アジア・マップ Vol.02 | ヨルダン

《エッセイ》ヨルダンの自然と景観から
死海に生きる

宇波 耕一(京都大学農学研究科 准教授)

 ヨルダン王国、そして死海を初めて訪れたのは、2012年1月のことである。最終年度を迎えた科研費研究「西アフリカのサバンナ気候下における農村水資源開発オプション」での最後のガーナ訪問からの帰路、ヨルダン国立ムタ大学の誘いを受けての寄り道であった。大学院生時に初めて熟読した国際学術誌の論文というのが、ヨルダンの基幹的な灌漑用水路であるKAC(アブドゥッラー国王水路)についてのもので、新たな研究テーマを求めるにあたって幾ばくかの予備知識があるつもりになっていた。「水が無い」ガーナと「水が足りない」ヨルダンの対比というのが当初の考えであった。ヨルダンの国土は、面積的には大半が沙漠だが、都市や農地が集中する西部はステップ気候や地中海気候の地域も多く、古代からさまざまな文明が興亡を重ね、点在するたくさんの遺跡が主要産業の一つである観光業を支えている。難民流入を含む人口増加や気候変動が、歴史的に形成されてきた水利用の秩序に対する深刻な脅威になっているというのが、常識的な問題提起だと思われる。

 結果的に、2014年度以降、日本学術振興会等から複数の研究課題を採択していただけることになり、死海、というより死海沿岸と集水域の自然と景観について、実体験を通じ、さまざまな角度から考えていく機会が得られた。水面が標高海面下約400 mに位置し、高い塩分濃度で知られる死海は、ヨルダン地溝帯にあるため南北に細長く、北から流入するヨルダン川の他、東西の高原から渓谷を流れ下る流入河川がいくつもある。ヨルダン地溝帯の陥没部で標高が海面下となる一帯は、雨は少ないものの温暖な気候ゆえ、これらの河川水をうまく利用することができれば、灌漑農業に適した地域ということになる。ヨルダン川の上流には豊かな淡水資源であるティベリアス湖があるが、ゴラン高原をはじめ集水域のほとんどが占領下にあり、ヨルダン川下流域や死海沿岸地域はその恩恵を得ることができない。この現状の中で、ヨルダン国内で、あるいは、集落や個人レベルで、自然災害を中心とする様々なリスクに対処して持続可能な農業を展開するにはどうすればよいか、という観点から研究を続けてきた。なお、ヨルダン川下流域と死海沿岸地域を包括的に「ゴール」と呼ぶらしく、ヨルダン川最大の支流であるヤルムーク川から取水しているKACの別称は、東ゴール水路となっている。

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写真1:KAC取水口付近のヨルダン領内からゴラン高原の南端とティベリアス湖を望む

 ムタ大学は、首都アンマンからは南へ100 kmほど離れたカラク県に位置している。本部は、629年に起きたムタの戦いで知られる標高1200 m内外の高原にあり、起伏に富んだキャンパスは大雪に見舞われることもある。農学部と付属農場があるのは、本部からはカラク市街を越えて北へ20 kmほど離れたラッバである。古代ローマ帝国期等の遺跡(いまのところ入場無料)や、平年並みの降水があった春先にみられる緑のじゅうたんが一面に広がる景観は、隠れた観光資源といえるだろうか。カラク市街やラッバから西へ、というより下へ向かうと、車で1時間ほどで死海を望むゴール・マズラーの町へ至る。気圧、気温の差を体感できるだけでなく、植生や土壌、地元の人たちの肌の色、服装も違ってくる。パレスチナやエジプトからの移民・難民・季節労働者も多いが、もとからの住民と一体となって、過酷な自然環境を生き抜いているという印象である。この町は、高原からの流入河川が運んできた土砂が形成した扇状地上にあり、死海を南北に分けるリサン半島に続いている。もっとも、死海の水位は毎年約1メートルずつ低下しており、現在、リサン半島は半島ではなく、アラブ・ポタシ社が事実上管理する、通過できない陸の国境地帯になっている。リサン半島以南の死海が干上がった部分は、アラブ・ポタシ社がカリウムや臭素を生産するための巨大な塩田として利用されている。このリサン半島に、ムタ大学の農業試験場があり、約10年にわたって実験的な基礎研究に利用させていただいている。とくに、試験場の裏手にあたる1 km2ほどの荒野から流れ出る洪水を集め、塩分を取り除いてナツメヤシを灌漑する、自律分散型の実験施設を整備、運用している。

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写真2:塩類を析出しながら縮小する死海と拡大するリサン半島

 死海沿岸で発生する自然災害としては、意外に思われるかもしれないが、干ばつや塩害よりも洪水が激甚である。2018年には、ザルカ・マイン渓谷で、遠足で訪れていた大勢の児童が洪水の犠牲になっている。天候の変化が時空間的に急激なこと、雨が地中にしみこまず、急斜面を滝のように流れることが、洪水対策を難しくしている。規模の大きい洪水は、土砂崩れを伴って破壊力の大きい土石流となり、死海に至ると堆積して扇状地が形成されていく。ゴール・マズラーの隣町になるゴール・サフィもそのような扇状地に形成された町で、有料見学施設としては「地球上で最も低い場所にある博物館」や「預言者ルート(ロト)の洞窟」が整備されている。聖クルアーンのアル=ヒジュル章にある預言者ルートに関する記述を参照すれば、この地域、さらには急傾斜地一般の地理学について、一層理解が深まると思われる。

 洪水や水不足を防ぐための常套手段は、環境破壊などの問題はあるが、公共事業としてダムを造ることである。ヨルダン国内の、ヨルダン川の支流や死海へ流入する河川のほぼすべてには、規模はさまざまだが、ダムがあり、生活用水や灌漑用水の生命線となっているほか、洪水や土石流を防ぐ機能も期待されている。いいかえれば、ヨルダンには、ダム開発適地はもう残っておらず、新たなダムの建設によって人口増加や気候変動に対応する余力はないということになる。国家や国際機関の主導による従来型の開発から、発想を転換していくことが必要だと思われる。死海に生きる人々の純朴な知恵に学びつつ、また、中東地域をはじめ世界中の共同研究者の皆様のお力添えを得ながら、よりよいゴール地域の発展に少しでも貢献できればと考えている。

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写真3:ヨルダン川の支流であるクフランジャ川に築造され、オリーブ園や羊の群れに囲まれたダム湖

宇波耕一「ヨルダンの自然と景観から 死海に生きる」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, JO.6.01(2024年6月4日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/jordan/essay04