アジア・マップ Vol.03 | 中国
《エッセイ》
中国の都市 ウルムチ
学部生の頃のことである。中国の新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠の周辺を、仲間と共に一カ月間かけて旅することとなった。ちょうど井上靖の西域小説(『敦煌』や『楼蘭』など)にはまっていたので、実際に現地を訪れることが嬉しくて仕方がなかった。当時はインターネットがそこまで発達しておらず、航空券の購入やホテルの予約に結構な労力を費やした。上海~ウルムチ~タクラマカン砂漠周辺~ウルムチ~上海というざっくりとしたルートだけを決めておいて、具体的な訪問先については現地で考えていくこととした。
この短い旅のうち、ここではウルムチについて述べたい。何分随分と前のことになるので記憶が曖昧だが、日々の旅の様子を記録した3冊の大学ノート(以下、『日記』と略)が現存する。この『日記』をもとに、若い筆者がウルムチで見聞きしたことを徒然なるままに書いてみたい。惜しむらくは、筆者自身にカメラを構える習慣がなかったがために、当時の画像が手元に一枚もないことである。仲間の一人が立派なカメラを携行していろいろと撮っていたはずなのだが、その写真を共有する前に彼は失踪する。そのためここでは、Wikimedia Commonsの画像を代用した。
ウルムチは、新疆ウイグル自治区の首府である。もともとタクラマカン砂漠の周辺には、オアシス都市をつなぐようにして、様々な交易路が発展していた。これらは後に、ドイツの探検家フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(1905年没)やその弟子にあたるスヴェン・ヘディン(1952年没)によって「シルクロード」と呼ばれる。ウルムチはそのなかでも、天山山脈の北側を通る天山北路の途中に位置する。10世紀頃にはイスラーム化したトルコ系の「ウイグル人」がこの一帯を支配しており、後にはアラビア文字を用いたチャガタイ・トルコ語が普及した。漢族の人口が急増するのは、清朝下に入って以降のことである。中華人民共和国の一部となった後、1955年に新疆ウイグル自治区がこの一帯に成立した。ウルムチの市域の人口は、2025年現在では300万人を超えている。市内では、楼蘭の美女と呼ばれるミイラを展示する博物館や、市民の憩いの場となっている紅山公園が見られる。また市外へ少し足を延ばせば、世界遺産に登録されている風光明媚な天池があり、観光名所となっている。
『日記』によれば、ウルムチへは、上海から二泊三日をかけて列車で移動している。その道中の様子がやけに『日記』では詳しい。列車内でやることが何もなかったことが理由であろう。ウルムチに到着してからは、ウルムチからタクラマカン砂漠を南下するためのバスチケットを入手しようと奮闘したことや、現地の日本料理店(2025年現在では閉店)にお世話になったこと、そしてウルムチのイスラーム教徒や自身が食べた食事の様子が、以下に見るように描かれている。
バザール(市場)においては、「羊肉の首だけないやつが何頭もつるされて(原文ママ。以下、「」が付されたものはすべて同様)」いることにまず驚いている。さらに、「両足がない下半身裸の男の子とお母さんらしき人」が物乞いをしていること、「両足がない人」を合計で三人見かけたこと、そのうちの一人であるトルコ帽をかぶった中年の男性が「下半身に革のようなものをつけてはねるように移動していた」ことを細かく記している。ほか、バザールでは、時計やベルト、「紳士服」、「民族衣装」、果物、シャーベットなどあらゆるものが売られており、お腹に巻いた針金を力を入れて弾き飛ばす大道芸が披露されていた。いずれも、当時の筆者にとっては初めて見るものばかりであり、大きな衝撃を受けたことがうかがい知れる。
また図々しくも、たまたま出会った「ウイグル人」の自宅にお邪魔もしている。ウルムチの中心部にある住宅街のなかをなぜかロバを追って歩いている際に声をかけられ、そのまま自宅に入っていき、片言の漢語と筆談で会話をしながら2時間ほど居座り続けた。その家の「子供たちはトルコ系の顔をしていたが」お母さんは「漢族」のような顔立ちだったことが気になったようで、特記している。自身のなかで曖昧な「民族」概念が存在し、そしてその「民族」の見た目は均一であるといったイメージが凝り固まっていたように見える。おしゃべりをしながら、「ティエングァ」(おそらくは甜瓜、メロンの一種)をいただき、「汁を大量にこぼしながら食べていると、タオルを貸して」もらった。帰り際には「シンガァ」という何かを干したものを大量にお土産にいただいているが、こちらについては同定できなかった。
その家に住んでいた幾人かの人の名前を、漢語でメモしている。個人の特定に結びつかない範囲で記せば、たとえばその場にいた30代の男性は「阿不都沙塔尔」といった。当時は何もわかっていなかったが、アラビア語を学んだ今になって見直すと、これは明らかにイスラーム教徒の男性名として見られるアブド・サッタールの音写である。また、この一家の来歴についても記録に残している。彼らの先祖は、1935年にカシュガルからウルムチへ移住してきて、ウイグルと漢語の翻訳を行って生計を立てていたという。1933年から1934年にかけてカシュガルには第一次東トルキスタン共和国が興っていたが、彼はその崩壊直後にウルムチに至ったこととなる。アラビア語や歴史を学んだ上で訪れていれば、さらに面白い出会いとなっていたものと思う。
ほか、『日記』では毎食の食事が記録されている。「青椒肉絲のようなもの」や「ピーマンと肉を炒めたもの」、「麻婆豆腐のようなもの」、「肉まん」、「餃子」といった、どちらかといえば漢族間でよく見られる料理を好んで食している。概して美味しかったと見え、ネガティブな評価を見つけることはできない。羊肉あるいは牛肉をのせた麺料理であるラグメンについては、「スープがこってりしすぎ」て「口に合わな」かった。ラグメンは中央アジア全体で見られるものだが、後にウズベキスタンを訪れた際にも食べたものの、そこまで美味しいとは思えなかった。一方で、大きなパンであるナンや、羊肉に香辛料をたっぷりとまぶして焼いたケバブについては、とても気に入っていた。『日記』には、一日に二回、10本/回のペースでケバブを食べている、という旨の記述がとある。食べすぎではないか。さらに、ウルムチを離れて上海へ戻る日には、「ケバブ屋の兄ちゃんに手を振って別れ」ており、ケバブへの執着が垣間見える。
以上、ウルムチの様子、もとい、若い筆者がウルムチで目にしたイスラーム教徒や食の一端を、『日記』から抽出してきた。若い筆者は明らかに、この旅を、そしてイスラーム教徒との出会いを、とても楽しんでいた。日本へ帰国してすぐに、アメリカで大規模な自爆テロが発生した。何が起きているのかわからないままに、テレビにかじりついて報道を見続けた。その後世間では、あるいは世界では、イスラーム教徒がテロリストと同じような危険な存在として語られていっているように感じた。ウルムチで筆者が実際に出会ったイスラーム教徒とこれらの語りの間の乖離があまりに大きく、違和感を覚え、イスラームに関する本に積極的に目を通すようになった。この時の経験が、筆者をイスラーム世界の歴史の研究に誘うこととなった。
以降、ウルムチを再訪することはできていない。2009年にはウルムチで騒乱が、2014年には昆明駅でウイグル人によるテロ事件が、それぞれ起きた。筆者が見たウルムチとイスラーム教徒は、今ではどのように変貌しているのだろうか。
ウルムチ(Wikimedia Commons)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/Urumqi_Skyline_July_2019.jpg?uselang=ja
新疆のケバブ屋。ウルムチかどうかは不明(Wikimedia Commons)
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Uyghur_cuisine#/media/File:Shishkebab_Uyghur.jpg
書誌情報
馬場多聞《エッセイ》「中国の都市 ウルムチ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, CN.4.06(2025年9月19日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/china/essay03/