アジア・マップ Vol.02 | ネパール
《エッセイ》
ネパールの景観と視野を広げる楽しさ
ヒマラヤから山村の暮らしへ
「世界の屋根」とも形容されるヒマラヤは、どのように目に映るのだろうか?1985年に初めてネパールに向かい首都カトマンドゥに到着したとき、ヒマラヤはどこにあるのかと周辺を見渡した。カトマンドゥは盆地に位置しており、周囲は木々の緑に色づいた山々で囲まれている。その奥にあるはずのヒマラヤを探したのである。しかし、あいにく曇りで何も見えなかった。
翌朝晴れて、今度こそは見られるだろうと改めて探してみた。山々の上には、まだ雲が掛かっている。また駄目かと諦めかけつつも周辺を見続ける。すると、雲だと思ったものが急に迫ってくるように感じた。それがヒマラヤだった。雲と間違えるような高い位置から、高峰に被った雪が遠くから白い光を放っていた。
ヒマラヤのベースキャンプまで、トレッキングに出掛けた。盆地の街から山に向かう。河川敷から急斜面を登り、森を抜けて山の上に立つと、大きくヒマラヤが見えた(写真1)。数日間、尾根沿いに山地を進み、いよいよ雪で覆われた高山に踏み込む。氷河を抜け、遠い先に続くヒマラヤの峰を見上げた。「壮大」という表現はこういう風景のためにあるのだろうと初めて思った。
その晩はベースキャンプで一泊したが、体中が疼いてよく眠れなかった。酸素の薄い4,000m以上の高山で過ごす過酷さに、わずかだが触れられたように思えた。日が昇り始めたので、写真を撮ろうとカメラを持ちだす。だが動かない。低温でカメラのバッテリーが弱ってしまったのだ。諦めて、せめて自分の目に焼き付けようと、朝日で輝く雪と氷の斜面に見入った。登山家たちは、そこからさらに4,000mの高さを登っていくのだ。自分も、せめてもう少し先まで見てみたいという誘惑に駆られたが、寒気や頭痛から恐怖を覚え、ヒマラヤに背を向けることにした。
ベースキャンプを往復する途中で、いくつかの山村に立ち寄った。1,500~3,000mほどの高度には、定着した人びとの営みがあった。自宅を改増築したロッジで食事をとり、泊まった。宿を経営していたのは、山の先住民たちだった。先住民の家族は、気さくに会話に応じてくれた。短い時間だったが、ヒマラヤを間近に見ながらカタコトのネパール語で会話したり、先住民の言葉を習ったり、山の暮らしを垣間見ることができた。「またおいで」という誘いに頷きながら、次回はもっと長く滞在しようと決心した。
山村の暮らしから低地の暮らしへ
その後大学院に進学してネパール語を自己流で学び、チェパンという先住民が暮らす山村で長期の調査することになった。チェパンは、ネパール山村で一般的な常畑でのトウモロコシ栽培のほか、伝統的なアワ、インドビエなどの焼畑農耕やヤムイモの採集を続けるネパールの最も古い先住民の一つとされる。そのチェパンだけが暮らす山村で、同世代の男たちの背中を追いつつ、常畑や焼畑での農作業、イモ掘りなどの生業の知識や技法を学ぶ(写真2)。畑で穫れた雑穀や山で採れたイモを食べ、自家製のどぶろくで喉を潤す。その合間に生活史を聴く。そうした山の暮らしに慣れ始めた頃のことだった。「低地のタルーという民族の村に行く」というのを耳にした。タルーは、インド国境周辺のネパール南部の低地で暮らしてきた先住民だが、その生活文化は当時まだよく知られていなかった。そのタルーの人たちが作ったコメと山の果物や竹カゴを物々交換する、というのである。早速頼んで、タルーの村に同行させてもらった。
薄暗い早朝に出掛け、山を下り、最上流域の川沿いの道を進んでいく。河原が広くなると、道はジャングルを分け入る方に続く。大木で薄暗い悪い場所に差し掛かると、「昔はジャングルからトラの鳴き声が聞こえるときもあったし、今でも時々サイが現れる」と同行した人たちは話し始める。途端に、ジャングルからの動物の視線を感じ、小さな物音にも敏感に反応してしまうようになる。
ジャングルの合間にあるバザールで休憩しては歩き、夕方薄暗くなった頃、川岸近くの低地にタルーの村が見えた。家が散在するチェパンの山村と違い、家々が密集して建ち並んでいる。山村では、山で採れる赤茶色の土が家屋の壁や土間に塗られるのが一般的だが、低地のタルーの家屋の土壁は、周囲の土と同じベージュ色だ(写真3)。ベージュの壁は、ところどころ白やピンクの沢山の手形で彩られている。同じベージュ色の土間に足を踏み入れると、フカフカして柔らかい。下に藁を敷いた層があるとのことだった。牛糞で固めた山村の赤土の土間と、感触が全く違った。
家の裏には山村で見たことがない手押しポンプの井戸があり、手を洗いに行くと飼われているアヒルが逃げていく。近くに大きなマンゴーやザボンなどの果樹が植えられていて、多彩な野鳥の鳴き声が五月蠅いと思うほど響く。その外にはサトウキビ畑があり、水田、河原に続く。暖かく湿った風に乗ってくる川の匂いに「亜熱帯の低地」を感じた。
チェパンとタルーのあいだの会話はネパール語でおこなわれていたが、タルーの村人同士が話すタルー語の響きは、チベット・ビルマ語系のチェパン語とは大きく異なっていた。耳をそばだてていると、インド・イラン語系のネパール語と似た語彙があることはわかったが、ほとんど理解できなかった。食事をもてなすタルーの女性たちの腕や脛には、広範囲の文身が彫られていた。伝統的にタルーの女性は結婚すると、腕と脛に文身を入れてきたのだという。
ご飯のおかずには、山村でも時々食べられるジャガイモのカレー、豆のスープのほかに、殻付きタニシの炒め煮が出てきた。タニシにはニンニクとトウガラシがタップリ入っている。タニシの身は吸い出して食べるのだと手本を見せられ、それに従う。「ネパールでは食べない民族も多い」という珍味を楽しんだが、辛い煮汁にむせかえる。「タルーの料理は美味しいけど、辛いから気をつけて食べないといけない」と言って、チェパンの同伴者は笑った。
家の奥の部屋に案内してもらうと、2メートル四方ほどの大きな米貯蔵容器が置いてある。洪水に備えて高床にしているという。自家製の米焼酎をご馳走になりながら、米の栽培や儀礼食について話を聞かせてもらう。ネパールには、山村とは異なる低地の米文化の長い歴史があった。
チェパンの村人たちは、山の産物を全て籾米と交換できたら精米し、白米を担いで帰路につく。もと来たジャングルの横、河原の道を通り、山を登る。眺めのよい場所まで辿り着くと休憩する。眼下を眺めながら、村人たちは、やはり自分たちが暮らす山は景色がよくて「チュプト(チェパン語で楽しいの意)」だと繰り返す。低地で味わえない涼風が吹き、山の畑や森、流れていく川が遠く小さく見えた。
二つの視野を広げる楽しさ
タルーの村への小旅行は、ヒマラヤの麓や山村、盆地の街しか知らなかった私の視野を広げてくれた。しかしそれだけでなかった。同行したチェパンの人たちの話から、視野を広げる楽しさの意味も考えさせられることになった。
チェパンの同伴者たちは、山を下るのは「チュプト(楽しい)」と言い、私に何度も相槌を求めてきた。タルーの人たちの一部は、チェパンの人たちと義兄弟の契りを結び、義兄弟が来ると肉や酒でもてなす。今回は何を出してくれるのだろうと期待しながら義兄弟の家を訪ねるのは「チュプト」だし、期待を超えるご馳走を食べるのも「チュプト」だ。周辺のバザールで、商品としての肉や焼酎を飲食したり、買い物したりするのも「チュプト」だ。低地には、山村と異なる楽しさがある。
ところが、2日もいると多くの人たちが、「プート(飽きる)」と繰り返すようになった。低地やバザールは景色が見えないから、というのがその理由だった。他方で、山への帰路だけでなく、日常的にも山村の景色のよい場所で休憩すると、村人が「チュプト」だと言うのを何度も耳にした。
カトマンドゥ観光のために、チェパンの人たち5、6人と一緒に、有名なヒンドゥー教や仏教の寺院、動物園や空港などを訪れたことがあった。そのときに一番「チュプト」だと皆が口を揃えて言ったのは、仏教寺院だった。楽しさの理由は、寺院のある丘の上から「カトマンドゥ盆地全体を見渡せること」だった。そこでは「あそこが寺院、こちらが空港」などと指さし、景色を楽しんでいた。
低地を歩き集落の人たちとやり取りするとき、バザールを歩き商人や市井の人たちとやり取りするとき、新しい物や情報に出会い視野が広がる。山から下を見下ろすときにも、私たちの視野は広がる。どちらにも視野が広がる楽しさがある。チェパンとタルーの村を行き来するなか、二つの楽しさの違いについて考えるようになった。
想像される全体像・知覚される全体像
低地の集落やバザールなど、先を見通すのが難しい場所では、動き回ることが必要である。動くことで知覚した部分的な像が蓄積され、それらが想像で結び合わせられる。そして集落、バザールといった全体的な像、ある種のメンタルマップができる。さらに動いて、人やモノなどとの出会いがあれば、マップの内容は更新できる。低地の集落や多くの人やモノが行き交うバザールには、出会いを期待し、出会いで全体像を改編し、精緻にしていく楽しみがある。
他方、高所から俯瞰すると、限られた視界の範囲ではあるが、全体的な像が一気に知覚される。その全体的な像に、部分的な像を想像で落とし込んで楽しめる。自分が行った場所、これから行こうとする場所を指さし、全体のなかの自己の位置を確認できる。
低地の視野と山の視野のあいだに感じた違いには、「部分的知覚からの全体の想像」に対する「全体的知覚からの部分的な想像」という真逆な世界像の作り方が関わっているのだろう。だが、両者は完全に対立しているわけではない。山でも、低地のように「部分的知覚」をつなぎ合わせ「全体像」を想像し、創造できるからだ。
山から見渡せる地平線は、「あの先に何があるのか」という問いを生み、そこにあるはずの別の視界、つまり全体像を想像させる。もちろん低地でも、建物で視野が遮られる場所から抜け出だして、地平線の見えるところに行くことができる。あるいは建物の上に山が見えれば、それが地平線となる。地平線は、山と低地をつなぎ、その先にあるはずの別の視界を想像させる楽しさを与えてくれる。
より広い地平線を求めることは、視線を先へ先へと延ばしていくことにつながる。では、その視線を延長し続けていったらどうなるのだろうか?地平線を超え続ければ、地球を周り、断片を結び合わせた世界像を描くことができる。あるいは、ひたすら上昇し、山地を越え、ヒマラヤを越え、天に、宇宙に辿り着けば、地球全てを見渡すことができる。視線を、地球の内部に突入させることもできる。だが、地下に進み続け、地の底に届けばもはやその先はない。地表に戻り、人間を見つめ直すことになる。人類の探検と冒険の歴史、科学の歴史は、そうした知覚の延長の道筋と重なっている。
チェパンの山村では、そうした道筋をシャマンが描いてきた(写真4)。シャマンは、身近な山の頂の神々の力を得て、魂を飛翔させ、月や太陽に近い視点から景観を描き出す。さらにタルーの村々から見える地平線の彼方の景観を描き、やがて真っ暗な地下世界にかがり火を点しながら進む。地の底には、地表の命の根源とでも言える諸存在がいる。それらとの出会い、交渉する様が描かれ、最後に魂は自己の身体に戻る。そうした景観は、単なる想像で描かれているのではない。夢で「知覚」された全体像なのである。シャマンが語る景観の移り変わりを聞き入る人たちは、その道筋を確認していくのは「チュプト(楽しい)」と言う。シャマンは、日常で出会う様々なモノや生物、道具などにも独自の視点と通常の人間には知覚できない先や奥があること、それを踏まえて諸存在に配慮する必要があることを説く。
その山村のシャマニズムは、学校教育や近代医療が広がるなかで後退し、キリスト教の布教で2010年頃には姿を消した。だが、近年シャマニズムや神話世界が完全に忘れ去られる前にと、記録を始めた村人たちがいる。私も言語学者と共同で、その記録と翻訳を手伝い始めた。そうしたなか、シャマンの語りや神話で描かれる景観の移り変わりが見えてきた。「伝統文化の消滅」に対する危機意識も重要だが、作業を続けていると、そうした口頭伝承がもたらす視野を広げてくれる楽しさが、私たちを記録や翻訳に駆り立てているように思えてくるのである。
書誌情報
橘健一《エッセイ》「ネパールの自然と景観から ネパールの景観と視野を広げる楽しさ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, NP.6.01(2025年03月28日掲載)
リンク:https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/nepal/essay01/