アジア・マップ Vol.03 | 中国

《エッセイ》
中国と私 敦煌から発見された古写本

 
髙井 龍(龍谷大学世界仏教文化研究センター 研究員)

 高校の世界史の教科書において、中国の歴史は大きな割合を占めている。漢・武帝(在位:前141-前87年)によって、武威・張掖・酒泉・敦煌という4つの郡が設置されたことも、重要な学習事項となっているはずだ。そこで初めて敦煌という地名を覚える人も少なくないだろう。

 1900年のこと、敦煌の石窟・莫高窟において、王円籙という道士が数万点の古文書を発見した。その古文書を、敦煌文献という。それらは、4、5世紀から11世紀初頭までの文献であり、特に9、10世紀の漢文写本を中心とする。1907年、イギリス国籍のハンガリー人であるマーク・オーレル・スタイン(Marc Aurel Stein)が、馬蹄銀4枚で大量の敦煌文献と塑像などの美術品を購入した。続く1908年には、フランス人のポール・ペリオ(Paul Pelliot)が莫高窟の中で良質の写本を選別してフランスに持ち帰った。それにより、敦煌文献はまずイギリスとフランスへ流れた。翌年、ペリオは北京でその一部を中国人に開示したところ、その内容に衝撃を受けた中国人は、急いで敦煌文献の中国国内における保全に動き出した。しかし、中国人にとって悲しい歴史でもあるのだが、敦煌から北京へ文献を輸送する際に、中国人がその一部を抜き取るということが起こった。その後、まだ敦煌に数多く残っていた文献も、ロシアや日本をはじめとする他国の探検隊の入手するところとなった。

 日本人の敦煌文献の入手には、大谷探検隊が関わっていた。大谷探検隊とは、西本願寺門主・大谷光瑞により、アジアに残る仏教の遺跡や文物の調査・収集・保存等を目的として組織された探検隊である。合計3回にわたって派遣された探検隊のうち、第2回目に派遣された吉川小一郎と橘瑞超が、1911年から1912年にかけて敦煌でも活動し、王道士から敦煌文献を購入した。その記録が、吉川小一郎『支那紀行』(上原芳太郎編『新西域記』下巻、有光社、1937年)にある。吉川も橘も、まだ20歳前後であった。そのような日本人の若者たちがアジア各地を踏破し、敦煌で王道士から直接敦煌文献を購入したことは、日本近代史の一コマとして記憶されるに値しよう。ここに、その記録の一部を抜粋して紹介する(補:字体と書式は適宜修正した)。敦煌文献の入手については勿論であるが、先に敦煌に着いた吉川が、音信不通となっていた橘の行方を懸念している様子も窺われる。

『支那紀行』巻一より
・十月五日(木)曇 晩六時敦煌に着す。纏頭の家を借り、茲に暫らく余の家庭を作る。
・十月十日(火)晴 道士に交渉して所蔵の唐経を得んと欲し、長時談ずる所あり、遂に目的を達す。精査は別日に譲り、六時半帰寓す。
・十月十九日(木)快晴 洞窟内の唐代の壁画を撮影す。此の夕石摺師敦煌より来る。
・十一月廿五日(土)曇 前七時廿分、十度、昨夜買ひし豆腐は凍りて、朝飯に珍菜と為る。但し素質の日本に劣れるは如何ともす可からず。敦煌着以来の寒強きも勇を鼓して、城外を一週して帰る。此の朝バロメーターを検せしに午前四時停止し、日記を綴らんとせば、ペン先は凍結す。昨夜初めて狼の声を聞く。「ウォー」と鳴音の尻を強く上ぐる、如何にも食に飢うる気味あり。
・一月三日(水)曇 橘氏と聯絡の途を考究す。余自ら哈密に赴き、同地より打電するか、又は進んで和闐に赴くも一策なれど、嚢中の欠乏を如何せん。今や電報不通にして、日本より送金を受くる途絶ゆ。軽挙せば遂には餓死の虞あれば、当地に滞留して時機を待つの他無し。
・一月廿六日(金)快晴 朝李にタリブを副へて安西に派し「橘行衛不明、大捜索を要す、金無い、三千(以下略)」と打電せしむ。
前十一時頃椅に依り読書せば、突如一纏頭闖入し来る。何事ならんと凝視せば、実に意外、是れ橘氏なり。喜心感激、午前十一時より、翌日午前二時まで何事を語りしかを知らず。氏に逢ふや直ちに阿弥陀洪の僕を急派して、安西に派せし李を追ひて帰らしむ。
・一月三十日(火)快晴 午後、橘氏と千仏洞に行き、着せしは午後六時半なり。
・二月一日(木)快晴 両名は道士の室に赴き戸棚を見る。唐経多数あり。道士に交渉して、唐経一百六十九本を馬に積み、後三時廿分千仏洞を発す。
・二月六日(火)快晴 敦煌も今日を見納となるを以て、橘氏と倶に城内を観る。衙門に到り橘氏と余は知県に告別の挨拶をなす。午後二時、敦煌を出発す。東城外二三清里の処まで、寓主、阿弥陀洪、印度人送り来り、洪は乾葡萄と棗を贐と為す。

 幾つか耳慣れない語彙もあろうが、それでも当時の探検隊の苦難や敦煌文献の入手に関する様子は十分に読み取れよう。

 このように日本へも流出した敦煌文献であるが、実のところ、その大部分はイギリス、フランス、中国、ロシアの4か国に所蔵されている。その内容は、仏教文献を主とするものの、歴史、文学、言語、社会経済、暦、占卜、教育等、多岐にわたる。そして、一部は外地から敦煌にもたらされた文献であり、当時の文献の伝播について具体的な理解を我々にもたらしてくれる。以下、敦煌文献の中から、蜀の印刷本、文学文献の「秦婦吟」の写本、文書の書写規範を反映させた『文選』の写本、寺院教育に関する写本を取り上げ、その一端を紹介したい。

 まず、蜀から敦煌へ届けられた暦の印刷本である。

図1

図1 S.P10「中和2年(882年)剣南西川成都府樊賞家具注暦日」
出典:中国社会科学院歴史研究所他編『英蔵敦煌文献(漢文仏経以外部份)』第14冊、四川人民出版社、1995年、249頁。

 蜀は、中国国内でも比較的早くに印刷技術が発達した地域であった。僅かな断簡であるとはいえ、その一次資料であることは勿論、唐末の暦の印刷本が敦煌へも届けられていたことを示す資料として貴重である。

 次に、晩唐の著名な詩人・韋荘(836-910年)の「秦婦吟」を取り上げる。韋荘の名は、『唐詩選』所収の七言絶句「古別離」を通して知る人もいるだろう。「秦婦吟」は、女性の語りを通して唐末に起こった黄巣の乱を描写した長編詩であり、以下の四句は特に有名であった。

韋荘「秦婦吟」(一部)
昔時繁盛皆埋没  昔の繁栄はどれも失われ、
挙目凄涼無故物  目をあげれば物寂しく、かつての物はない。
内庫焼為錦繡灰  禁中の宝庫は燃えて、美しい織物は灰に化した。
天街踏尽公卿骨  都の街は、公卿(高位の役人たち)の骨を踏むばかり。

 しかし、韋荘はこの詩の流布を望まず、自身の詩文集にも収めなかった。そのため、早くに佚した。それが、敦煌文献中に複数点の写本が発見され、現在では「秦婦吟」を完全な形で読むことができる。ここではS.692を紹介しよう。

図2

図2 S.692「秦婦吟」(部分)
出典:中国社会科学院歴史研究所他編『英蔵敦煌文献(漢文仏経以外部份)』第2冊、四川人民出版社、1990年、117頁。

 上図からも分かるように、これは貞明五年(919年)に金光明寺にいた安友盛という人物が書写した写本である。韋荘の死後、僅か9年しか経ていないことも重要である。

 次に、書写方法に重要な特徴を有する写本を取り上げる。

 中国には親や皇帝の名を直接書写することを禁止する“避諱”の文化がある。たとえば、唐太宗・李世民(在位:626-649年)の諱である“世”と“民”をそれぞれ別の字に置き換えたり(改字)、その字の一画を書写しないようにした(欠画)ことは有名である。そのような避諱の痕跡を具体的に示す写本が確認されることは、当時の文献の書写や文献の伝承の実態を窺うにあたって貴重である。

図3

図3 Ф242『文選』(部分)
出典:俄羅斯科学院東方研究所聖得彼堡分所他編『俄蔵敦煌文献④』、上海古籍出版社等、1993年、339頁。

 上図の赤丸で囲んだ“民”の字が、最後の一画を欠している。均整な字体で書写されていることも併せて、当時の書写規範に則った貴重な写本である。

 最後に取り上げるのは、『孝経』の写本である。

 『孝経』は、『千字文』等を通して文字を学習した後に学ぶ基本的な儒教文献であった。『孝経』の写本は複数点残されているが、そのうちS.707には「同光三年乙酉歳十一月八日三界寺学仕郎郎君曹元深写記」との識語が書かれている。同光三年とは925年であり、この年に、三界寺という当時の敦煌の主要な寺において、若き日の曹元深が書写した『孝経』の写本であると分かる。曹元深は、後に敦煌帰義軍の節度使となった人物である。つまり、この写本は、歴史に名を残す重要な人物がかつて寺院で教育を受けていたこと、そして儒教の基礎文献を学習していたことを窺わせるものと言える。

 ここで取り上げた4点の写本は、敦煌文献の中でも比較的よく知られた写本であり、それぞれが現代の我々にとって貴重な資料である。しかしながら、実のところ、敦煌文献とは当時不要となった文書の集積であり、当時敦煌に存在した文献の一部でしかない。そのような限界があるとはいえ、世界のどの国や地域であっても、今から1,000年以上前の資料が大量に発見されることは稀有であり、敦煌文献が貴重な資料であることは変わりない。

 敦煌といえば、莫高窟に代表される石窟群を想起する人も少なくないであろうが、王道士によって偶然に発見された文献もまた、貴重な中国の古代資料であり、その魅力は尽きない。

書誌情報
髙井龍《エッセイ》「中国と私 敦煌から発見された古写本」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, CN.2.05(2025年5月8日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/china/essay01/