アジア・マップ Vol.02 | アラブ首長国連邦

《総説》
ドバイ首長国という国

堀拔功二(日本エネルギー経済研究所中東研究センター・主任研究員)

1. ドバイ首長国の成り立ち
 ドバイ首長国はアラブ首長国連邦を構成する首長国の一つである。ドバイ首長国は南のアブダビ首長国、北のシャールジャ首長国の間に挟まれており、面積は4,114平方キロメートル(UAE全体の5%、長崎県とほぼ同じ面積)である。ドバイというと近代的な「都市国家」というイメージが強いが、内陸側には広大な沙漠が広がっているし、またUAE東部にあるオマーンとの国境沿いにはハッターという飛び地もある。以下では、都市部の話題についてはドバイと表記し、首長国全体の話題についてはドバイ首長国と表記する。

 ドバイは中東を代表する商都であり、石油はわずかに産出されるものの、経済の中心は非エネルギー部門である。中東地域における貿易や物流、金融のハブとして、また世界的な観光地としても知られている。ドバイ経済はUAEのGDPの約3割を占めている。また多数の外国人が住んでおり、コスモポリタンな雰囲気はドバイの魅力の一つだろう。2024年5月末時点におけるドバイ首長国の人口は約370万人であり、周辺地域からドバイへ通勤する人々を加えると日中の活動人口は500万人近くなると考えられる。UAEの人口が約1000万人であることを考えると、実にその半数がドバイに集まっているのだ。2021年10月から翌年3月末にかけてはドバイ万博が開催され、国内外から延べ2400万人の入場者を集めた。

2. ドバイの都市発展
 ドバイの中心部にはクリークがあり、天然の良港として歴史的にドバイ貿易を支えてきた。クリークの両岸はドバイの旧市街を形成している。ドバイの発展は様々な人々によって支えられてきており、そのコスモポリタンな雰囲気は歴史的なものである。

 クリーク北側はデイラと呼ばれ、昔ながらのスーク(市場)や金・貴金属を扱ったスーク、貿易商の店が立ち並んでいる。クリークのダウ船の接岸場所では、積み込みを待つ商品が所狭しに並ぶ。クリークの南側はブル・ドバイと呼ばれ、スークのほかには旧首長府やヒンドゥー教寺院、昔の建築物を改築したアート・ギャラリーなどもある。ブル・ドバイにあるバスタキーヤ地区は、イランのバスタク地方出身者が移住して商売の拠点を構えたことに由来していると言われている。そのあたりの路地裏を歩くと、ペルシア様式のシーア派宗教施設があり、青いタイルの美しさに驚くことだろう。近くのグバイバからは、各首長国へ向かう長距離バスが列を連ねている。

 都市としてのドバイの発展は、このクリークを中心に同心円状に広がっていった。そして1990年代以降、ドバイの都市開発が本格的に進んでいくことになる。石油資源の少ないドバイにとって、不動産開発は経済成長の柱のひとつになった。ドバイにはシャイフ・ザーイド道路という南北に突き抜ける幹線道路があり、その両脇には高層ビルが立ち並ぶようになった。ジュメイラからドバイ・マリーナにかけては、高級リゾートや高級住宅地が開発された。またザアビール、ダウタウン・ドバイ、ビジネス・ベイにかけてドバイ国際金融センター(DIFC)やオフィスビル、そしてドバイ・モールとブルジュ・ハリーファというドバイを代表するアイコンが建設された。ドバイの開発は陸上だけでは飽き足らず、海上にも拡大した。ナツメヤシの木の形をした埋立地「パーム・ジュメイラ」や、世界地図をイメージした人工島「ザ・ワールド」など、奇抜な開発プロジェクトは世界からの注目を集めた。ドバイが開発ブームに沸いた2000年代中頃、海上の埋め立て地が相次いで造成されたことにより、UAE海岸線の距離が毎年伸びているという話もあったほどだ。ドバイの都市としての発展は、今なお続いている。

(写真1)バスタキーヤ地区にあるフサイニーヤ・ゲラーシハー(筆者撮影)

(写真1)バスタキーヤ地区にあるフサイニーヤ・ゲラーシハー(筆者撮影)

3. ドバイ首長国の支配体制
 UAEにはバニー・ヤースとカワースィムという二つの大きな部族連合が支配してきた歴史がある。ドバイ首長国の支配家系であるマクトゥーム家は、バニー・ヤースを構成するアール・ブー・ファラーサ支族のなかの有力家系である。なお、アブダビ首長家のナヒヤーン家は、同じくバニー・ヤースを構成するアール・ブー・ファラーフ支族に属しており、この二つの首長家は部族的な系譜意識を共有している。1833年にアール・ブー・ファラーサの800人がバニー・ヤースから離反し、アブダビからドバイへ移住したのが、ドバイ首長国の始まりだと言われている。その後、マクトゥーム家から同地を治める首長が輩出されるようになり、支配はその子孫へと継承されていった。

 1958年に「ドバイの父」と呼ばれるラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥーム首長による統治が始まると、ドバイは近代化の道を本格的に歩むようになった。ラーシド首長はクリークを整備するとともに、港湾や空港、フリーゾーンなど、経済インフラに投資した。周辺諸国に先んじてドバイの経済環境を整備して「ハブ」化したことは、先見の明があったと称えられている。その後、1990年から2006年にかけてはラーシド首長の息子であるマクトゥーム・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームがドバイ首長となり、その後は同じくラーシド首長の息子のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームがドバイ首長を引き継いだ。2024年6月現在、ムハンマド・ビン・ラーシドがドバイ首長であり、その息子のハムダーンが皇太子、マクトゥームが第一副首長、アフマドが第二副首長をそれぞれ務めている。

 それでは、UAEの連邦政治においてドバイ首長国はどのような役割を果たしてきたのであろうか。UAE建国以来、ドバイ首長国の首長が連邦政府の副大統領と首相を兼務することが慣例化しており、歴代の国防相や財務相もドバイ首長家から輩出されている。また政府機能が高度化するなかで、先進的・効率的な行政運営を行ってきたドバイ首長国政府出身の官僚の登用も目立つようになってきた。もともとドバイ首長国はアブダビ首長国と対立関係にあり、1971年にUAEが独立を果たしたあとも、両者は連邦政府の運営方針をめぐり対立してきた歴史があった。しかしながら、2009年の金融危機「ドバイ・ショック」によって両者の力関係は大きく変わることになる。なぜなら、ドバイ首長国政府の財務状況が悪化したため、アブダビ首長国から巨額の経済支援を受けることになったからだ。ちなみに、ドバイを代表する高層ビル「ブルジュ・ハリーファ」の名前の由来は、当時のアブダビ首長の名前にちなんだものである。

(写真2)ビルに描かれたラーシド・ドバイ首長(右)とザーイド・アブダビ首長(左)。二人はUAEの連邦体制の基礎を築いた。

(写真2)ビルに描かれたラーシド・ドバイ首長(右)とザーイド・アブダビ首長(左)。二人はUAEの連邦体制の基礎を築いた。(筆者撮影)

4. 「ドバイ・モデル」の発展と課題
 天然資源に依存しないドバイ経済は、産油国がひしめく湾岸諸国のなかで「非産油国の成長モデル」として長らく注目を集めてきた。すなわち、経済インフラを整備し、物流や金融、人の流れの国際的な「ハブ」になることにより、多くの企業や投資、観光客をひきつける戦略である。例えば関税を免除して外資の100%出資を認めるフリーゾーンの設置や、世界137路線に就航するエミレーツ航空は、ドバイの経済成長モデルを体現している。今日、湾岸諸国は経済多角化を目指す開発ビジョンを掲げているが、ドバイの経済成長は長らく「ドバイ・モデル」としてお手本にされてきた。1990年ごろまで、ドバイは「中東の香港」と呼ばれていたが、2000年代を過ぎると「○○のドバイ」として、開発や成長の象徴として表象されるようになった。

 実際、2000年代はドバイ経済の盛衰をよく示している。2000年から2007年にかけてのGDP成長率は平均14.7%に達した。当時のドバイは各地で開発が進められており、外国人労働者の数も急増していた。一時期は「世界のクレーンの4分の1がドバイに集まっている」というまことしやかな言説が出回っていたほどだ。しかしながら、2008年に世界的な金融危機である「リーマン・ショック」が起こると、ドバイ首長国の債務状況に対する懸念が急速に拡大した。翌2009年11月、ドバイ政府系企業が債務の返済繰り延べを要請したことを受け、ドバイ首長国政府に対する信用不安が拡大した。当時、ドバイ首長国政府および政府系企業が抱えていた債務額は600億ドル(ドバイ首長国GDPの約50%)にのぼっていた。ドバイの急速な発展は過度な借り入れによるものであることが白日の下にさらされと、途端に「砂上の楼閣」と揶揄されるようになってしまった。

 しかしながら、ドバイの発展は止まらなかった。ドバイ政府と政府系企業は債務の借り換えや管理の厳格化、アブダビ首長国などからの借り入れにより、返済を進めている。債務総額は2023年末までに79億ドルにまで減った。一方で、中東経済におけるドバイの競争力やビジネス環境の優位性は維持されており、コロナ後も安定的な経済成長を続けている。

(写真3)ドバイの建設現場で働く外国人労働者。ドバイ経済は多くの人々の存在によって成り立っている。

(写真3)ドバイの建設現場で働く外国人労働者。ドバイ経済は多くの人々の存在によって成り立っている。(筆者撮影)

5. 日本とドバイの関係
 日本におけるドバイの知名度は非常に高い。毎年多くの観光客がドバイを訪問し、ドバイ観光を楽しんでいる。また日本の中東・アフリカビジネスの拠点にもなっており、今日ドバイ(および北部首長国)の在留邦人数は3,557人を数えており、中東最大の日本人コミュニティを形成している(2023年10月1日現在)。

 日本人がドバイに抱くイメージとは、砂漠やラクダなどの典型的な中東イメージに加え、近代的な都市風景や高級感かもしれない。しかしながら、日本人がドバイを初めて知ったのは、1973年7月の「ドバイ日航機ハイジャック事件」をきっかけにしたものである。日本赤軍がパリ発の日航機をハイジャックし、ドバイ国際空港に着陸した事件である。例えば事件を報じる新聞には「ドバイ?どこだ 日航関係者も初耳の土地」(朝日新聞1973年7月21日夕刊11面)という見出しが並んだ。それ以降、しばらくの間はドバイと言えばハイジャックであり、およそ現在のような煌びやかなイメージとはかけ離れていた。

 その後のドバイの発展とともに、同地に進出する日本企業も増えた。1980年にはドバイ日本人学校が開校し、1995年にはドバイ総領事館が設置された。在留邦人の増加に合わせて、日本人向けの食材の取り扱いや日本食レストランも増えている。従来は日本関連企業のドバイ支社へ転勤・駐在する会社員とその帯同家族が在留邦人の中心であったが、最近では現地採用者や投資家、起業家の移住も増えているようだ。

 またドバイは観光地としても人気を誇っている。2001年3月に日本人のUAE入国ビザが免除になり、またエミレーツ航空の直行便が2002年に関西国際空港に就航したことをきっかけに、日本人観光客数は増加していった。定番の観光ガイドブックである『地球の歩き方』では、1994年に『アラビア半島編94 95~96年度版』が発行されると、2001年発行の改定第4版から現行の『ドバイとアラビア半島の国々』に書名が変更された。ドバイへの日本人訪問客数は年々増加しており、ドバイを入り口に、現在ではUAE全体や湾岸諸国の認知も広がっている。

書誌情報
堀拔功二《総説》「ドバイ首長国という国」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2,AE.1.01(2024年10月4日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/uae/country