アジア・マップ Vol.02 | ベトナム
《総説》
ベトナムという国
ベトナムは古くから多民族の間での交流が盛んで、多様な文化が生まれていった。さらに、中国諸王朝の支配や近代以降の植民地化、戦争、分断、統一といった大きな社会の変化を経験している。ベトナムは、長年にわたって大国に翻弄されてきたが、それゆえさまざまな危機を乗り越えるような柔軟性、したたかさをもってきたともいわれる。
ベトナム(正式名称・ベトナム社会主義共和国)は、面積33万1,690平方キロメートルで日本の0.88倍、人口は2021年の時点で9,851万人。人口の約7割弱が農村に住む。北は中国、西はラオスとカンボジアに接したインドシナ半島の東端に位置し、南北に細長いS字の形をした国である。南北の全長はおよそ1650kmで、東西の幅はもっとも狭いところで50kmほどしかない。
ベトナムは常夏の国というイメージを持たれがちだが、北に位置する首都・ハノイでは冬に10度を下回る日もある。ただし反対に、南にあるベトナムの最大都市・ホーチミン市は雨季と乾季のある常夏だ。くわえて中部では年間をとおして雨が多く、暑さも厳しい。亜熱帯・熱帯・モンスーン気候帯が混在している。
南北にはチュオンソン山脈(安南山脈)が延び、北部には広い山間地域があるなど、国土の半分以上が山である。残りの平野、とりわけ北部の紅河と南部のメコン川のデルタ地帯に人口が集中している。全人口のおよそ86%がキン(京)人(ベト人)と呼ばれる人々だが、そのほかタイ系、クメール系など53に分類された少数民族の人びとが生活している。キン人の起源は、インドシナ半島の北部山間部にいたモン・クメール系の集団が紅河の下流に進出し、北方のタイ系の民族集団と交わっていったとする説が有力である。
現在の「ベトナム」という領域がかたちづくられたのは、19世紀初頭のことであった。多数民族のキン人が16世紀以降に北から南へ勢力を拡大していくなか、分裂と統一を経た帰結であった。
ベトナムでは紀元前2000年紀に北部で稲作農業が始まった。紀元前4世紀ごろの北部には、銅鼓に代表される多様な青銅器、鉄器を利用するドンソン文化の担い手がおり、古い時代からの陸の農耕社会というベトナムの象徴的な文化とされる。一方、中部では、海岸部の砂丘に住むサーフイン文化の担い手がいた。現在も、考古学的な発掘調査・研究が進められている。ドンソン文化はいわば中国文明の世界であったが、サーフイン文化はインド文明の文化である。ベトナムは、中国文明とインド文明のはざまの世界に位置していたのである。
紀元後からは、北部の紅河デルタと北中部は10世紀になるまで約1000年の間、中国の支配を受けた。その後、キン人を中心とし、中国の律令や官僚制を採用した国づくりが進んでいった。
中部では、恵まれた季節風によって海上交通の中継点「海のシルクロード」として、ホイアン、ミーソンなどチャンパが拠点とした港が紀元2世紀ごろから栄えていた。しかし、北部ベトナムの勢力が南へ進出し、15世紀末にチャンパは滅亡した。さらに、従来クメール人の勢力下にあった南部のメコンデルタもキン人の領域となっていった。
近代以降のベトナムでは、フランスによる植民地支配の影響を受けることになった。そこでは急速なメコンデルタの開拓が進み、世界有数のコメの輸出地域になるなど、経済面での著しい変化に直面した。最も大きな変化として挙げられるのは、近代の学校教育の普及である。科挙制度が廃止され、それまでの儒学に基づく伝統的知識や、漢字とチュノムにかわって、ベトナム語をアルファベットと発音記号で表したクオックグー(国語)が普及するようになっていった。クオックグーはフランスが導入した教育機関で用いられた、いわば植民地統治の道具である一面をもつが、同時に、その表記方法が漢字やチュノムよりも容易であるため、民衆の民族主義運動にも利用され、独立運動に寄与することとなった。
日本の南進政策にともなう仏印進駐、日仏共同統治、日本の短い支配を経て、ベトナムは1945年にホー・チ・ミンが独立を宣言する。しかし、その後は再植民地化をはかるフランス、東西冷戦下のソ連・中国・アメリカなどの思惑に翻弄されながら、ベトナム国内は南北の分断と戦争に進むこととなった。
約30年間続いた戦争の終結後、ベトナムは北ベトナムが南部を吸収する形で統一された。しかし、資本主義経済で潤っていた南部ベトナムの社会主義化は失敗し、同時にカンボジア侵攻によって国際的な経済制裁で孤立したベトナムは、その後経済的な低迷が続いていた。
人びとは経済的に困難を抱えていただけではなく、戦後の南北間の禍根など、心理的にも苦しい状況が続いていた。
そうした経済的な苦境を受け、ベトナムは1986年に経済の対外開放へ路線を転換する。このドイモイは、ただし、社会主義路線とベトナム共産党の一党支配は維持したままでの、あくまで経済面に特化した変化であった。1995年にはASEANに、1997年にはWTOに加盟した。その後、2008年には中所得国入りするなど、大きく経済成長を遂げ続けている。
2023年は、日越国交樹立50年の記念すべき年である。しかし、これは当時1954年~1975年の南北分断期に北ベトナム(ベトナム民主共和国)と国交関係を結んだ時点から数えている。それより前には西側陣営にいた南ベトナム(ベトナム共和国)と国交関係にあった。
現在、日本では技能実習生や留学生をはじめとするベトナム人の人びとが多く住んでいる。もっとも、こうした日越間の人の移動は、日本とベトナム双方の歴史の重要な転換点に跡を残してきた。
ベトナムが唐の支配を受けていた時期、今のハノイに置かれた安南都護府には、阿部仲麻呂がいた。また、中世の朱印船交易の時代には、「日本人」商人が多数ホイアン周辺にも定着していた。今も残るいくつかの墓は、住民に見守られている。
フランス植民地期、1905年前後には民族独立運動のために青少年を日本へ留学させる東遊運動がファン・ボイ・チャウを中心にはじまった。日本が後にフランスと協約を結んだため、留学生らは帰国を余儀なくされたが、多い時には約300人が日本で学んでいた。
日本からベトナムへの人の移動はどうか。特筆すべきは、第二次世界大戦でポツダム宣言を受諾後、ベトナムに進駐していた旧日本軍兵である。かれらのうち、やがてフランスとたたかうベトミン軍と行動をともにし、ベトナムに家族をつくった残留日本兵がいた。また、詳細は明らかではないものの、ベトミンと敵対するフランス側の勢力に協力した残留兵もいた。
ベトナム戦争後は、さらに現在の問題に直結する形での人の移動があった。戦後、主に旧南ベトナムの地域から多くの人びとが国外へ脱出していった。ボートピープルと呼ばれたかれらに対して日本は入管政策を転換し、初めて難民として受け入れることとなったのである。
現在、日本へはベトナムから多くの若年層が実質的に働き手として来ている。また、日本以外に台湾や韓国をはじめ、多くの国へ労働力輸出という国策のもとで働き手が国外へ出ている。その背景には、ベトナムの都市と農村の格差拡大、経済成長の陰でのコネやネットワークといった資本がない人々の生きづらさのほか、ベトナムの働き盛り世代の多さもあるだろう。しかし、平均寿命が延びたことから高齢化が急速に進み、同時に以前よりも若年層の少子化も進んでいる。ベトナムは、こうした新たに出現した(そして日本と似通った)課題に直面しながら、2045年の先進国入りを目指している。