アジア・マップ Vol.03 | カンボジア
《総説》
カンボジア語 半世紀ぶりに改訂された国語辞典
日本では、カンボジア語、もしくはクメール語と呼ばれているが、これらは同一の言語である。原語には、កម្ពុជា(/kampuʔcèə/カンボジアに相当)とខ្មែរ(/kmae/クメールに相当)の2語がある。កម្ពុជាは、正式国名の「カンボジア王国」など公的な場面で用いられる語で、後述する国語辞典によると「黄金の地」の意味をもつとされている。一方、ខ្មែរは、ភាសាខ្មែរ(/phèəsaa kmae/「言語+カンボジア=カンボジア語」)など、より一般的に用いられている。現代の標準カンボジア語では、音節末のរ /r/ は発音されないが、このខ្មែរという語はローマ字で書き表した際に、khmerと表記されたため、日本語のカタカナでもクメールと表記されてきた。 カンボジア王国憲法では、カンボジア語とカンボジア文字が公用の言語と文字であるとされている。カンボジアの総人口は17,280,543人(カンボジア国家統計局2024)であるが、母語に関する調査によると、97.05%がカンボジア語を母語としている(同2013)。それ以外の母語としては、ベトナム語、中国語、ラオス語、話者数の少ない言語等が挙げられている。
半世紀ぶりの国語辞典2022年に、カンボジア王立学士院の国語研究所によって、公式の国語辞典が55年ぶりに改訂されたことは、画期的な出来事であった。この国語辞典は、主にオンラインでの利用を目的としており、印刷数は700部程度にとどめた代わりに、辞書アプリが無償で配布されている。
従来の国語辞典は、上座仏教大僧正でもあり国語学者でもあったチュオン・ナート(1883-1969)が中心となって編纂したもので、1938年の初版から版を重ねた。チュオン・ナートの名は国語辞典の代名詞となっており、第5版(1967-68)は国民に長く信頼され愛用されてきた。その後のクメール・ルージュ(ポル・ポト)政権下で、多くの図書が失われたが、この国語辞典については、1983年に、日本人研究者が中心となって組織された「カンボジア仏書復刊救援会」が寄付を募り復刻した2,000部をカンボジアに贈呈し、日本とカンボジアの親善の架け橋となった。
20世紀後半に長く続いた内戦が終結した後も、国語辞典の編纂という大事業はなかなか始まらなかった。その間に、後述する文字の仕組みの複雑さが原因となり教育で用いられる正書法が簡易化されたことや、新聞、雑誌などのメディアでのことばの誤用について、有識者の間で国語論争が絶えなかった。一例を挙げると、1996年の国際カンボジア学会では、キン・ソック博士が1982年及び1994-96年の40紙の新聞を資料とした書き言葉の調査結果を発表し、正書法と異なる綴り、新語や口語や外来語や誤った語の使用、句読点の誤り、名詞の動詞化、文法の誤り、外国語からの直訳、コンピュータ上での誤った禁則処理の10点を挙げ、もはやカンボジア語の語彙も文法も忘れ去られており、「記者はもう一度学校で国語と作文を学び直すべきだ」と痛烈に批判した。また、外資系企業が機械翻訳した結果である「貴殿鶏肉食堂」、「カンボジア肉販売店」などのカンボジア語として許容しがたい看板も話題になった。このような状況の中で、社会の要請にこたえるため、2018年に辞書の改訂が国家事業として開始されることとなった。
国語辞典編纂委員会には65名の委員が参加し、基本的に第5版を継承するという方針のもと、現在広く使われている語を追加し、また一部の意味の記述を改訂することとなった。意見聴取のためのセミナーも実施し、順調に作業を進めていたところに新型コロナの流行が始まったが、オンラインの編纂会議を行うことで危機を乗り越えた。委員の中でも実質的な編纂作業を担当した国語専門家たちは、毎週会議を行い、追加する語彙の選定と意味の記述について忍耐強く着実に議論を重ねた。外部からの批判を受けることもありながら、カンボジア文化を愛する精神をもって時間と労力を惜しみなく注ぎこの大事業を成功させた専門家たちに心からの敬意を表したい。
追加された見出し語編纂委員長のヒアン・ソコム博士は、2023年9月25日の完成式典において、「この『国語辞典2022年版』は、チュオン・ナート辞典(1967-68)にあった見出し語に新たな語彙を加え44,697語とした。そのうち見出し語が31,037語である」と語っている。具体的には、これまで親見出しとならず、子見出しとされていた語であっても、現在ではよく使われる熟語(憲法、国会、卒業証書など)や、親見出しと直接的な意味の関連がない慣用句は親見出しとした。また、外来語、新たな地名も追加した。その他の変更点としては、見出し語にはすべて読み方を付し、見出し語の配列で補助符号がつく場合に、音ではなく文字を優先した。さらに、第5版で12種類に分類されていた品詞を、現代の文法にあわせて8種類に再分類した。この再分類の背景として、カンボジア語が類型的には孤立語とされ、語は語形変化をせず、形の上から分類することができないため、国語学者の間でも品詞分類については諸説があったことが挙げられる。
『国語辞典2022年版』に追加された見出し語として最も重要な語は、ស្រូវ(/srəv/稲)であろう。主食であり重要な作物であるが、第5版では、ស្រែ(/srae/田)の意味の記述中には出現するものの、ស្រូវ自体は見出し語とされていなかった。
それ以外に、ខ្មែរក្រហម(/kmae krɔɔhɔɔm/クメール・ルージュ)も追加されており、「左派のカンボジア人集団(共産主義傾向の者)。ノロドム・シハヌーク殿下が20世紀の60年代末にこのように呼んだ。用例:クメール・ルージュは1975年から1979年に権力を握った」と記述されている。しかし、近年、主に若年層に流行している新語については定着するかどうか予想できないため大部分の採用を見送ったとされている。
追加された見出し語は外来語が多く、កូវីដ១៩(/koovit dɔp pram buon/新型コロナ)、បាក់ឌុប(/bak dòp/中等教育第二期修了試験)、ខារ៉ាអូខេ(/khaaraaʔookhee/カラオケ)などがある。なお、បាក់ឌុបにはフランス語が語源と記されているが、កូវីដ១៩やខារ៉ាអូខេに語源は記されていない。
意味の記述『国語辞典2022年版』でも、第5版にあった見出し語の語釈は基本的に変更されていないが、下記のように一部が変更されている。
加筆された例としては、គ្រួសារ(/krusaa/家族)という語がある。第5版では、「家族、父母と子の家族集団」とされていたが、新版では「1 父母、子など、誕生、婚姻、養子縁組によって縁をもち同居する人間の集団。2 夫または妻」と、配偶者を表す第2の意味が追加されている。
一方で、記述の一部が割愛された例としては、កម្ពុជា(カンボジア)という語がある。「我々のカンボジア国は、独立、中立、仏教の国家としての地位を取り戻して以来、シハヌーク殿下の聡明かつ賢明な英知により人民社会主義共同体制をつくりだしてきた。我々は固くよりあわされた縄のように一致団結し、平和と安全と発展と成長と繁栄と進歩を数知れず兼ね備えている。カンボジア人同士が力の限り助け合い、自らの力で生活と平和を確立し、発展を生み出し、世界中に多くの友好国を有するという声望をもつ」という第5版にあった記述は、国語辞典に掲載される情報としては詳細すぎると考えられ、割愛されている。
上述の『国語辞典2022年版』以外にも、国語辞典は出版されており、より詳細な意味用法が記された辞典もある。一例として、ក្រុមអ្នកអក្សរសាស្ត្រ&អ្នកវិទ្យាសាស្ត្រសង្គម(人文学会・社会学会) によって、同じ2022年に出版されたវចនានុក្រមភាសាខ្មែរបច្ចុបន្ន(『現代カンボジア語辞典』)を挙げる。ញ៉ាំ(/ɲam/食べる)という語について、『国語辞典2022年版』では「小さな子どもに対してのみ用いる」とされている。一方、『現代カンボジア語辞典』の方は、「都市部の子どもが使っていたものを対等の関係にある成人で、特に親しい間柄の場合に使うようになった。しかし、年齢や地位が上の人に対してពិសា(/piʔsaa/召し上がる)という語の代わりには使えない。地方ではពិសាという語は、ポル・ポト時代に一般に使われたហូប(/hoop/食べる)に置き換えられた。その30-40年後に、ញ៉ាំは再び都市部で使われるようになってきた」と、類義語との使い分けや用法の変化まで解説している。
55年ぶりの国語辞典の改訂をきっかけに、今後もさらに国語学が発展し、国語辞典も充実していくことが待ち望まれる。
以上、国語辞典の改訂について述べたが、カンボジア語の文字の仕組みについても簡単に解説しておく。
カンボジア語の文字は南インド系の文字を変化させた固有の表音文字である。子音を表す文字の上下左右のいずれかの位置、もしくは組み合わせた位置に母音記号を付ける(画像1)。それ以外に付加記号も用いる(画像2)。語の中で子音が連続する場合には、第二子音以降は脚と呼ばれる別形態を用いる(画像3)。
文章は左から右に横書きする。日本語と同じく分かち書きをしないため、単語の間にスペースはないが、電子形態で利用する場合には、禁則処理のために目に見えない「ゼロスペース」を入力することがあり、一部のウェブサイトでは、スペースの表示、非表示を切り替えることもできる。文字や記号の数が多く、複雑な仕組みであるため、活字やタイプライターを使用していた時代には出版のための苦労が多かった。前述の教育での正書法の簡易化も、活字やタイプライターでは文字数を減らした簡易な綴りの方が扱いやすいという事情もあったと考えられる。コンピュータを利用するようになってからも、文字コードが統一され、実装されるまでにはかなりの年数が必要だった。2025年現在でも、子音文字の上下にそれぞれ2段階で脚や記号がつく場合に、ローマ字など他の文字の行の高さに合わせた制限によってカンボジア語の記号が見えなくなったり、一部のアプリで左につくべき記号や脚が正しい位置に組み合わされなかったり、データとしての検索機能が制限されるなどの大きな問題が残っている。
古い記録が残る文字に対し、音が変化したため、文字と音の対応が複雑になっており、同じ子音を表す文字が複数存在する(例 កとគはともに/k/を表す)一方、複数の母音を表すために一つの記号を用いているため、二つのグループのどちらに属する子音文字にその母音記号を付されているかによって、読み方が異なる(例 កា /kaa/、គា /kèə/)。
このように文字と音の対応も複雑であるため、初等教育の国定国語教科書では、手本を見てバランスのよい文字を書き、正しい綴りを学ぶことに1年間をあてている。また、前述した『国語辞典2022年版』では、見出し語と一部の子見出しに読み方を付記しているが、さらに、同じ脚文字を持つ二つの子音文字(ដ/d/とត/t/)については、見出し語の読み方の後に、その脚がどちらの文字の脚であるかも記している。
文字の書き順や、音声や文法など詳細については、東京外国語大学言語モジュール・カンボジア語を閲覧されたい。ナカグロを入れた方が読みやすいかと思います。ご検討ください。なお、本稿の/ /内は坂本(1988)に従った音韻表記を用いた。また、本稿にご助言をいただいた、国語辞典編纂委員の一人であるカンボジア王立プノンペン大学のKEP Sokunthearath教授に感謝する。
画像1 子音文字と母音記号の組み合わせの例
画像2 付加記号がついた語の例
画像3 脚がついた語の例
参考リンク
・National Institute of Statistics. 2013. Cambodia Inter-censal Population Survey 2013. https://www.nis.gov.kh
・National Institute of Statistics. 2025. Cambodia Inter-censal Population Survey 2024. https://www.nis.gov.kh
・The National Council of Khmer Language of the Royal Academy of Cambodia https://nckl.rac.gov.kh/
・東京外国語大学言語モジュール・カンボジア語 https://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/km/
・坂本恭章. 1988. 「クメール語」. 『言語学大辞典第1巻世界言語編(上)』1479-1505. 三省堂.
・坂本恭章. 2001. 『カンボジア語辞典』. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所.
・峰岸真琴. 2001. 「クメール文字」. 『言語学大辞典別巻 世界⽂字辞典』349-357. 三省堂.
・ក្រុមប្រឹក្សាជាតិភាសាខ្មែរនៃរាជបណ្ឌិត្យសភាកម្ពុជា. 2022. វចនានុក្រមខ្មែរ. រាជបណ្ឌិត្យសភាកម្ពុជា.
・ក្រុមអ្នកអក្សរសាស្ត្រ&អ្នកវិទ្យាសាស្ត្រសង្គម. 2022. វចនានុក្រមភាសាខ្មែរបច្ចុបន្ន. CU.
・ឃីន សុខ. ភាសាខ្មែរនៅក្នុងសារពត៌មាននៅឆ្នាំ១៩៩៦. 1999. In: ស៊ន សំណាង(ed.)ខេមរវិទ្យា 2. 710-717.
・ជួន ណាត. 1967-1968. វចនានុក្រមខ្មែរ. ពុទ្ធសាសនបណ្ឌិត្យ.
・លេខាធិការដ្ឋានក្រុមប្រឹក្សាជាតិភាសាខ្មែរនៃរាជបណ្ឌិត្យសភាកម្ពុជា. 2023. ដំណើរការបច្ចុប្បន្នកម្មវចនានុក្រមខ្មែរឆ្នាំ២០២២. ក្រុមប្រឹក្សាជាតិភាសាខ្មែរនៃរាជបណ្ឌិត្យសភាកម្ពុជា.
書誌情報
上田広美《総説》「カンボジア語 半世紀ぶりに改定された国語辞典」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, KH.1.02(2025年00月00日掲載)
リンク:https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/cambodia/country02/