アジア・マップ Vol.02 | レバノン

もう一つの「レバノン」

宇野昌樹(広島市立大学 名誉教授)

 私は、東アラブ地域の地中海に面した小国レバノン(より広くはアラブ世界)に関心を持っている学生の「あなた」を念頭に、このエッセイを書いています。

私は、中東地域研究者(文化人類学)の一人として、長くこの地域(特にレバノン、シリア)に暮らす人々のアイデンティティ(とりわけ宗教・宗派や民族といった集団への帰属意識)や宗教・宗派間の「共存/対立」の有り様に関心を持って研究して来ました。そして、その中核に据えてきたのはシーア派傍系のイスラーム少数宗派ドゥルーズ派の人々でした。その理由は、国や地域の歴史、文化、社会を理解する上で、彼らのようなマイノリティ集団から全体(国とか地域)を見る(考察する)視点が重要ではないかとの考えがあったからです(ドゥルーズ派に関心のある方は、ネットで「宇野昌樹」を検索し、researchmap マイポータルの「業績一覧」を参照下さい)。

 しかし、20年ほど前になりますが、科学研究費補助金を得て始まった研究プロジェクト「アラブ世界におけるネットワーク型社会システムの維持メカニズム」(研究代表:堀内正樹)に研究分担者の一人として参加したことを契機に、レバノン・シリア系移民(ドゥルーズ派の人々も含まれています)の調査・研究へ軸足を少し移して、現在に至っています。そして、これからがこのエッセイの本題『もう一つの「レバノン」』の話になりますが、私はこれまでレバノン・シリア系移民の調査で、フランス、ベネズエラ、アルゼンチン、そしてセネガルへ行きました。これらの調査・研究から得た知見を以下簡単に列挙しておきます。

 一つ目は、レバノンの全体像を理解するためには、レバノンという国本体に留まらず、レバノン系移民の存在も視野に置いて考察する必要があるということです。レバノンは、アラブ諸国の中でも移民を多く送り出した国という意味で移民大国の一つで、その発端となったのが、特に19世紀中頃に起こったキリスト教マロン派とドゥルーズ派による地域紛争でした。そして、その後もレバノンでは断続的に紛争が起こり、その度に海外への移住が続き、1990年当時のレバノン系移民数は220万人に上ります。その主な移住先は、ヨーロッパではフランス、南米ではブラジルやアルゼンチン、北米、オーストラリア、そして西アフリカなどです。つまり、彼らのコミュニティは全世界に散らばっているのです。

 二つ目は、彼らが移住先で強固な移民コミュニティを形成していることです。それを可能にしたのは、恐らく自身の出自意識(家族・親族・・・レバノン人)に加え、宗教・宗派アイデンティティが強く作用しているからだと考えています。このような紐帯意識故に、本国レバノンとの社会・経済・文化的な繋がりが維持されて来たのではないかと思っています(写真①は、アルゼンチン中西部の町カタマルカでレバノン料理店を営むレバノン系移民(キリスト教マロン派)の家族で、快く調査に協力してくれました。写真②は、すぐ前で触れた移民家族の出身地のレバノン北部の町フライヤに暮らす彼らの親族を訪ねた時の写真です)。この調査を通して、彼らの家族間の強い絆に驚かされました。

アルゼンチン中西部の町カタマルカのレバノン料理店(2012年筆者撮影)

写真① アルゼンチン中西部の町カタマルカのレバノン料理店(2012年筆者撮影)

レバノン中部に位置する町フライヤの親族家族(2012年筆者撮影)

写真② レバノン中部に位置する町フライヤの親族家族(2012年筆者撮影)

 三つ目は、彼ら移民が移住先で、政治、経済分野において重要な役割を演じて来たことです。南米エクアドルでは、これまでに二人の大統領がレバノン系移民出身で、ブラジルやアルゼンチンでも多数の国会議員を出しています。また、レバノン系移民の特徴の一つと言えると思いますが、商業に携わる人が多いことです。日産の会長として名を馳せたカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)は、ご存知の方も多いと思いますが、ブラジル生まれのレバノン系移民3世です(因みに、ゴーンはフランス語読みで、アラビア語読みではゴスンとなります)。

 私たちがある国の諸事情を考える時、得てしてその「国」のあれこれに集中するあまり、その周辺や遠く離れた国や地域との関係を見過ごすことがあるのではないでしょうか。その一例として、もう一つの「レバノン」、つまり本国レバノンの外に存在するレバノンについて触れてみました。

 最後に、私がレバノンを初めて訪れたのは1977年5月のことで、隣国シリアから陸路で入国しましたが、その時のレバノンの印象をもう一つの「レバノン」に重ねて述べておきます。首都ベイルートは、レバノン内戦(1975~1990)で破壊されたビル群が多数残り、一部の街区は廃墟と化していましたが、一方で通りを歩く人々の服装からヨーロッパを連想させる街でもありました。フランス在住のレバノン系移民の存在があったのでしょう(写真③は2011年にパリ市内で目にしたレバノン・サンドイッチ屋ですが、最後に訪れた2022年この種の店が大変増えていたことに驚かされました)。もう一つは、滞在先でマッティー(日本ではマテ茶)と呼ばれるお茶を振る舞われたのですが、これは複数の人たちが回し飲みするという独特の流儀があり、初めはその飲み方に戸惑ったことを思い出します。後になって分かったことですが、このお茶はアルゼンチンへ渡ったレバノン系移民が持ち込んだもので、レバノン国内で広く飲まれています。私の勝手な推測ですが、このお茶がレバノンに広まったのは、お茶の美味しさよりはむしろ、その回し飲みする流儀(コミュニケーション・ツールとして)にあるように思えてなりません。実際、レバノンを含むこの地域では水が貴重なものであるため、陶器製の独特の水差しに保存し、時に客人に振る舞い、また居合せた人たちと回し飲む習慣があり、このような習慣がマテ茶の飲み方にマッチしたと考えています。本国と移民相互の政治・経済・文化的関係は、その距離から可視化が難しいところがあり、想像力を発揮することで少しずつ見えてくるのではないかと感じています。

パリ市内のレバノン料理店(2011年筆者撮影)

写真③ パリ市内のレバノン料理店(2011年筆者撮影)

宇野昌樹「レバノンと私 もう一つの『レバノン』」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, LB.2.01(2024年5月7日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/lebanon/essay01