アジア・マップ Vol.03 | ブータン
《総説》
ブータンの文化遺産と観光
■ブータンの文化遺産
ブータンの主な有形文化遺産には、ゾン(県庁兼僧院もしくは単に僧院等として現役で機能している、または現在は廃墟となっているかつての城塞、地方有力者の邸宅や王家の宮殿等)、ラカン(寺院)、ゴンパ(僧院)、チョルテン(仏塔)、古民家等の建造物がある。また、仏像、仏画、経典、舞踊で用いられる仮面といった仏教に関連する可動文化財、伝統的な工芸品や生活用具等もそれに含めることができる。無形文化遺産としては、祭り自体や祭りで披露される舞踊、工芸技術、音楽、歌垣、口承寓話、礼儀作法等が存在する。
ゾンは、17世紀にブータンを統一した高僧ガワン・ナムゲルがドゥク派(チベット仏教カギュ派の宗派のひとつ)政権の支配拡大及び防衛のために建設したものが代表格である。ゾン建築の起源はチベットにあるが、ブータンのゾンはチベットのものとは異なり各所に木材が使用されており、高温多雨の気候に合った独自の様式が見られる。荘厳な建物には彩色・装飾が施されている。
ブータンを代表する祭りとしては、ツェチュ(月の「10(チュ)日(ツェ)」の意)という、同国に仏教を伝えたとされる高僧グル・パドマサンババ(グル・リンポチェ)を追憶する行事が挙げられる。ブータン全土で1年間に80件以上のツェチュが行われているが、特に主要なゾンで行われるものは規模が大きく、数日間続く一大イベントとして完成している。ただし、ツェチュの文化がブータンでいつどのように醸成されたのかは不明点も多い。ツェチュに欠かせない舞踊・演劇は、高度に可視化された法要であると同時に壮大な仏教説話を分かりやすく民衆に説くものでもあり、そのうちのひとつであるダミツェ・ガチャムは、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。
伝統的な工芸は「ゾーリク・チュスム」と称され、その名が示す通り13(チュスム)種類の技芸(ゾーリク)を指す。これは17世紀後半に分類されたと伝えられており、筆者の理解では絵画、彫塑、彫り、製紙、鋳造、木工、石膏、竹細工、漆工、金銀細工、鍛冶、縫製・刺繍、織りを指すが、論者によってはそこに書、製陶、皮革、線香作り等を含めたり、代わりにどれかを削ったり……と多少の揺らぎがある。総じて仏教美術や仏教建築の土台となるもの、そして人々の生活に欠かせないものである。
上記の例をはじめとした「遺産」の多くは現役で活用・披露されているため、一般的に、ブータンでは過去のものを修復したり同じかたちのまま保存したりする意識はあまりないと言われている。しかしながら、近年の近代化・グローバリゼーションの急速な進行により、一部の文化遺産(特に伝統的な工芸品や生活用具、そしてその製作技術)の消失もしくは衰退の危険性は高まっている。ゾンやラカンをはじめとした建造物の保存・修復に関しては、日本による協力も1990年代から行われている。
■文化遺産保護行政と政策
ブータン国内にはヒンドゥー教徒やキリスト教徒もいるが、その文化は多くの面で仏教と密接に結びついており、文化遺産保護も仏教及び関連する宗教組織(基本的に仏教僧院組織を指す)との関係抜きには考えることができない。
2008年7月に制定された初の成文憲法では、第3条において「仏教はブータンの精神的遺産」と規定され、第4条では、国が(1)モニュメント、芸術的または歴史的に興味深い場所及び物、ゾン、ラカン、ゴンデ(僧院コミュニティ)、テンスム(仏像、経典、仏塔からなる三種の宝)、ネ(聖地)、言語、文学、音楽、視覚芸術、宗教を含む国の文化遺産の保存・保護・振興に努めること、(2)文化を「進化するダイナミックな力」と認識し、伝統的な価値観及び制度の継続的な進化を強化・促進するよう努めること、(3)地域の芸術、習慣、知識及び文化の研究調査を奨励するよう努めることが定められ、同時に、議会はそれらのために必要な法律を制定することができるとされている。文化の保護と振興は、ブータンの国家開発哲学「国民総幸福」(Gross National Happiness: GNH)の4本の柱のひとつにもなっている。
2025年3月現在、文化遺産保護行政は内務省文化・ゾンカ開発局(Department of Culture and Dzongkha Development, Ministry of Home Affairs)が所管している。同局の起源は、ブータンの豊かな文化的・伝統的遺産を保護・促進することを使命として1985年7月31日の勅令により設立された文化問題特別委員会(Special Commission for Cultural Affairs)とされている。同委員会は活動を活性化させるため、1995年に15名の委員を擁するソルジン・レンツォグ(Solzin Lhentshog)として再編成された後、1998年6月に行政権が閣僚評議会に移譲されたことを受け、同年9月に再結成された。その後、2003年6月19日付の通達により内務文化省文化局(Department of Culture, Ministry of Home and Cultural Affairs)となった後、2022~2023年に大きく改組され現在に至る。
同局は国語であるゾンカ開発を含むブータンの文化政策全般を担っており、7つの課―古美術課(Antiquities Division)、遺跡・考古学課(Heritage Sites and Archaeology Division)、図書館・公文書館課(Library and Archives Division)、伝統舞踊・音楽課(Traditional Performing Arts and Music Division)、博物館課(Museum Division)、言語調査・普及課(Language Research and Promotion Division)、ゾンカ開発課(Dzongkha Development Division)―及び宗教組織委員会(Choedhey Lhentshog / Commission for Religious Organization)から成っている。宗教組織委員会が内務省文化・ゾンカ開発局の構成機関に含まれていることが、仏教と文化の関係性の強さの証左となっていると指摘することができる。
関連する法令としては、例えば以下のものが挙げられる(出所:文化遺産国際協力コンソーシアム(2011)『平成21年度協力相手国調査 ブータン王国における文化遺産保護に関する調査報告書』)。
・ 可動文化財法(The Movable Cultural Properties Act of Bhutan)(2005年制定):僧院組織や国、地域共同体、個人によって所有されている製作後100年以上経過し、高名な宗教者に関わり、あるいは高名な工匠によって作られた価値ある文化財について登録を義務付けるとともに、その管理や譲渡、売却等について規定する。
・ 宗教組織法(The Religious Organizations Act of Bhutan)(2007年制定):国内における宗教組織の登録と義務、権利等について定める。
・ 寄託義務法(Legal Deposit Act)(1999年制定):言語、媒体を問わず、国内での新規出版物を全て公文書館に寄贈することを義務付けている。
上記の法令によって、登録された可動文化財に関しては許可なく修復・改変を加えることが禁じられているが、ゾンやラカンをはじめとした建築物に関しては、原形のまま保存するという規則や意識はなく、機能的または宗教的必要性に応じてしばしば改築が行われている。ブータンは2001年に世界遺産条約に批准しているが、世界遺産登録後の活用や改築への規制に対する懸念から、建築物の登録には前向きではない。
国内の建築物が遵守すべき基準は公共事業省(Ministry of Works and Human Settlement)―現・国土交通省(Ministry of Infrastructure and Transport)―によってまとめられ、2014年発行のガイドラインや2018年発行の規則が公開されている。例えばアパートを含めた新たな一般建築にも柱、窓、屋根の形状をはじめとした遵守すべき建築基準が定められており、外観には「ブータン色」を出す意匠が施されている。
■観光制度と文化遺産
ブータン政府は「少量・高付加価値(High Value, Low Volume)」を謳い、1974年の外国人旅行者受入開始より、公定料金(開始当時は1日あたり130ドル/人)制度をもとにしたパッケージツアーというかたちでのみ観光ビザを発給してきた。このような観光制度の導入背景には、観光インフラの未整備状況に加え、固有の文化及びナショナル・アイデンティティを保護する思惑があったと考えられる。公定料金は、新型コロナウイルス感染症拡大のため外国人旅行者の受入を停止した2020年3月時点では1日あたり200~290米ドル/人であり、その中にブータン政府に納める観光税(65米ドル)の他、宿泊ホテル代、交通費、食費、ガイド料金、旅行に必要な費用が含まれていた。
2022年9月に外国人旅行者の受入を再開した際にこの公定料金制度は廃止され、オーバーツーリズムへの懸念を主な理由として、観光税を1日あたり200米ドル/人に値上げし、さらに旅行に必要な費用は別途支払うという新制度が導入された。制度の変更による外国人旅行者の減少幅が予想以上に大きく危機感を募らせたのか、微修正の後、2023年9月1日からは「2027年8月31日までの期間限定」で1日あたり100米ドル/人への観光税の値下げが行われている。また2025年3月現在、子ども(6~12歳)に対しては観光税の追加50%割引、インドより陸路で南部の国境地帯の町のみ訪問し、24時間以内にブータンを出国しインドに戻る場合は観光税免除……といった特別措置も存在する。
新型コロナウイルス感染症拡大前の2019年の外国からの訪問者数は年間31万5,599人で、そのうちの約73%(23万381人)はインド人が占めていた。当時インド人に対しては公定料金制度は適用されず観光税も免除されており、2022年9月からの新制度のもとでもインド人に対しては1日あたり1,200インドルピー/人と、例外的に観光税の額が低く抑えられている。新聞記事によると、2024年の外国からの訪問者数は年間14万5,065人で、そのうちの約65%(9万4,280人)がインド人であった。
ゾンやラカンをはじめとした建造物は主要な観光地となっており、そこで行われる祭りを目当てにブータンを訪れる旅行者も多い。報道によると、2025年3月上旬にプナカ県のゾンにて6日間にわたって行われた祭り(プナカ・ドムチェ及びプナカ・ツェチュ)には、3,300人以上の外国人旅行者が訪れたという。また、岩壁に張り付くように建てられているタクツァン僧院への訪問は、ブータン観光のハイライトとして特に人気が高い。
以前は、文化遺産保護の観点から外国人旅行者のラカン等への訪問規制や写真撮影制限等があったようだが、現在は基本的にはそのような措置は取られていない。ただし、上記のタクツァン僧院を含めた外国人旅行者が多く訪れる西部の主要なゾンやラカンは、新制度のもとでは入場料・拝観料を徴収するようになっている。
前述の通りブータンにおいては「遺産」の多くが現役で活用・披露されているため、旅行における日常が直接文化体験となり、文化遺産に触れる機会となるが、それぞれの興味関心にしたがい、可動文化財が多く収蔵されており建物自体も興味深い国立博物館(於:パロ)、豊富な織物が展示されている織物博物館、伝統的な生活用具・生活スタイルを知ることができる民俗博物館、印刷・出版関係の博物館を併設している国立図書館・公文書館、工芸技術の専門学校である伝統技芸院、手漉き紙の製造工程を見学することのできるジュンシ製紙工房(於:ティンプー)等を訪れる旅行者もいる。
■ブータン人の国内観光と聖地
外国人旅行者の受入が停止されていた時期、政府観光局(Tourism Council of Bhutan、現・Department of Tourism)は国内観光をプロモーションし、国内観光市場開拓(及び外国人旅行者のブータン再訪率増加、地域の活性化)を狙った「ドゥク・ネコル」という聖地巡礼プログラム(ブータン版お遍路)も発表した。ブータン人の国内観光は、ゾンやラカンの訪問・参拝や祭りの見物から、ピクニック、湯治、社会科見学、聖地巡礼に至るまで幅広い。文化遺産と関連する新出のものとして、憲法においても文化遺産のひとつに挙げられている、ネと呼ばれる聖地を紹介する。
ネは聖地全般を指し、ブータン南部に多く存在するヒンドゥー教の聖地も含めた概念であるが、狭義では仏教の聖地を指す。内務省文化・ゾンカ開発局古美術課が改組前の文化財課(Division for Cultural Properties)時代に作成した県別ガイドブック『聖地(ネ)エッセンシャルガイド』(全13巻、合計3,500頁超)からは、非常に多くのネが国内に存在していることが分かる。
『聖地(ネ)エッセンシャルガイド』
・ 第1巻:ルンツェ県
・ 第2巻:タシ・ヤンツェ県
・ 第3巻:モンガル県
・ 第4巻:ペマガツェル県、タシガン県、サムドゥプ・ジョンカル県
・ 第5巻:ブムタン県
・ 第6巻:ダガナ県、チラン県、サルパン県
・ 第7巻:シェムガン県、トンサ県
・ 第8巻:パロ県
・ 第9巻:チュカ県、ハ県、サムツェ県
・ 第10巻:プナカ県、ガサ県
・ 第11巻:ワンデュ・ポダン県
・ 第12巻:ティンプー県
・ 第13巻:補遺(モンガル県、タシ・ヤンツェ県、ブムタン県、ルンツェ県、トンサ県、パロ県)
ネの由来やそこに鎮座する聖跡は多岐に渡り、到達までの道の険しさや整備状況、巡礼のスタイルもさまざまである。例えば、高僧グル・パドマサンババとその妃イシェ・ツォゲルの聖なる住処・瞑想地だという言い伝えが残るロンツェ・ネ(於:ハ県)は、自動車道路より徒歩約40分、標高1,200メートルほどの谷に位置する洞窟である。雨期である6~8月は川の増水のため訪れることができない。
洞窟内には、グル・パドマサンババの足跡や馬の鞍、グル・パドマサンババとイシェ・ツォゲルそれぞれが瞑想した空間、観音菩薩の玉座、金剛杵、悪魔の肋骨と心臓、悪行を告白するための聖なる岩をはじめとした数多くの聖跡があり、奥に進むにつれ狭く険しくなっていく。第1の入口、第2の入口……と続いていくが、最後の第6の入口は非常に狭く、巡礼に訪れたブータン人でもほとんどの人は入るのを躊躇うという。
ロンツェ・ネの中には数多くの地下道があると言われており、そのうちのひとつはシッキム(インドのシッキム州)のネに繋がっていると信じられている。また、麓では2024年12月に初めてツェチュが開催され、今後毎年行われる予定である。
(写真はすべて筆者撮影)書誌情報
平山雄大《総説》「ブータンの文化遺産と観光」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, BT.1.01(2025年5月22日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/bhutan/country01/