アジア・マップ Vol.03 | レバノン
レバノンの読書案内
溝渕 正季(明治学院大学・准教授)
専門書 |
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Kamal Salibi, A House of Many Mansions: The History of Lebanon Reconsidered (Berkeley: University of California press, 1988). 本書は、レバノン史における従来の国家主義的・宗派的理解を再検討し、多元的アイデンティティの重要性を強調する先駆的研究である。各宗派コミュニティの起源や歴史的背景にかかわる通説を批判的に検証し、レバノン社会を単なる「モザイク」ではなく、複数の要素が重なり合う「織物」として描き出している。このアプローチによって、レバノンの複雑な社会構造や歴史的記憶が現代の政治・社会問題にどう影響しているかを理解する基礎を提供している。 |
Theodor Hanf, Coexistence in Wartime Lebanon: Decline of a State and Rise of a Nation (London: I.B. Tauris, 1993). 本書は、1975〜1990年のレバノン内戦を扱い、紛争を引き起こした歴史的・政治的・社会的要因を検証している。内戦のなかで宗派間の敵意が深刻化する一方、「レバノン人」という国民意識が宗派を超えて共有されるようになったという、一見逆説的なプロセスが指摘される。広範なインタビューと資料調査を組み合わせた包括的な研究で、内戦の実態を理解するうえで欠かせない一冊である。 |
末近浩太『イスラーム主義と中東政治:レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会、2013年) 本書は、内戦終結後のレバノン政治・社会で中心的役割を担ってきたヒズブッラーを取り上げ、その知られざる側面を掘り下げた研究書である。著者が長年にわたって行ってきたフィールド調査と資料調査の成果が反映され、ヒズブッラーの政治・軍事・社会活動など多面的な実態が詳細に分析されている。日本語で読めるヒズブッラー研究としてほぼ唯一の専門書であり、国際的にも高い学術水準を誇る。 |
Toufic Gaspard, A Political Economy of Lebanon, 1948–2002: The Limits of Laissez-faire (Leiden: Brill, 2004). 本書は、独立後から戦後復興期に至るまでのレバノン経済を「レッセ・フェール(自由放任主義)」という観点から考察している。商業エリートが主導してきた自由放任政策が、格差拡大や脆弱な国家制度を生み出した要因を解明し、インフラや公共サービスの不足、社会的結束の欠如にも焦点を当てる。2020年のデフォルトに至るまで、レバノンが繰り返してきた金融危機の構造を学術的に理解するうえで、最も包括的な研究といえる。 |
Oren Barak, The Lebanese Army: A National Institution in a Divided Society (New York: State University of New York Press, 2009). 本書は、レバノン国軍に関する数少ない包括的な研究書で、フランスの委任統治時代から内戦後の課題に至るまで、陸軍の変遷を追っている。陸軍が分断された社会の緩衝材として、あるいは政治的緊張の当事者として機能してきた経緯を丁寧に明らかにしている。レバノンの国民的アイデンティティや政治的ダイナミクスを理解するには、軍と宗派コミュニティの相互作用が欠かせないという主張を展開している。 |
一般書 |
Andrew Arsan, Lebanon: A Country in Fragments (London: Hurst, 2020). 本書は、オスマン帝国末期から内戦後まで、レバノンの政治・社会・文化がどのように変容してきたかをノンフィクションのかたちで考察している。外国勢力の介入や宗派間の分裂、世界的なディアスポラがレバノンの社会構造やアイデンティティを再構築してきた過程をたどると同時に、停電やごみの未回収、賃金の停滞や不動産バブルなど、日常生活における政治的ストレスや緊張にもスポットを当てる。初版は2018年に刊行された。 |
Robert Fisk, Pity the Nation: The Abduction of Lebanon, 4th ed. (New York: PublicAffairs, 2002) 本書は、レバノンを長年取材してきたジャーナリストが、内戦期(1975〜90年)の惨状や宗派対立、外交上の失敗などを現場から生々しく描いたルポルタージュである。戦闘や虐殺だけでなく、紛争に巻き込まれる一般市民の視点にも迫っており、当時の切迫した状況を臨場感とともに伝えている。主観的な面はあるが、その分だけ当時の空気を実感させる価値の高い一冊である。初版は1990年に刊行された。 |
池田昭光『流れをよそおう:レバノンにおける相互行為の人類学』(春風社、2018年)。 本書は、レバノン中部の都市カッブ・イリヤースを中心に行われたフィールドワークの成果をまとめた人類学的研究である。現地住民との日常的なやりとりや些細な出来事を丁寧に追うことで、暴力や宗派主義だけでは語りきれないレバノン社会の豊かで柔軟な側面を描き出している。学術書の体裁をとりながらも、レバノンの社会や文化に関心がある一般読者にとっても示唆に富む内容となっている。 |
黒木英充編『シリア・レバノンを知るための64章』(明石書店、2013年)。 本書は、明石書店の「〇〇を知るための〇〇章」シリーズの一冊で、シリアとレバノンについて歴史・政治・宗教から社会・文化・暮らしにいたるまで幅広く紹介している入門書である。政治や内戦など硬いテーマだけでなく、食文化や観光地、日常の暮らしといった側面にも光を当て、両国の魅力と複雑さをバランスよく解説している。中東に初めて興味を持つ人にも読みやすい。 |
トーマス・L・フリードマン(鈴木敏・鈴木百合子訳)『ベイルートからエルサレムへ: NYタイムズ記者の中東報告』(朝日新聞出版、1993年)。 本書は、『ニューヨーク・タイムズ』の特派員としてレバノンとイスラエルに滞在した著者が、内戦下のレバノンや複雑化するパレスチナ問題、イスラエル国内の政治・社会状況を現地取材で浮き彫りにするルポルタージュである。自身の体験や目撃談を軸に、紛争の実態や地域の歴史背景をわかりやすく分析しており、生々しいエピソードと冷静な考察が絡み合って中東情勢の複雑さを解き明かしている。やや古くなってしまったが、中東問題を理解するうえで今なお重要な位置を占める著作である。 |
書誌情報
溝渕正季「レバノンの読書案内」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, LB.5.01(2025年5月9日掲載)
リンク:https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/lebanon/reading/