アジア・マップ Vol.02 | レバノン

《エッセイ》研究の現場から
《緊急執筆》「ヒズブッラーとイスラエルとの対立はなぜ激化したのか:レバノン研究の現場から」

末近浩太(立命館大学国際関係学部 教授)

 レバノンは、歴史的に幾度となくイスラエルによる軍事侵攻を受けてきた。そのなかでも、1982年の軍事侵攻は最も規模が大きく、イスラエル国防軍(IDF)の部隊が首都ベイルートまで到達し、「中東のパリ」とまで呼ばれた美しい街並みを瓦礫に変えた。その目的は、当時レバノンを拠点にイスラエルに対するゲリラ闘争を続けていたパレスチナ解放機構(PLO)の戦闘部隊の排除であった。その後、IDFは1985年までレバノン南部地域を広範囲にわたって駐留を続けたが、そうした占領下の状況のなかで草の根の抵抗運動(レジスタンス)として結成されたのが、ヒズブッラー(ヒズボラ)であった。ヒズブッラーは、1979年に成立したイラン・イスラーム革命政府の支援を受けており、レバノンの地にイスラームの教えに立脚した国を建設すること、そして、イスラエルという安全保障上の脅威となる国――彼らは「敵」と呼ぶ――の打倒することを謳った。

 筆者は、1990年代の半ばから約30年にわたって、このヒズブッラーとレバノンという国、そして、それを取り巻く中東政治や国際政治の研究を続けてきた。そこで一貫して見えてきたのは、ヒズブッラーという組織の合理的・戦略的な姿であった。すなわち、イスラームという宗教の教えを基本的な行動理念としながらも、政治環境の変化に臨機応変に対応しようとする柔軟な姿である。ヒズブッラーは、1992年にレバノンで議会政治が再開されると政党となり、政党となった後はレバノンの「イスラーム化」の試みを事実上放棄した。

 イスラエルとの関係においても、ヒズブッラーは柔軟性を見せてきた。ヒズブッラーの激しい武装抵抗運動の結果、IDFは2000年にレバノン南部地域からの無条件撤退を余儀なくされた。しかし、その後は、安全保障上の脅威であるところのイスラエルの殲滅に歩を進めるのではなく、国境線を挟んだ軍事的な対峙に徹するようになった。イスラエルがレバノンに再び軍事侵攻できないような抑止力となる、というのがヒズブッラーの基本的な政策となった。指導部が「敵」に浴びせる猛々しい言葉とは裏腹に、組織の存続を危険に晒すような行動を慎むようになったのである。

 そもそも、火力で劣るヒズブッラーにとっては、イスラエルが地上部隊を含む大規模攻撃に転じた場合には壊滅的な打撃を被ることが約束されているため、全面戦争は望ましからぬシナリオである。他方、イスラエルも、自国への攻撃が一定の範囲内に収まっている限り、レバノンへの攻撃も抑制的なものに終始するという姿勢を見せた。イスラエルもまた同様に、莫大なコストとリスクをともなう全面戦争を望んでこなかったのである。その結果、ヒズブッラーとイスラエルとのあいだに事態のエスカレーションを未然に防ぐための「暗黙の交戦規定」が共有されるようになった。それは、相手が大規模な攻撃に転じざるを得なくなるような状況を作り出さない、というルールであり、両者には民間人・民間施設への無差別攻撃や国境から離れた内奥への攻撃を控える姿勢が見られるようになった。

 しかし、このことは、一方がルールを破った際には、片方も破ることが約束されていることを意味した。違反が起こった際に報復や反撃をしなければ、ルール自体を維持できなくなるからである。

 さて、ここ数日間のヒズブッラーとイスラエルとのあいだの衝突のエスカレーションは、このルールの崩壊を印象づけるものとなっている。ヒズブッラーは、これまで使われたことがなかった――つまり、抑止を目的とした示威のみに用いられてきた――新型のミサイルを発射し、国境線から数十キロメートルの距離にあるハイファやテルアヴィヴといった大都市付近の軍事施設や民間居住区に損害を与えた。他方、イスラエルは、イスラエル空軍(IAF)の戦闘機やドローンでレバノン南部から北東部、そして、首都ベイルートの市街地に対して、1日で約500人の死者を出すような大規模な空爆を実施した。この死者数は、2006年の双方の大規模衝突の死者約1200人(33日間)と比べても突出しており、レバノンにとって過去数十年で最悪の戦争被害となった。

 なぜルールは破られ、戦闘のエスカレーションが起こってしまったのか。そのきっかけは、2023年10月7日のガザ紛争の勃発であった。ヒズブッラーは、上述のように、イスラエルを「敵」と見なすだけでなく、占領者に対する抵抗を組織の基本理念としてきたことから、ガザ地区を拠点とするハマース(ハマス)の戦いに連帯を示し、そのいわば援護射撃としてイスラエル領内へのロケットやドローンによる遠隔攻撃を開始した。これを受けて、イスラエル北部のレバノンとの国境に近い地域の住民約6万人が、南方への退避を余儀なくされた。こうしたなか、イスラエルも、IAFによるレバノン領内への空爆で応戦し、ヒズブッラーの幹部を狙った標的暗殺(ターゲット・キリング)を繰り返すようになった。

 しかし、それでもなお、「暗黙の交戦規定」は寸前のところで破られることはなかった。特に全面戦争が「致命傷」となりかねないヒズブッラーに事態を制御しようとする姿勢が目立った。組織のトップであるハサン・ナスルッラー書記長ら幹部たちは、イスラエルに強い表現での警告を何度も行い、さらには、イスラエルとの全面戦争は罠であるとまで言い放っていた。つまり、ヒズブッラーは、ガザ紛争以前に比べればイスラエルへの攻撃を激化させていたものの、全面戦争に発展しないように事態を制御しようとしていたものと言える。加えて、ガザでの停戦が実現すれば攻撃を停止する、と述べ、矛を収めるための条件を明確に示していた。

 だとすれば、今回ルールが破られたのは、ヒズブッラーよりもイスラエルに責によるところが大きい、と言える。その兆候は、昨年10月の段階から徐々に現れていたが、いわばギアが上がったのが7月末のヒズブッラーの軍事部門の最高幹部フアード・シュクルの標的暗殺であった。それ以前にも少なくとも3人の高位の幹部が殺害されていたが、基本的にはレバノン南部地域などの軍事施設と見られる施設や車列への空爆によるものであった。しかし、シュクル暗殺の際に中層の集合住宅が林立するベイルート南部郊外への空爆を実施したことで、イスラエルは民間人の巻き添え被害も厭わない強硬な姿勢を示した。言い換えれば、「暗黙の停戦規定」を反故にし始めたのである。

 こうして緊張が高まるなかで起こった決定的な出来事が、9月17日のポケベルを爆発させるという全国規模の無差別攻撃であった。ヒズブッラー指導部が構成員に対して連絡用に配布していたポケベル――インターネット経由での通信傍受を防ぐためにスマートフォンの使用の停止が呼びかけられていた――に仕掛けられた爆薬が一斉に爆発し、少なくとも12人が死亡、2700人以上が負傷した。また、翌9月18日には、同様に配布されていたトランシーバーなどの通信機器が爆発し、25人が死亡、600人以上が負傷したと伝えられた。この2つの攻撃について、イスラエルは自らの関与を公式には認めていない。しかし、この「攻撃」の規模や巧妙さに加えて、ヒズブッラーを標的にしていること、そして、命令系統が混乱したタイミングでレバノン領内への大規模な空爆を開始したことから、イスラエルが企図・実施したものとする見方が大勢であった。少なくともヒズブッラーから見れば、ポケベルや通信機器の所持者も位置も確認せずに行われたこの無差別攻撃は、イスラエルによる「暗黙の停戦規定」の違反に他ならなかった。そのため、指導部は、ルールを維持するためにも、ロケットやドローンだけでなく、射程の長いミサイルを用いた高強度の攻撃に出ることを決断した。イスラエルによる挑発が我慢の限界を超えた瞬間であった。

 かくして、レバノンとイスラエルの両国の内奥までを攻撃の標的とする、2006年の全面戦争以来の激しい戦闘が始まった。ヒズブッラーは、新型のミサイルに加えて、弾道ミサイルを用いた苛烈な攻撃をイスラエル各地に加えた。対するイスラエルは、わずか数日間でレバノン領内数千箇所に対する空爆を実施するだけでなく、ヒズブッラーの幹部たちを標的暗殺で殺害していった。

 本稿執筆時の9月26日正午現在、イスラエルはIDFの部隊による軍事侵攻も辞さない構えを見せている。イスラエルは、ヒズブッラーが2006年の全面戦争の際の停戦決議である国連安保理決議第1701号を違反していると主張することで、軍事侵攻を正当化しようとしている。同決議では、イスラエルとの国境から北へ約30キロメートルの地点を東西に流れるリーターニー川までの地域に非正規軍が展開することを禁止している。この地域にはヒズブッラーの部隊や軍事施設が存在しており、イスラエルは、これを軍事侵攻によって殲滅して自国北部の国境地帯の安全保障を再度確立することを狙っているものと見られている。現時点では、これが実行に移されるかどうかはわからない。しかし、確実に言えるのは、冒頭で述べたように、レバノン南部地域への軍事侵攻が繰り返し起こってきたということである。歴史は繰り返してしまうのか。予断を許さない。

(2024年9月26日記)

末近浩太《エッセイ》「緊急執筆 ヒズブッラーとイスラエルとの対立はなぜ激化したのか:レバノン研究の現場から」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, LB.8.02(2024年9月26日掲載)
リンク:https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/lebanon/essay02