アジア・マップ Vol.03 | カンボジア
《総説》
カンボジアの観光振興:魅力の多様化と裾野産業の役割
(翻訳) 藤川清史(愛知学院大学経済学 教授)
観光産業は過去30年間にわたってカンボジア経済成長の主要なエンジンである。観光産業は、外国からの直接投資を誘致し、地元住民に幾千の雇用機会を生み出すことでカンボジア経済に大きく貢献している。新型コロナのパンデミック以前、カンボジアを訪れる外国人観光客数は着実に増加し、2019年には約700万人に達した。しかし観光産業は新型コロナによって大打撃を受け、宿泊・飲食業を始めとする多くの観光関連事業が閉鎖に追い込まれまた。コロナ禍のピークであった2021年には、外国人観光客数は20万人を下回るまで急落したが,その後徐々に回復し2024年には650万人を超えた。ただしこの人数は依然としてコロナ禍前の水準(2019年)を下回っており、観光産業がまだ完全に回復していない。カンボジア政府は観光産業の重要性を認識しており、観光産業振興に様々な政策を実施してきた。これらの取り組みはインフラの改善、文化遺産や自然遺産の保護、観光・接客技術の訓練、観光名所の多様化などを含む。政府はコロナ禍で観光活動が低調である期間に、シェムリアップ市(ユネスコ世界遺産のアンコール・ワット寺院のある都市)に約1億4,900万米ドルのインフラ投資を行った。
カンボジアは自然のままの白い砂浜、天然の淡水湖、緑豊かな森林などの豊かな自然資源に恵まれており、観光産業に比較優位がある。例えば、カンボジアの砂浜は世界で最も美しいビーチの1つに選ばれている。ただ、これらの優位性にもかかわらず、カンボジアを訪れる外国人観光客数はタイ、マレーシア、シンガポール、ベトナムなどの東南アジア諸国に比べて大幅に少ない。カンボジアでは、観光の多様性に欠け、観光客が訪れる目的地が限られているため滞在期間が短く、経済への貢献が限定的であるというのが観光産業の課題である。アンコール・ワットを訪れる外国人観光客からは、寺院を1日観光した後に、夜にどこへ行き、何をすればいいのかわからないという声が聞かれる。つまり、寺院観光以外のアクティビティ不足が問題となっているのである。寺院は主要な観光名所ではあるものの、観光客の体験を増やすためには、博物館などより多くのアトラクションや関連アクティビティが必要である。カンボジアでは観光スポットになりうる博物館の数が不足している。観光産業を活性化し、より多くの観光客を誘致するためには、観光スポットの多様化、マーケティング活動の改善、観光客の体験の充実、インフラと人材育成への継続的な投資などの様々な対策に取り組む必要がある。これによりカンボジアは観光産業を強化し、一流の旅行先としての魅力を高めることができる。
2.カンボジアの寺院遺跡カンボジアの観光産業は世界最大規模で、極めて有名な宗教建築物であるアンコール・ワットによって牽引されている。カンボジアを訪れる外国人観光客のほとんどは、この象徴的な寺院を訪れる。政府は外国人観光客へのチケット販売で年間数百万ドルの収入を得ている。観光客はアンコール遺跡公園の入場券を購入すると、アンコール・ワットに加えて、その他の数多くの寺院にも入場できる。中でもタ・プローム寺院はハリウッド映画「トゥームレイダー」に登場したことで、外国人観光客によく知られている。これらの古代寺院のほとんどはシェムリアップ州に位置しており、同州はカンボジアで最も重要な観光地となっている。
外国人観光客はシェムリアップ州だけに古代寺院があると思っているが、実際には様々な建築様式の異なる歴史的時期に建造された寺院がカンボジアの他の州にも点在している。シェムリアップ郊外で注目すべき寺院は、タイ国境のプレアヴィヒア県のダンレク山脈の最高峰にあるプレアヴィヒア寺院(ヒンドゥー教寺院)である。この寺院もユネスコ世界遺産に登録されている。もう1つの著名な寺院は、バンテアイ・ミアンチェイ県にあるバンテアイ・チュマール寺院で、これは現在ユネスコ世界遺産候補となっている。これらの素晴らしい遺跡があるにもかかわらず、限られたインフラ、不十分な観光・接客サービス、広報やマーケティングの欠如といった制約により、国内外の観光客がこれらの寺院を知り訪れることはない。プレアヴィヒア県とバンテアイ・ミアンチェイ県はシェムリアップに隣接しており、情報があればシェムリアップからこれらの近隣県へ足を延ばすことも考えられる。この目標を達成し観光客の体験全体を増加させるためには官民連携が不可欠である。これらのインフラとサービス関連の課題を解決することで、カンボジアは豊かな文化遺産をより有効に活用し観光サービスを多様化させられる。そうすればより多くの観光客を誘致し経済を活性化できる。
図1. トラ・プローム寺院
https://unsplash.com/photos/people-walking-near-brown-concrete-building-during-daytime-NCC0LWXqnGE
(最終閲覧日2025年9月9日)
図2. アンコール・ワット
https://unsplash.com/photos/a-group-of-people-walking-across-a-lush-green-field-7KQmtTT1DPU
(最終閲覧日2025年9月9日)
図4. バンテアイ・チュマール寺院の彫刻
資料: Guiding Cambodia
https://www.guidingcambodia.com/hidden-banteay-chhmar-temple/
(最終閲覧日2025年9月9日)
カンボジアは寺院や文化遺産だけでなく、悲劇的なジェノサイドの歴史に関連する「ダークツーリズム」でも知られている。キリング・フィールドやトゥール・スレン虐殺博物館といった観光地には、毎年何千人もの観光客が訪問している。また、トンレサップ湖や北東部の豊かな森林には、水上集落や先住民族のコミュニティがあり、アクティビティは限られているもののユニークな観光体験を提供している。カンボジアには独特の文化遺産と自然資源があり、優れた観光商品を提供している。
しかし、より多くの観光客を誘致するには効果的な観光プロモーションとキャンペーンを実施し、特に安全と治安の面で支援産業と環境を改善することが不可欠である。カンボジアは戦争やテロのような大きな治安問題に直面していないが、ひったくりやスリなどの窃盗が散発的に発生している。これらの事件は外国人観光客が安心して地域社会を散策することを妨げている。観光客は安全性を基準に旅行先を比較検討し、安心して旅行を楽しめる場所を好む。安全性への懸念に対処するだけでなく、効率的な公共交通機関の利用可能性と歩行者用歩道と車道の明確な区分は、移動を円滑にするために不可欠である。プノンペンやシェムリアップなどのカンボジアの主要都市は、歩行者用通勤スペースの不足という課題に直面している。そのため、政府はシェムリアップのインフラ整備の際に歩行者用歩道を拡張した。プノンペンなどの他の主要都市でも同様のインフラ整備を実施する必要がある。これらの要素は旅行体験全体を向上させ、観光客が快適かつ安全に街を移動できるようにするため、観光客誘致にも不可欠である。これらの側面を改善することでカンボジアは観光地としての魅力を大幅に高めることができる。したがって、安全対策と交通対策の強化は観光客数の増加に不可欠である。国土の安全性が高まれば高まるほどより多くの観光客を誘致できる可能性が高まり、ひいては観光産業の活性化と経済への貢献につながる。
4.観光支援産業としての飲食業観光を支える重要な産業は飲食産業である。飲食産業は観光において非常に重要な役割を果たしており、「美食観光」と呼ばれる観光カテゴリーも存在するほど飲食は観光客が国を訪れる主な理由の1つである。外国人観光客は必然的に地元のレストランで食事をしたり屋台料理を楽しんだりするが、一般的には、地元の料理が美味しく安全であれば、観光客は自国の料理を食べるよりも地元の料理を試す傾向がある。カンボジアは、美味しい料理で知られているベトナムとタイの間に位置している。また、カンボジアの食文化はこれらの隣国に加えて、中国料理やインド料理の影響も受けている。カンボジアでは地元料理に加えて、タイ料理やベトナム料理の影響を受けた料理も簡単に見つけることができる。さらにカンボジアは外国料理に対する受容性が高く、プノンペン、シェムリアップ、シアヌークビルなどの主要都市では、西洋料理やアジア料理など様々な国の料理を楽しむことができる。これは、外国人観光客が好みの料理を気軽に見つけられることを意味するが、カンボジア独自の料理がないわけではない。地元発祥の料理やカンボジア独自の味覚に合わせてアレンジされた料理は数多くあり、外国人観光客もそれらを楽しむことができる。
もちろん料理の味は重要であるが、料理の衛生状態、清潔さ、盛り付けの改善が求められる。地元発祥で手頃な価格であることから、外国人観光客の間で屋台料理を試す傾向が強まっている。しかし屋台料理は地元料理人が調理することが多く、料理人が適切な訓練を受けていない場合は、厨房の清潔さ、食品衛生、盛り付けなどに配慮が行き届いていない場合が多い。屋台料理が清潔でなかったり、調理や盛り付けが魅力的でなかったりすると、観光客は不快感を覚えるだろう。外国語のガイドブックに食中毒などの問題から避けるべき料理の記載があると、観光産業への悪い印象となる。プノンペンの屋台料理はバンコクやホーチミン市のような都市に比べると遅れをとっている。したがって、屋台の調理人に調理技術と衛生管理の訓練を行い、観光客が安全に食べられる食品を提供することで、観光産業にプラスの影響を与える。清潔さは飲食産業だけにとどまらず、地域社会、都市、観光地といった環境全体でも同じことである。ゴミが山積みになり悪臭が漂う場所では観光客は歓迎されていないと感じるだろう。全体的な清潔さと衛生状態の改善は、観光客の体験を向上させ、カンボジアの観光地としての魅力を高めるために不可欠である。
5.まとめカンボジアはアンコールワットへの過度な依存を減らし、他のタイプの観光や別の目的地への多様化を図ることで観光産業を強化する可能性を秘めている。これには沿岸地域での観光開発を行い、自然が豊かな淡水湖や森林地域でより魅力的なアトラクションを開発することが含まれる。さらに観光客の安全確保、観光客が安心して楽しめる活気ある飲食産業の発展など支援活動、そして観光客が無駄な出費や事故予防に不必要な対策をすることなく容易に移動できる効率的な公共交通システムの確立などが必要である。これらの制約を取り除くことができれば、観光産業はカンボジアの持続的な経済成長にさらに大きく貢献するだろう。
書誌情報
タット・リドー著/藤川清史訳《総説》「カンボジアの観光振興:魅力の多様化と裾野産業の役割」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, KH.1.01(2025年9月18日掲載)
リンク:https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/cambodia/country01/