アジア・マップ Vol.03 | イラク
《エッセイ》イラクと私
「メソポタミアでの発掘調査隊の生活」
メソポタミアというとすぐにチグリス川、ユーフラテス川を思い浮かべる人は多いが、メソポタミア=イラクということを認識している人は少ない。イラクは正に古代メソポタミアの中心である。
メソポタミアでの日本調査隊の発掘は1956 年、東京大学の故・江上波夫教授が率いた北イラクのテル・エッ・サラサート遺跡にはじまる。その後1971年から2001年まで、筆者が所属している国士舘大学調査隊がメソポタミアの各地で発掘調査を実施している。本来なら現在でも調査を継続していたかったのではあるが、湾岸戦争、イラク戦争を経て、未だ治安が安定しないとのことで、初期王朝時代の首都キシュ遺跡の発掘調査を中断しているというのが現状である。
私自身がイラクの調査に関わりだしたのは1978年からである。その当時、海外に行く人はまだ多くはなく、人にはよく「イラクに行くのに周囲の反対は無かったのか?」と聞かれたが、私の場合は幸いにも母が子供の頃インドネシアやインド、中国での生活を経験していたため、むしろ大賛成であった。父も海外についてアレルギーはなく、大学を卒業したばかりの22歳でイラクの調査に参加することを決断した。
イラク古代文化研究所の創設者であり、発掘調査隊長でもあった故・藤井秀夫教授に連れられてバンコク経由でバグダードへ、考古総局、入国管理局など、右も左もわからないままオフィスをたらい回しにされながらサインをもらい、ビザを取得した。その当時のイラクは入国も出国もビザが必要で、その度に申請書を書き、サポーティングレターを考古総局から貰い、さまざまなオフィスを回り、ビザを取得するのである。
当時の私は、考古学の調査についての知識は多少あったものの、イラクやアラブ、イスラム教についての知識が特にあったわけでもなく、アラビア語はもちろん、片言の英語しかわからない状態で現地に飛び込んでしまった。それに比べると現在の人びとの風潮は、逆に知識が邪魔をして臆病になりがちになっているような気さえもする。実際、イラクで発掘している最中にイラク・イラン戦争が勃発し、発掘の作業員やイラク考古総局の関係者も戦争に赴き4、5人戦死しているが、私が調査をしている限りでは戦争という現実は発掘調査という現実とは全く別次元で起きているものだった。おそらく現在のように瞬時に世界の事がわかる状況であれば、帰国命令が日本から出て、外務省の危険地域に指定されていたかもしれないが、その当時、少なくとも現地は平和そのものであった。情報というのはあるに越したことは無いが、ありすぎるのも弊害だと痛感している。
筆者の最初の調査地はチグリス川の支流、ディヤラ川沿いのハムリン地域である。バグダードから北東約100kmのところにあるこの地域は、ダム建設のための水没予定地となった。ちょうど東京都がすっぽり入るような大きさの地域に多くの遺跡が点在しており、70あまりの遺跡が調査された。ユネスコが音頭をとったことで、欧米の各国が調査に協力して、この地域の調査が一気に進んだ。日本調査隊は、この地域で2年半ほとんど休むことなく掘り続け、5遺跡(テル・グッバ、テル・ソンゴルA,B,C、テルル・ハメディヤート)の発掘調査を実施した。
調査地にはジャラウラという町から1時間くらい道なき道、土漠を車でいくのであるが、途中、遠くの村の明かりまでもが全く見えない場所がある。正に満天の星空のみの世界である。宿舎では夏は夕涼みをしながら外で夕食を取ることも多いが、星の美しさには圧倒される。日本から持っていったもののリストに、星座表があったのがよくわかる。最初に宿舎のあるヌーリーアミン村に着いたのは夜であったため、とにかく真っ暗、テントの中で、ランプの明かりの元で食事をして、もともと鶏小屋だったという部屋に案内された。懐中電灯で手探りで支度をしてとりあえずは寝るしかなかった。女性がまだ一人も参加していなかったこともあり、トイレも肩の高さくらいまでしか壁がなく、入口は家の塀の外にあるものの、扉が無かった。したがって、なるべく人がいないタイミングを見計らって行くのではあるが、番犬に吠えられて閉口したのを覚えている。1週間もすると、私が調査隊に参加したことで、徐々にトイレも整備され、快適なトイレへと変化した。部屋はもともと鶏小屋だったということもあり、ダニには悩まされ、また、朝早くから番犬が屋根に上り駆け回るので、上からゴミが落ちてくるし、ニワトリの鳴き声やロバの鳴き声が響き渡る。もっとも、ユーフラテス川中流域のハディーサでの調査の時には、コウモリが夜飛び回る部屋に住んでいたこともある。コウモリは害虫を食べてくれて、また暗闇でもぶつからずに飛ぶ事ができると信じて寝ていたものである。決して快適とはいえないが、住めば都、徐々に慣れてくるのが不思議である。
調査隊の生活は朝が早い。宿舎から遺跡までは車での移動となるが、私はこの村周辺では初の外国人女性ということで、すぐに名前を覚えられた。車に向かって「やぎー、やぎー(私の旧姓は八木)」と村人が手を振るのが車での往復時の恒例となった。ちょっとした有名人である。それと同じように、家ごとに番犬がいるため、車が通る度に吠えて追いかけてくる。しかし、番をしている家を抜けると、何事もなかったかのように引き返していくのでる。とても利口である。
調査遺跡に入ると、まずは挨拶である。「サバーヒルヘール(おはようございます)」「シュノーナック(元気ですか)」と作業員とそれぞれ挨拶を交わす。作業員の長であるウバイドは恰幅のよいシャルガーティである。シャルガーティとは発掘作業を専門とするアッシュール近郊のシャルガート村出身の専門作業員の呼称で、かつてドイツ隊が教育をして、考古総局のもと、各地で彼らが発掘のサポートをしている。彼と今日の作業の打ち合わせをして発掘を進める。1ヶ月に1回くらい、「ゴバーラ」という仕事の出来高の日がある。数日分くらいの土運びをためておいて、一気に片付けてもらうのである。人間の心理とは不思議なもので、2,3日分の仕事量があるのにもかかわらず、「ゴバーラ」だと伝えると、2,3時間で一気に片付けてしまう、彼らはうれしそうに帰路につくし私達も大変助かる。両者にとってとてもハッピーなシステムである。
昼くらいまで遺跡での発掘調査を行い、宿舎に戻り昼食を取る。昼寝後、夕方から出土遺物の整理、図面化、写真撮影など忙しい毎日である。ただ、毎日が刺激的であることは間違いない。新しい発見が毎日のようにあるからである。
電気も水道も通っていないため、発電機頼りでもある。また、川の水をタンクローリーで運んでもらい、1立方メートルほどあるタンクに水をいれてもらい、生活水、飲料水を賄っていた。川の水…と驚かれるが、筆者自身、運んできたチグリス川、ユーフラテス川、ディヤラ川の水を飲んで生活していた。1度はお腹を壊すが、暑い中、水を飲まないわけにはいかないため、すぐに慣れてしまう。逆に、バグダードでは浄水器などを利用するが、上流地域の水はそのままでもその当時は美味しく飲んでいた。水瓶に入れた水は揮発することによって冷たくなるため特に美味しい。調査現場ではもっぱら水瓶の水をアルミのボールですくい、がぶ飲みする。
洗濯機、風呂も無い生活である。暖かい時期、少なくとも春から秋にかけては、ディヤラ川の支流であるナリン川に行って、夕方の作業の前に、洗濯と水浴びが毎日の習慣であった。当時のイラクでは環境問題に対してそこまで厳格な目が向けられていなかったためできたことであるが、タライにいれた洗濯物を洗剤で洗い、それを川があっという間すすいでくれた。タンクの水で洗濯をするとすすぐのに何度も水を替えるためにとても時間がかかるが、川の流れで洗濯するとその手間が必要なかったのである。身体も石けんやシャンプーを使って洗い、川で一泳ぎしてから宿舎へと帰宅する。洗濯物を絞って持ち帰り、庭に干すと気候が乾燥しているためにあっという間に乾いてしまう。ジーンズなど厚手のものでもそれほど時間はかからない。作業着と宿舎で着る服が1〜2枚ずつあれば、毎日洗濯しても基本的には足りてしまう。冬場は小さな行水用の部屋で、大きな鍋に湯を沸かし、お湯を水で薄めながらの行水である。今、そのような生活ができるのかというと、難しいかもしれない。若かったからできたのかもしれない。多くの発掘地を経験したが、お湯を浴びるのは、もっぱらバグダードの宿舎やたまに泊まるホテルのみであった。
ハムリン地域での調査には多くの日本人観光客も村まで遊びにきてくれた。筆者の担当していたテル・グッバ遺跡で、紀元前3000年頃の多重同心円状の大きな建物が話題になったこともあり、時にはバス2台で大勢の人が遺跡まで足を運び、カップ麺などの日本食の差し入れを持ってきて下さったのは大変ありがたかった。1980年代まではバグダッドに日本人学校もあり、多くの商社や建設会社がイラクのインフラ整備などを支えていた。日本とバグダードの直行便もその当時は運航されており、2回目の渡航からはもっぱら直行便を利用していた。車の整備などでも日本人の技術者にはお世話になることが多く、また日本との荷物の運搬などでもとても助けられていた。オリエント学をご専門とされていた三笠宮殿下および百合子妃殿下もご来臨いただき、遺跡まで足を運んで下さったのも良い思い出として残っている。
このエッセイを書くために久しぶりに調査当時の写真を見ていたのだが、どの写真をみても常に笑顔であるのが不思議なくらいである。メソポタミアでの調査は過酷ではあるが、それを差し引いても魅力的であったことは間違いのないことである。メソポタミアの遺跡の魅力は今でも世界の人々から注目を浴び、多くの国が発掘調査を求めているのである。
書誌情報
小口和美《エッセイ》「イラクと私 メソポタミアでの発掘調査隊の生活」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, IQ.2.01(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/iraq/essay01/