アジア・マップ Vol.03 | インド

《インド人物評伝》
ネルー

中溝和弥(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 教授)

インドは1947年の独立以来、1975年から77年にかけての非常事態体制期を除いて、民主制を一貫して維持してきた。その民主主義が、現在大きく揺らいでいる。2014年総選挙により成立したN.モーディー政権下で、インドの権威主義化は確実に進行し、権威主義革命と呼びうる事態が生じているためである(1)。革命の過程でインド民主主義の礎を築いた初代首相J.ネルーの功績は、モーディー政権による執拗な「王朝政治」批判、「偽セキュラリズム」非難と相俟って掻き消されようとしている(2)。ヒンドゥー至上主義をファシズムと批判し、「私が首相である限り、宗派主義〔コミュナリズム〕が政策を形作ることは許さないし、野蛮で、非文明的な振る舞いを許すつもりもない」と断じたネルーへの報復である(3)

国民統合の理念が世俗主義からヒンドゥー至上主義へ大きく転換しつつある現在、ネルーの功績を改めて検証することは重要であろう。本小論においては、ネルーの生い立ちについて触れた後、彼が独立インドの柱とした民主主義、社会主義、世俗主義について説明したい(4)

生い立ち

ネルーは1889年、現在のインド、ウッタル・プラデーシュ州で生まれた。奇しくも、彼が生涯批判し続けたA.ヒットラーと同年の生まれである。父は弁護士業で大成功を収めたM.ネルーであり、1928年には独立後の憲法草案を起草したインド国民会議派(以下、会議派)の重鎮でもあった。ネルーの『自叙伝』は、「裕福な家の一人息子は甘やかされるものだが、インドではなおさらである」という一文から始まっている(5)。父は、息子に考え得る最高の教育を施し、ネルーは15歳の時に渡英して名門パブリックスクールのハロウ校に入学する。その後ケンブリッジ大学に進み、1912年はロンドンで弁護士資格を取得してインドに帰国する。まごうことなきインドのトップエリートであった。

帰国後は父の助手として弁護士業に従事するが、本人はあまり気乗りしなかったようである。自叙伝には「法曹界における私の閲歴は、殆ど魅力を持たぬものであった。その世界に復帰しようとする希求を、私はついぞ抱いたことがなかった」と気のない回想を残している(6)

その彼が生涯をかける価値を見出したのが、インド独立運動であった。師となるM.K.ガーンディーとの出会いは第一次世界大戦中の1916年に果たしているものの、そのときの印象は「我々は、皆、彼の南アフリカにおける英雄的な闘争を尊敬していた。しかし、我々若者にとっては、彼はとても遠い存在で、我々とは異なっており、非政治的に思えた」(7)とどこか冷めている。それが大きく変わるのは、第一次世界大戦終了後、イギリスが自治の約束を反故にし戦時法制を継続するローラット法を制定したことだった。ローラット法反対運動をガーンディーが主導することを知り、ネルーは、「ついにこの混乱から抜け出す道を見つけた。〔手段は〕まっすぐであり、皆に開かれており、かつ効果的と思えた。私は熱狂にとらわれ、サッティヤーグラハ協会に直ちに入りたいと考えた」と回想している(8)

ネルーの熱狂に危機感を覚えたのが、会議派の穏健派政治家として頭角を現していた父であった。父はガーンディーを自宅に招き、ネルーを説得するように依頼する。ガーンディーは、ネルーに「事を急いてはいけない。お父さんをひどく困惑させるようなことをしてはいけない」と助言した(9)。ネルー自身は納得しなかったものの、この後、ジャリアンワーラーバーグ虐殺事件が起ったことにより父の態度も変わり、ネルー家は一家で独立運動に参加していくことになる。ネルーも会議派党員として本格的に独立運動に邁進するようになった。

ネルーは1929年には会議派議長に就任し、翌1930年から開始される市民的不服従運動をガーンディーと共に推進していく。名実ともに会議派の将来を担う若手指導者としての地位を固めていった。独立運動の過程で合計9回投獄され、通算9年間を刑務所のなかで過ごした。青年期までの裕福な生活とは正反対の過酷な試練を経験することを強いられたが、インド独立への希求によりその苦難を克服した。1947年にインドがパキスタンと分離独立した際には、初代首相として新生国家の舵取りを任される。彼が独立インドの柱とした民主主義、社会主義、世俗主義について順にみていこう。

民主主義

ネルーの民主主義に対する信奉は強い。主著『インドの発見』においても、「私は男女をとわない成年選挙権制を取るべきだと固く信ずる者である」、「選挙は、民主的手続きの本質的な不可分な部分をなすものであり、これを省くことなぞ全く考えられない」と言明している(10)。インドにおいて民主主義を導入する上で障壁と考えられた点は、二つあった。第一が社会・経済的格差の大きさである。カースト制とこれを経済的に支える地主制が存在するインドにおいて、一人一票の民主制を導入することは、革命的な意味を持った。数的に多数を占める下層階層が政治権力を掌握すれば、既存の支配構造が転覆する可能性があったためである。第二が、多様性である。J.S.ミルがかつて「多様な民族から構成される国家において自由な制度を維持することは不可能に近い」と宣告したように(11)、言語、宗教、カーストなど世界でも稀にみる多様性を誇るインドでは、民主主義を維持することは難しいと考えられていた。

実際に、多様性に富み、経済的には貧しかったグローバル・サウス諸国は、独立直後は民主主義国家として出発しつつも、その多くが権威主義化していった。国民統合の危機に直面し、強権で反政府勢力を抑え込むことが独立維持の名のもとに正当化されたためである。しかし、他国と同様に国民統合の危機に直面したインドでは、「多様性のなかの統一(Unity in Diversity)」を掲げたネルーが民主主義体制を守った。制度的仕組みは次のとおりである。

第一に、中央集権的連邦制と称されるように、連邦制を採用したものの英領時代の統治機構をほぼそのまま継承し、中央政府が州政府を統制できる制度を構築した。これにより、仮に州政府が政治的自律性を高め国民統合に危機的な状況が生じた際、州政府を解任して中央政府が直轄統治を行える体制とした。

第二に、言語州を創設した。中央から統制するばかりではなく、話者人口の多い大言語に基づく州に再編することにより、言語文化的な集団に一定の自治を与えた。これにより、各言語集団が独立ではなくインド連邦内にとどまる誘因を作り出した。

第三に、普通選挙制の導入に際し、宗主国イギリスに倣って単純小選挙区制を採用した。これにより、会議派が議会で多数派を形成することが容易となり、不安定になりがちな独立直後に安定した長期政権を樹立することに成功した。

こうした制度が円滑に運用された重要な要因として、ネルーの政治スタイルの特徴がある。政治学者ラジニ・コタリが「合意の政治」と称したように、ネルーは会議派党内、さらに野党指導者とも合意形成を重視する手法を採用した。議会で圧倒的多数を維持しつつも数を頼みとした強権的な手法を用いなかったことは、民主主義の定着に貢献した。

ネルーの民主主義への信奉は、独裁体制への嫌悪からも裏付けられる。妻カマラがスイスで客死した1936年、帰国便の経由地であったローマでムッソリーニから執拗に面会を求められるが、断固として拒否する。1938年のミュンヘン融和については、「チェコスロバキアの危機の間に、私がプラーグやズデーデン地方で、ロンドンやパリや、またその当時国際連盟の会議の開かれていたジュネーヴで観察した、フランス=イギリス流のステイツマンシップなるものには、私は全く以って驚いたし、へどが出そうだった。あれは融和などという生やさしい言葉であらわせるような真似ではない。あれの背後にはヒットラーへの恐怖心ばかりか、かれに対する腑抜け同然の賛美さえ潜んでいたのである」(12)と厳しく批判している。独裁体制を断固として拒否するネルーの姿勢は、インド民主主義の発展に欠かせない貢献となった。

社会主義

ネルーの社会主義への関心は、イギリス留学中にフェビアン協会の影響を受けたことに始まる。ただし裕福な家庭に生まれ、ロンドンで親も心配するほどの浪費生活を送っていたネルーが社会主義に本当の意味で目覚めるのは、インド帰国後の1920年に経験した農民との出会いであった。地主の酷い収奪に苦しむ農民の要請を受けて農村に滞在したネルーは、『自叙伝』において次のように回想している。「彼らと彼らの悲惨な状況、そして溢れんばかりの〔私たちに対する〕愛情を目の当たりにして、私は恥と悲しみで一杯になった。恥というのは、この膨大な数の半裸のインドの息子と娘を気にもとめなかった私自身の安楽で快適な生活と都市のつまらない政治にふけっていた事への恥ずかしさであり、悲しみとは、インドの退廃した圧倒的な貧困への悲しみである。私の前には、裸で、飢えており、打ちひしがれた、全くもって悲惨なインドが、新しい像として立ち現れた。そして、遠い都市からたまたま訪れたに過ぎない私たちに信頼を寄せる彼らの姿を見て、困惑すると同時に、身震いするような新たな責任を感じた」(13)。後に天啓と振り返るこの経験は、会議派左派の指導者としての原点となった。

独立後、ネルーは首相として社会主義的な経済政策の実施に着手する。会議派党内ではV.パテールを中心とする右派から強い反撥を受けたが、1950年にパテールが死去し、ネルーの影響力が他を圧倒したことから、社会主義路線が会議派の公式な政策となった。1956年の産業政策決議では、富と所得が平等な社会経済を民主的・平和的に実現し「社会主義型社会」を建設することが定められた。

ここで留意すべきは、社会主義国家とはされていないことである。ネルーの関心は『インドの発見』で明確に述べたように、「インドにおいては、とにかく、われわれは平等を目標としなければならない」(14)、そのために、「民主主義を社会主義に結びつけるにはどうしたらいいか、個人の自由と創意を保ちながら、しかし国民の経済の中央集権化された社会統制と計画化を、国内的にもまた国際間にも、行うにはどうしたらいいのか」という点にあった(15)。そのためソ連・中国型の民主集中を否定し、民間企業の国営化は行わなかった。資本主義と社会主義をミックスした混合経済体制と呼ばれる国家主導型の経済成長戦略が取られた。

しかし、ネルーの経済政策は、出だしから躓くことになる(16)。ネックとなったのは、農業であった。1956年度の農業生産が不作であったため1957年に前年度の2.6倍の穀物を輸入せざるを得なくなった。これは外貨準備高の顕著な減少を招き、計画経済全体を圧迫した。ネルーが死去した後の娘のインディラ政権時代には、1965年、66年と二年連続で続いた大干魃により計画経済そのものを中断せざるを得ない事態となり、援助供与国であるアメリカ、世界銀行の意向に従って部分的な自由化と併せて農業政策の大幅な転換となる緑の革命の導入に踏み切らざるを得なくなった。

ネルーの経済政策の評価をめぐっては、経済学者の間でも見解が分かれている(17)。1980年代からインド経済は年平均5%の成長を始め、1991年の経済自由化以降成長は加速し、2000年代には11%という高成長も記録した。1970年代まで低成長が長く続いたことの原因をライセンス・ラージ(許認可の支配)と揶揄された国家による経済介入に求める学説もあれば、現在の経済成長の基礎を形作ったのはネルーの経済政策であったと評価する学説もある。ここでは学説の評価には立ち入らないが、ネルーが、自らが政治運動を始める原点となった貧困の解決に生涯をかけて真摯に取り組んだことは強調しておきたい。

世俗主義

多宗教国家インドにおいて、宗教間の対立の阻止は最重要政策課題の一つである。宗教間の融和を命をかけて説き続けたM.K.ガーンディーは、最後はヒンドゥー至上主義者の兇弾に倒れた。ネルーもコミュナリズム(宗派主義)を嫌悪し、「インドの宗教は、もし抑制されなければ、インドとその人民を殺してしまうだろう」と確信していた(18)

ネルー個人は宗教とは距離をとり続けた。青年期に家庭教師の影響で神智協会員となったことはあったものの、家庭教師が去ると同時にやめている。この頃の回想として、「宗教については、私はとてもぼんやりとした考えしか持っていなかった。それは女性が関心を持つことのように考えていた。父や年長のいとこも、宗教を冗談交じりに捉えていて、真剣に考えることを拒んでいた」(19)。さらに『インドの発見』では、「宗教は、ヒンドゥー教であれ、イスラーム教であれ、仏教であれ、キリスト教であれ、それが実際に行われているようなものとしては、またたとえ思慮分別の深い人々が受容れているかたちのものとしても、私には魅力がなかった」とより直裁に述べている(20)。篤い宗教心を持っていた師匠のガーンディーとは大きく異なる点である。

そのガーンディーが暗殺されたことは、独立インドの方向性を決定づけた(21)。ガーンディー暗殺の報を受け号泣したネルーは、先述のように「宗派主義が政策を型作ることは許さない」との決意の下、インドを世俗主義国家と規定した。推計で100万人が命を落としたとされる印パ分離独立の悲劇を繰り返さないために、なによりも宗教の違いによって二度と殺されることのないインドを作ることを約束し、在任中はその約束を守った。国家が各宗教を対等に扱うこととし、宗教的少数派には宗教別の家族法を維持するなど彼らの文化・伝統に配慮した。

ただし、ヒンドゥー至上主義勢力に対し、甘さがなかったわけではない。現在の政権党であるインド人民党の親団体である民族義勇団に対しては、ガーンディー暗殺後、禁止団体に指定するものの、初の総選挙前には禁止を解除している。これにより、インド人民党の前身であるインド大衆連盟の結成が可能になった。さらに会議派右派でヒンドゥー至上主義者に近いラジェーンドラ・プラサード大統領が、ムスリム王朝に破壊されたと伝わるヒンドゥー寺院ソームナート寺院の再建式典に出席するのを止められなかった。このような中途半端さが、現在のヒンドゥー至上主義の興隆につながっていることは否定できない。

民主主義に賭けた生涯

ジャーナリストで政治評論家のR.サルデサーイーは、モーディー首相がネルーを虚実織り交ぜた史実に基づいて批判すればするほど、ネルーは人々の心の中に生き続ける、と指摘する(22)。師であるM.K.ガーンディーは、独立運動を率いた点では政治的天才ぶりを発揮したが、独立後の国家制度については曖昧な構想しか持ち合わせていなかった。インドを近代的な民主主義国家として発足させたのは、誰よりもネルーの貢献が大きい。とりわけ、自由と平等という民主主義の理念を実現するために裕福な生活を捨てて独立運動に身を捧げ、独立後、民主主義を定着させるために行った様々な努力は特筆に値する。世界史に残る政治家といえよう。

その一方で、コミュナリズムへの対応に見られるよう、ネルーに甘さが残る点があることは確かである。しかし現在のヒンドゥー至上主義の興隆をひとえにネルーのみの責任に帰すことはできない。彼が礎石を置いた民主主義を自由と平等の実現のためにいかに活用していくか、現代を生きる我々に残された課題である。

写真1

写真1 1946年インド国民会議派全国大会におけるJ.ネルー(左)、M.K.ガーンディー(中央)、S.V.パテール(右)(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nehru,_Gandhi_and_Patel_AICC_1946.jpg

写真

写真2 ヒンドゥー至上主義のイデオローグV.D.サーヴァルカル(前列左から2人目)とガーンディー暗殺犯N.ゴドセ(前列左から3人目・中央)(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nathuram.jpg

写真3

写真3 ネルー首相を描いたインド国民会議派の第1回総選挙選挙ポスター(1951-52年)(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jawaharlal_Nehru_1951-52_election_poster.jpg

注釈
(1)  Nakamizo, Kazuya.(2024), “From Silent to Authoritarian Revolution Modi, Hindu Rashtra and the Paradox of Indian Democracy”, The Journal of Indian and Asian Studies , vol 5, no.2, online
https://doi.org/10.1142/S2717541324400126
(2) Rajdeep Sardesai, "Why Modi feels the need to demolish Nehru", India Today, August 1, 2025.
https://www.indiatoday.in/opinion/story/modi-nehru-fixation-what-explains-it-by-rajdeep-sardesai-2764370-2025-08-01 (3) Brown, Judith M. (2003), Nehru: A Political Life, New Delhi: Oxford University Press, pp.193-194.
(4) 本稿は、中溝和弥(2024)「第9章 独立インドの国民国家建設―『世界最大の民主主義』の挑戦」『アジア人物史第12巻 アジアの世紀へ』集英社、495-591頁に基づいて執筆した。筆者によるネルー論の詳細については、同章を参照されたい。
(5) Nehru, Jawaharlal (1980[1936]), An Autobiography, New Delhi, Jawaharlal Nehru Memorial Fund, p.1. 本書については、本文中では『自叙伝』と表記する。
(6) ブリッチャー、M(1968)『インド現代史――ネルー・その政治的生涯』、張明雄訳、世界思想社、43頁。
(7) Nehru(1980[1936]), op. cit, p.35.
(8) Nehru(1980[1936]), op. cit, p. 41.
(9) Nehru(1980[1936]), op. cit, p. 42.
(10) ネルー、J(1953)『インドの発見 上』辻直四郎、飯塚浩二、蝋山芳郎訳、岩波書店、77-78頁。
(11) 中溝和弥(2012)「書評 Alfred Stepan, Juan J. Linz and Yogendra Yadav, Crafting State-Nations: India and Other Multinational Democracies, Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2011,ⅹⅸ+308pp.」『アジア経済』、53巻6号、112-115頁
https://ir.ide.go.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=40603&item_no=1&page_id=39&block_id=158
(12) ネルー(1953)、『前掲書』、7頁。
(13) Nehru(1980[1936]), op.cit, p. 52.
(14) ネルー(1956)、『インドの発見 下』辻直四郎、飯塚浩二、蝋山芳郎訳、岩波書店、730頁。
(15) ネルー(1956)、『前掲書』、767頁。
(16) 中溝和弥(2012)、『インド 暴力と民主主義――一党優位支配の崩壊とアイデンティティの政治』東京大学出版会、122-124頁。
(17) 柳澤悠(2013)、『現代インド経済-発展の淵源・軌跡・展望』、名古屋大学出版会
(18) サルカール、スミット(1993)『新しいインド近代史Ⅰ・Ⅱ-下からの歴史の試み』長崎暢子・臼田雅之・中里成章・粟屋利江訳、研文出版(Sumit Sarkar 1983. Mordern India 1885-1947, New Delhi: Macmillan India)、336頁。
(19) Nehru(1980[1936]), op. cit, p.8.
(20) ネルー、(1953)、『前掲書』、18頁。
(21) 竹中千春、(2018)、『ガンディー――平和を紡ぐ人』岩波新書
(22) Rajdeep Sardesai, op. cit.


書誌情報
中溝和弥《人物評伝》「ネルー」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, IN.9.07(2026年3月3日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/india/essay02/