アジア・マップ Vol.03 | エジプト

《人物評伝》
「エジプト外交の父」マハムード・ファウズィーと日本

福田義昭(大阪大学大学院人文学研究科 准教授)

 今をさかのぼること90年前、1935(昭和10)年夏に日本初のモスクが神戸に完成した。まず8月に献堂式が行われ、暑さが去った10月には盛大な落成祝賀会が催された。そのとき刊行された記念冊子にはさまざまな人が寄稿しているが、それらに交じって、あるエジプト人男性が、まだ若さの残る自らの肖像写真とともに祝辞を寄せている(写真1)[1]。背広を着てネクタイを締め、トルコ帽をかぶったこの人物は、そのころ神戸に駐在していたマハムード・ファウズィー(Maḥmūd Fawzī, 1900-81)というエジプトの領事である。当時はまだ一介の外務官僚にすぎなかったが、のちに外務大臣をはじめとする数々の要職につき、「エジプト外交の父」とまで呼ばれるようになった。戦後の対日関係の復興・発展においても重要な役割を果たした人であり、日本・エジプト関係の歴史を振り返るとき、彼に触れずにすますことはできないだろう。しかし、ファウズィーが世を去って45年近くが過ぎた現在、エジプトでも日本でも、彼のことを思い出す機会はあまり多くないようにみえる。そこでこの一文では、日本とのかかわりを中心に彼の経歴を紹介し、忘却の淵に沈みかけているこの知日派のエジプト人政治家にあらためて光を当ててみたい。

写真1

写真1(神戸モスク記念冊子より)

 マハムード・ファウズィーは19世紀から20世紀への変わり目、1900年9月19日に下エジプト(ナイル河下流のデルタ地域)のミヌフィーヤ県クウェスナ郡にあるショブラ・バフーム村の名家に生まれた。北カフカスに祖先を持つチェルケス系だったとされる。ファウズィーは長子で、妹三人、弟一人がいたが、彼らを産んだ母親はファウズィーが幼いころに亡くなっている。父方の祖父は同村の村長を務め、近くに堰堤を造って近隣の村々を洪水から守った功績で「ベイ」の称号を与えられたという。一方、1867年生まれの父親は、カイロでイスラーム改革思想家ムハンマド・アブドゥ(1849-1905)の謦咳に接したこともある人物で、高等法学校や師範学校(ダール・アル=ウルーム)を出て文部省の視学官や師範学校教員などとして働き、村人たちの法律相談役としても活躍した[2]

 ファウズィー自身も1923年にカイロの法律学校(現カイロ大学法学部)を卒業し、はじめはローマのエジプト領事館に事務職員としての働き口を得たようである。そして、領事館勤務のかたわらローマ大学に通い、法学の博士号を取得した[3]。彼がしばしば「ドクター」の称号つきで呼ばれるゆえんである。1926年に帰国すると、彼は短期間、法曹界に身を置いた。しかし、半年後には外務省入りして渡米、同年6月からニューヨーク、翌27年からニューオーリンズのエジプト領事館に勤務した。そして1929年、開設されて間もない神戸のエジプト領事館に異動となり、はじめて日本の土を踏むことになった。

 今や地元でもほとんど知る人はいないが、戦前の神戸には一時期エジプト領事館が存在した。日本における最初のエジプト公館である。日本側はすでに1919年にポートサイドに領事館を設け、26年にはアレクサンドリアにも総領事館を置いていた。28年にはカイロに日本商品館も設立している。こうした一連の公館等の設置は、第一次世界大戦後、エジプトの1919年革命や独立(1922年)を経て、両国の経済関係が急速に発展し始めたことを背景にしていた。そうしたなか、やがてエジプト政府も日本に領事館を開設する決定を行った。当初は横浜も候補地に挙がっていたものの、両国間の貿易の中心が関西にあったため──主要品目はエジプト綿や日本の綿製品など──最終的に神戸が選ばれ、1929年、同地に領事館が開設される運びとなった。その後、1936年にカイロに日本公使館ができ、2年後にはエジプトも東京に公使館を置くことになったため、関西の業者による存続運動もむなしく、神戸のエジプト領事館は閉鎖された。しかし、それまでの9年間、同領事館は日本で唯一のエジプト公館として活動した[4]。ファウズィーが日本にやってきたのはその初期のことであった。

 エジプト領事館が設置された当時、神戸にはすでにインド人やタタール人らからなるムスリム・コミュニティが存在し、ちょうどモスク建立計画が持ち上がっているところだった。1930年1月には、彼ら古顔のムスリムたちがエジプト領事館のバイラム領事夫妻やファウズィーら二名の書記官を招いて市内のホテルで歓迎の晩餐会を催している。モスク建立は、こうした席でも話題にのぼったことだろう。社会的地位の高い領事館員らはムスリム・コミュニティの顔役として期待されたらしく、バイラムやファウズィーは一時期、モスク委員会の委員長も務めた。エジプト政府の資金を導入しようというバイラムの計画は頓挫したが、インド系を中心とする国内外のムスリムから醵金が集まり、冒頭にも記したとおり、神戸モスクは1935年に竣工した。翌年発行の『神戸モスク報告書』(The Kobe Muslim Mosque Report 1935-6)に収録された醵金者名簿にはファウズィーも名を連ねており、彼がこの記念すべき事業に資金面でも貢献をなしたことがわかる。

写真2

写真2 (神戸モスク)(筆者撮影)

 ファウズィーが離日したのは1935年秋のことだった(正式には36年春にギリシアに異動)。神戸に勤務した期間は6年におよぶ。外交官としてのキャリアのなかで、彼は米国、ギリシア、英国、フランス、パレスチナ、スペイン、エチオピアなどさまざまな国に勤務したが、最初の任地かつ国連代表などとして数度にわたって滞在することになる米国をのぞいて、日本ほど長く勤務した国はなかった。したがって、日本での経験がファウズィーの人生に大きな意味をもったしても不思議ではない。当時、彼がまだ若く独身であったことを思えば、なおさらである。実際、ファウズィーを知る人はみな、彼が日本からいかに大きな影響を受けたかについて言及している。エジプトの著名な作家ヤハヤー・ハッキー(Yaḥyā Ḥaqqī, 1905-92)もその一人である。ファウズィーに数年遅れて同じように法曹界から外務省入りした経歴をもつ彼は、ファウズィーと日本の関係について次のように語っている。

それから彼は、洞察と愛情に満ちた運命に導かれ、日本へとおもむいた。そして、東洋にいながらにして西洋のもっとも高度な文明国に追いつくことを可能にした、驚くべきその国民がもつ特質とはどういったものであるかを間近に知ることになった。日本はマハムード・ファウズィーに深い影響を残した。日本から帰国した彼に会ったとき、「ついに顔立ちまで日本風になりましたね」と言いそうになったものだ。ローマでイタリア語を習い覚えたように、日本で彼は日本語を覚えた。この言語がどれほど難しいかは御存知のとおりだ。それだけでなく、彼はガラス瓶に入った色つきの砂で絵を描く趣味まで日本で覚えてきた。審美眼と忍耐の双方を必要とする趣味である。審美眼と忍耐──これこそまさに、以後、彼のトレードマークとなったものであった[5]

 ファウズィーは任地におもむくと、まずその土地の言語を学習した。英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、日本語、ギリシア語、アムハラ語などである。習得度はさまざまだったようだが、日本語に関しては「詩」まで暗記していたという(短歌や俳句だろうか?)。またハッキーが述べるように、言語だけでなく日本文化も積極的に学んだ。注目すべきは、それが単なる趣味にとどまらず、彼の人格や職業観にまで影響を及ぼしたと多くの人が述べていることだろう。たとえば、実際に修練を積んだ武道からは、柔よく剛を制すという考えを学び、それを外交や政治の哲学として採り入れたとか[6]、砂絵や生け花から自己省察を学んで仕事にもそれを活かした、すなわちそれらは彼にとって進むべき道を照らす灯明のようなものだったとか、いろいろなことが言われている[7]。エジプトで日本語や日本文化がまだほとんど知られていなかった時代であることを考えると、彼のユニークさが一層際立つように思われる。

 日本を離れたあと、ファウズィーはエジプトの外交において徐々に重責を担うようになった。戦間期から戦中期にかけては欧州諸国やエチオピアでの勤務に加え、エルサレム総領事(1941、42-44年)として、また戦後は国連代表として、エジプトのみならず、パレスチナ問題に関する議論でも国際的に活躍した。この間にはアラブ連盟憲章の起草にもかかわっている。

 そして、1952年にエジプトで7月革命(自由将校団によるクーデター)が起こると、彼のキャリアに大きな転機が訪れた。革命後ほどなくしてファウズィーは駐英大使という大役に任ぜられたが、そのわずか3ケ月後には外務大臣に抜擢されて帰国することになるのである。それまで革命政権下では短期間に次々と外相が交代していたが、ファウズィーは1964年まで12年ものあいだ同職にとどまることになった。これは外相在任期間としては、エジプト独立以来、現在にいたるまでの最長記録となっている。

 ファウズィーが外務大臣になった1952年は、ちょうど第二次世界大戦の敗戦国である日本が主権を回復した年にあたる。戦後の日本・エジプト関係もそこから始まるのだが、その際にも、革命政権入りしたファウズィーの貢献があった。その第一歩は国交回復や経済関係の再開である。太平洋戦争開始直後にエジプトが対日断交して以降、両国の関係は途絶えていたが、1952年末に復交がなされ、翌53年には日本の経済使節によるエジプト訪問や二国間の通商協定締結が実現した。これらの動きをエジプト側で支えたのが、ファウズィーや、神戸領事館時代の彼の後任者(外相としては前任者)であるA. M. ファッラーグ・ターイァ(Aḥmad Muḥammad Farrāg Ṭāyi‘, 1904-80)らであった[8]。日本のアラビスト外交官の草分けの一人、田村秀治(1904-88)は、通商協定締結において「エジプト側では最終的に外務、大蔵、商工三大臣の同意が必要であったが、知日家のファウジー外相(八一年六月他界された)が両大臣を説得されたことを後に聞き、改めて感謝と尊敬の念を深めた」と述懐している[9]

 外相時代に、ファウズィーの名は高まった。とくに、エジプトからの英軍撤退交渉やスエズ危機前後の外交においてあざやかな手腕を発揮したとされる。また、東西冷戦の時代背景のなかで、非同盟運動やアフリカ統一機構の立ち上げに尽力したことでも知られている。ナセル大統領からの信頼はあつく、とりわけ国連外交に関して、ナセルはいつもファウズィーの意見やアドバイスに耳を傾けたという[10]。そのような関係から、ファウズィーが日本に関するナセルの情報源になったのは自然なことだった。田村と同じく初期のアラビスト外交官であった小高正直(1915-94)は、ナセルが1962年に発表した国民憲章草案のなかで特に日本に言及していることを紹介しつつ、彼が対日認識を得た三人の人物のうちの一人としてファウズィーの名を挙げている。小高によれば、日本滞在中に「哲学者肌のこの外交官は禅、武士道、茶、生花などの日本文化に通暁するに至った」のであり、「エジプトの知日家の筆頭というべく、大統領〔ナセル〕に日本のことをよく話すと語っていた」という[11]

 外務大臣を辞したあともファウズィーは外交通の政治家として国家の要職を歴任した。1964年から67年にかけて外務担当副首相、その後は大統領特別顧問としてナセル時代の外交を支えた。またナセル死後も、サダト政権下の初代首相(1970-72)として政府を率いたのち、最終的には副大統領(1973-74)を務めたうえで政界から引退した。

 ファウズィーには「エジプト外交の父」以外にも、「エジプト外交のシンドバード」や「近代エジプト外交の長老」など数多くの異名が贈られている。共和国時代のエジプトでまさに外交の礎を築いた人物として評価されたことがわかる。もちろん、ナセル、サダト両政権下において文民出身のファウズィーができることには限界があったのも事実である。外国語力を含む実務能力や交渉力、知識や教養といった点で高い評価を得る一方、結局は革命政権の忠実なしもべ以上の存在ではなく、独自の政治的役割を果たしたとは言いがたいとする意見もある[12]。いわば外交官時代と同じく、ほぼ実務官僚の延長線上で仕事をしたという評価である。たしかに国内政治について、そうした面を否定するのは難しいかもしれない。とはいえ、彼が有能な外交専門家として両大統領の補佐役を務め、結果としてエジプトの対外政策において顕著な役割を果たしたことは疑いない。

 加えて、すぐれた後進を育てた功績もある。彼以降に外相やアラブ連盟事務総長などとして活躍することになるマハムード・リヤード(1917-92)、イスマーイール・ファハミー(1922-97)、イスマト・アブデルメギード(1923-2013)、ナビール・アルアラビー(1935-2024)、アムル・ムーサー(1936-)といった面々はみなファウズィーの弟子であり、外務省内では「ファウズィー・ボーイズ」として知られていたという[13]。「エジプト外交の父」なるあだ名はこういった点からも首肯できるものである。

写真3

写真3(エジプト外務省の廊下に飾られていたファウズィーの写真)(2003年9月筆者撮影)

 引退後しばらくして、1980年からファウズィーは狭心症その他さまざまな病気を患い、闘病生活を送った。診察治療のため国費でロンドンの病院へ送られたりもしたが体調不良は続き、結局、帰国後の1981年6月12日に亡くなった。死去した際には、国家の要人や著名人の葬儀が行われることで有名な、カイロ中心部のタハリール広場にあるウマル・マクラム・モスクで葬礼が執り行われている。サダト大統領が暗殺される数ヶ月前のことだった。

 生前、多忙な歳月を送ったファウズィーに、日本を再訪する機会はなかなかやってこなかったようである。1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議のあと、他のアラブ諸国の外相らと一緒に日本に立ち寄ったのが、おそらく戦後唯一の(少なくとも公式の)訪問であったと思われる。カイロの自宅は「どの部屋も日本の道具類、日本の人形や芸術作品でかざりつけられているほどの日本びいき」[14]であったというマハムード・ファウズィー。しかし、戦前から戦後にかけてエジプトと日本を橋渡しした、この稀有な外交官・政治家を、日本はついに一度も単独で招待しなかった。先述の田村秀治はそのことを「誠に残念」と惜しんだ[15]

注釈
[1]The Kobe Muslim Mosque, The Kobe Muslim Mosque: A Souvenir Booklet Issued in Commemoration of the Opening Ceremony of the Kobe Muslim Mosque, 1935, p. 15.
[2]Karīm Muḥammad Khūrshīd, Al-Duktūr Maḥmūd Fawzī: Fāris al-Diblūmāsiyya al-Miṣriyya, Cairo: Dār al-Kutub wa-l-Wathā’iq al-Qawmiyya, 2018, pp. 17-18. 後段を含め、ファウズィーとその家族の履歴に関しては本書を参照したところが多い。
[3]このあたりの経歴については諸説あって詳細がよくわからない。たとえば、Arthur Goldschmidt Jr. はBiographical Dictionary of Modern Egypt(Boulder, Colorado: Lynne Rienner Publishers, 2000, p. 57)で、ファウズィーがリヴァプール大学、コロンビア大学、ローマ大学の大学院で政治学や歴史学を学んだとしたうえで、1926年にローマ大学から刑法で博士号を取得したと述べ、他の二大学については詳細を記していない。他方、カリーム・ムハンマド・フルシドによると、1923年12月からファウズィーはローマのエジプト領事館員として働きながらローマ大学の大学院に学び、1924年に国際法の博士号を得たのち、リヴァプール大学やコロンビア大学の大学院でも勉強して1926年に帰国したとする(Khūrshīd, Al-Duktūr Maḥmūd Fawzī, p. 19)。しかし、いかに当時の教育制度が現在と異なるとはいえ、わずか一年で博士号を取得し、また三年のあいだにイタリア、英国、米国の三大学をめぐったというのは不自然にも感じられる。ファウズィーがのちにリヴァプールやニューヨークに勤務した経歴を考えると、ローマ以外の大学へは後年、公館勤務のかたわら通ったという可能性も考えられる。
[4]在神エジプト領事館については、福田義昭「神戸モスク建立前史──昭和戦前・戦中期における在神ムスリム・コミュニティの形成」『日本・イスラーム関係のデータベース構築──戦前期回教研究から中東イスラーム地域研究への展開』(平成17年度~平成19年度科学研究費補助金基盤研究(A)研究成果報告書、研究代表者:臼杵陽[日本女子大学文学部])、46-47頁を参照。
[5]Yaḥyā Ḥaqqī, Ṣafaḥāt min Tārīkh Miṣr (Mu’allafāt Yaḥyā Ḥaqqī 17), Cairo: Al-Hay’a al-Miṣriyya al-‘Āmma li-l-Kitāb, 1989, p. 429.(1970年10月25日にal-Ta‘āwun誌に掲載された記事の一節。)
[6]Al-Akhbār, 13/6/1981; Khūrshīd, Al-Duktūr Maḥmūd Fawzī, p. 20 (Al-Hilāl, 1976/9/1 の記事にもとづく).
[7]Khūrshīd, Al-Duktūr Maḥmūd Fawzī, p. 332.
[8]田村秀治『アラブ外交55年──友好ひとすじに』(上)、勁草書房、1983年、137-148頁を参照。A. M.ファッラーグはファウズィーの離日後に在神戸エジプト領事となった(彼も神戸モスクへの拠金者リストに名がある)人物だが、1952年7月革命後、短期間(約3ヶ月)ながら外務大臣を務めており、外相としてはファウズィーの前任者にあたる(なお、田村の回想に「ムハンマド・ファウジー」「イブラヒーム・ファラグ・ターイヒ」とあるのは誤記)。
[9]同書、147頁。
[10]Khūrshīd, Al-Duktūr Maḥmūd Fawzī, pp. 22-24.
[11] 小高正直『アラブと歩いて30年──苦難の民との対話から』弘文堂、1982年、162-165頁。ナセルの対日認識に影響を与えた他の二人として、小高は、バンドン会議(アジア・アフリカ会議)に日本政府代表として出席した高碕達之助(1885-1964)と、エジプト人ジャーナリストのムハンマド・ハサネーン・ハイカル(1923-2016)を挙げている。後者はファウズィーの親友でもあった。
[12]たとえば、ファウズィーがサダト政権初の首相に就任したことを報じる『朝日新聞』の記事(1970年10月21日夕刊)は「政治家としては強烈な個性の持主ではなく、同氏の起用はサダト氏の大統領選出とともにナセル路線踏襲の原則に立ち、また権力闘争の表面化を防ぐための妥協人事といえよう」と述べている。Khūrshīd, Al-Duktūr Maḥmūd Fawzī, pp. 34-35 も参照。
[13]Khūrshīd, Al-Duktūr Maḥmūd Fawzī, p. 35.
[14]『毎日新聞』(1970年10月21日夕刊)「外交畑育ちの現実主義者/ア連合新首相 マハムド・ファウジ氏」。
[15]田村秀治、前掲書、147-148頁。なお、ファウズィーが個人として生涯にわたって日本文化を愛したことと、彼がエジプトの官僚・政治家という立場から日本の政治・政策をどう見ていたかは、当然ながら別の問題である。戦前で言えば、特に日本滞在中に行った中国や満洲への視察旅行や、彼が離日するタイミングで始まり、結局失敗に終わった日埃会商(1935-36)をとおして彼が何を考えたかという問題などは、今後ぜひ研究してみたい課題の一つである。

書誌情報
福田義昭《人物評伝》「「エジプト外交の父」マハムード・ファウズィーと日本」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, EG.9.03(2025年10月15日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/egypt/essay01/