、このジャーティとほぼ同義として認識・使用されている。
viii鈴木翔、2012年、『教室内(スクール)カースト』(本田由紀・解説)、光文社新書。
ixイザベル・ウィルカーソン、2022年、『カースト―アメリカに渦巻く不満の根源―』、秋元由紀(訳)、岩波書店。[Isabel Wilkerson, Caste: The Origins of Our Discontents, New York: Random House, 2020.]
xここで記載するものは、2009年3月2日~9日に収集された語りとなる。
xiとりあげる事例は、舟橋健太、2014年、『現代インドに生きる〈改宗仏教徒〉―新たなアイデンティティを求める「不可触民」―』(昭和堂)からの抜粋となる。
xiiアンベードカルのファーストネームの一部(すなわち愛称)を用いたあいさつ語となる。こちらは、仏教徒に限らず、不可触民の人びとの間で、非常に広く、全インド的に使用されているあいさつ言葉である。
xiii1955年に、アンベードカル自身によって創設された仏教徒の組織である。
xivディーワーリー祭は「光の祝祭」とされ、ヒンドゥー教においてきわめて重要かつ吉祥な機会であると考えられており、本祭は新月の日に行われる。
xv2009年3月10日、フィールドワークにおける聴き取りより。
xviこの背景には、仏教徒の婚姻関係をみた場合、人口的に少数派である仏教徒の婚姻相手は必ずしも仏教徒とは限らないという事情がある。そこでは宗教的属性に優先して、カースト的属性の合致と、相手方家族の社会経済的状況が重視されることから、ヒンドゥー教徒との婚姻関係が多数を占めることになる。
xviiただし、ここで述べているような宗教的属性ならびにカースト的属性が異なる他者との関係の交渉が、常に平和裏に進むとは限らず、不和や軋轢、時には暴力的な争いにまでつながることも否定できないところである。特に近年のインド社会における、強力なヒンドゥー・ナショナリズムに基づく苛烈な動向をみた場合、決して楽観的にだけは捉えられないのが現状である。
書誌情報
舟橋健太《総説》「仏教からみるインドの社会と宗教」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, IN.1.03(2025年1月31日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/india/country/