アジア・マップ Vol.03 | 北朝鮮
《総説》
北朝鮮における言語政策と活字文化の概括
はじめに
文化を識別する上で極めて重要な指標となるのは、その土地の言語である。同一国であっても、地域により異なる言語は、その土地の文化の違いを示す基準となる。それゆえ、言語は文化の色彩であるとたとえることができる。そうであれば、活字はその色彩が染み込んだ生活の痕跡であると見なされる。この活字は、その国の歴史、技術、精神、文化を伝える媒介としての役割を果たしている。
朝鮮人民民主主義共和国(DPRK、以下「北朝鮮」と称する)の活字文化は、各時代の変遷を通じてその時代の始終を見つめながら、途切れることなく継承されてきた。北朝鮮の書体スタイルを分析するならば、言語政策に基づく活字文化の変遷と深く関連していることに気づかされる。したがって、活字文化が形成されるまでの歴史的および社会的文脈を検討する必要がある。現在の北朝鮮で使われている活字文化を正確に理解するためには、変化以前の書体の形成過程を知ることが大切である。そこで、本稿では北朝鮮の言語政策や活字文化の動向を探求し、デジタル書体の多様化や実験的な試みに焦点を当てることで、変化の背後にある手がかりを見つけ出してみたい。
北朝鮮における言語政策の背景と実施、そして帰結
北朝鮮初期の言語学と言語政策は、20世紀の帝国主義とファシズムに対する「アンチテーゼ」の性格を持っている。ハングル学者のジュ・シギョン(周時経、1876~1914)は、近代国家形成の要因として言語、民族、土地の三つの要素を挙げ、その中でもとりわけ言語を強調し、朝鮮に対して、言語を通してのアンチテーゼを提示した。
日本の植民地支配(1910年8月29日~1945年9月2日)からの解放後、朝鮮半島分断の原因となったソビエト民政庁(1945年~1948年9月9日)と在朝鮮米陸軍司令部軍政庁(1945年 9月9日~1948年8月15日)の3年間の分割統治によって、南と北に別個の政府ができる。この時代から南北両地域において「文盲退治運動」という名称で、識字運動が広く展開された。植民地時代にも朝鮮人による朝鮮語講座運動は地道に行われていたが、識字政策が本格的に進展したのは、この植民地支配の終焉以降のことであった。解放後、南北朝鮮それぞれが新たな国家を構築するという目標に向けて歩み出した過程において、「文盲」の存在が「障害」や「さしつかえ」に値するとして認識されたものと考えられる。
解放直後の状況において、文字(現在の北朝鮮は朝鮮語、韓国はハングルと称している)を読むことができる人々は依然として少数派であり、政治を担う側にとっては、文字の普及が重要な言語政策の課題であった。このような「文盲」が生じた要因は、日本の植民地支配の結果であり、まさに「文字を奪われた」結果であるという社会的合意がこの時点で形成されていたと推測される。したがって、「文盲」(文字を知らないこと)は、「植民地支配の名残」であると捉える考えが浸透し、「文盲という状態」と「その人の人格」とはあきらかに区別して認識することが可能であった。このような文脈から、「文盲を退治する運動」という表現が生まれたのではないかと考えられる。
朝鮮語文研究会は、1948年1月15日に完璧な形態主義表記法を目指し、「6字子母説」、すなわち「朝鮮語新綴り法」を制定し公布した。これは、新しい子母6字の導入を含むキム・ドゥボン(金枓奉、1889~1958?)が提唱した内容である。この「朝鮮語新綴り法」の序文によれば、まず漢字を廃止し、そして朝鮮語の縦書き音節文字をローマ字のように子音字と母音字に分解して横書きすることを前提としていた。これは文字改革を予見する観点から出発したものであった。
しかし、この「新しい正書法」は、実際には公文書や教科書などでは実施されず、廃れてしまった。その理由は、「文盲退治」が既存の文字体系と表記法に基づいて進められていた当時の国の状況があり、そこにこの「新しい正書法」を突然導入することは、言語政策の一貫性および効率性を妨げることになってしまうから受け入れられなかったのである。また、「新しい正書法」の最大の難題は、文字を再構築し、さらには言語を変更しようとした点にあった。文字の本来の役割からすれば、言語生活の実態を忠実に反映することに重きがあるのだろう。
このような、北朝鮮の初期の言語政策は、「指向」と「止揚」の境界でバランスを取ることに似ている。絶えず変化する言語の現実と大衆の要求の中では、目指すべきことと避けるべきことを区別し、適切に政策を実行することこそが言語政策の責務であった。この点において「漢字廃止」は成功し、「新しい綴り方」は失敗したというこの事実は、今後の政策において重要な示唆をもたらすものであった。
両方の政策は、既存のものを捨てて新しいものを受け入れようとしたが、前者は大衆の現実的な要求を優先したのに対し、後者は知識人の理想的な要求を前面に出して実行している。このことは、目指すべきことと避けるべきことを冷静に区別しなければならないという教訓として受け止められる。
この言語政策は、解放直後の北朝鮮が置かれていた状況と無関係ではない。当時の北朝鮮社会が目指していた新しい社会主義の建設のためには、社会の構成員全体が文字の読み書き能力を身につけることが必要だった。読み書きができることで、人民を積極的に社会主義の建設に動員し、自発的に参加させることを促すことが可能になるからだ。
しかし、最新の北朝鮮の言語政策には変化がみられる。民族性と主体性を言語生活において強調している。その一例として、2023年1月18日に最高人民会議の法令第19号として制定された「平壌文化語保護法」がある。この法令には、南朝鮮の朝鮮語(ソウル標準語)で称したことを非規範的な言語の傀儡語と定義し、排除することが明記されている。また、2024年度からは北朝鮮と韓国の関係を「敵対的二国家関係」と定義し、人民に対して子供の名前を命名する際に「統一(Tong-il)」、「一つ(Ha-na)」、「韓国(Han-guk)」などの用語の使用を厳重に禁じている。
北朝鮮における教育政策と国語教科書の活字書体
北朝鮮における活字書体の改良は、文字の普及と大衆化を促進するために、従来の縦書き・縦組みの漢字とハングルの混用から脱却し、意識的に新たな横書き字形へと発展させ、それを国語教科書に適用させている。そして北朝鮮の「文盲退治」の過程において直面したもう一つの重要な課題は、この教科書の問題にあった。教科書に関しては、印刷や出版に関する技術的・物質的な課題に加え、使用する文字の選定やハングル使用時の規範を決定することもまた容易ではなかった。さらに、教材の内容や執筆・編集を行う人材の不足も深刻な問題として存在していた。そこで、技術的・物質的な問題や教材の編纂に関して、国家臨時人民委員会が関与し、その具体的な解決を図ろうとしている。
過去70年間において、北朝鮮で最も顕著な変化を遂げたのは国語教育であると考えられる。この歴史的変化は、政治、経済、社会、教育といった多様な要素の影響を受けた結果である。北朝鮮の国語教育の変遷においては、金日成と金正日による言語と文芸に関する思想と理論がその基盤となっている。北朝鮮における国語教育は、国語科を「政治思想教育を担当する科目」として位置づける点で一貫性を保っている。但し、その強調点においては各時代の指導者の教示に応じて若干の違いが見られる。北朝鮮で推進された国語教育の特性として顕著なのは、「文化語教育」の強調である。
北朝鮮は、その歴史の中で共産主義的革命人材を育成するための社会主義教育学の基本原理に基づいた、「社会が求める人間の育成に向けた理論と方法」を確立している。この教育理念に基づき、1970年代に入ると、北朝鮮では社会主義革命と建設の強力な武器として「平壌文化語」の普及に注力をした。1980年代には、全社会の主体思想化を達成するための言語革命の方向性を民衆の革命的言語生活の確立に設定し、国語教育においてもこのような気風の確立活動を重視してきた。
当時の教育は、党と首領の思想および意図をどのように実現するかという課題と密接に関係している。このような意図に基づき、北朝鮮の科学教育部は2000年代の時代的・教育的変化に応じた教育法制と制度の整備を加速させている。特に、国語教科書の教育政策や教科内容の編集体制に対する全面的な改革が行われるとともに、書体も鉛活字の号数寸法制からデジタル電子書体のポイント寸法制に移行している。
北朝鮮における国語辞典の編纂と活字書体
解放直後の北朝鮮においては、民族共通語の確立が未だなされていない状況下ゆえ、国語辞典の編纂に向けてかなりの熱量を込めて努力がなされていた。この編纂過程においては、朝鮮語文研究会が中心的な役割を果たした。同団体は1946年7月に北朝鮮人民委員会教育局の支援を受けて、朝鮮語文研究者たちによって設立された。日帝統治時代に朝鮮語学会(1921~現在、韓国のハングル学会)で活動していた主要な人物、例えばイ・グクロ(李克魯、1893~1978)などが参加し、彼らは日帝統治時代から続く『朝鮮語大辞典』の編纂事業の延長線上で活動していた。しかし、1949年末に辞典原稿の執筆が完了する頃、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争の影響により、この事業はやむなく中断を余儀なくされた。
1954年の終戦直後、復興事業を推進するためには、読み書きが苦手な大衆を動員する手立てが必要であった。彼らを説得するためには、理解しやすい語彙を辞書に含めることが求められた。そのため、この目的のために言語浄化事業が開始され、社会主義建設に不可欠な政治経済用語も辞書に盛り込む必要があった。これは、百科事典のような多様な分野を網羅した辞書が存在しない時代において、必須の作業であったと考えられる。
国語辞典の編纂事業は、1954年に「朝鮮語綴字法」の整備が行われた後、1956年に『朝鮮語小辞典』が刊行されることで本格的に始まった。北朝鮮における「語彙整理事業」と「文化語」は、朝鮮戦争以降の「言語浄化事業」を引き継いだものであり、1960年代後半と1970年代初頭に刊行された『現代朝鮮語辞典』(初版)および1962年に刊行された『朝鮮語辞典』は、以前の辞典が抱えていた問題を克服するための試みの一環と見なすことができる。
ただし、これらの辞典は本格的な辞典編纂過程における中間成果であり、1960年から1962年にかけて編纂された『朝鮮語辞典』が真の意味での辞典として評価されている。この辞典は1980年代以降、北朝鮮で刊行された多くの辞典の礎となり、北朝鮮の語彙規範を統合的に完成させることに寄与した。このように、国語辞典の歴史的な編纂過程に従い、見やすく読みやすい朝鮮語の小型活字の開発と改良が行われた。これにより、現在の本文用デジタル電子書体の基盤となる出発点が定まったといえる。
北朝鮮における朝鮮語活字の開発とその意義
本稿では、北朝鮮における言語政策の変遷を中心に、金日成時代(1945年~1980年代)、金正日時代(2012年まで)、および金正恩時代(2013年以降)における活字文化について概観した。解放後の1945年から、言語政策の一環として文盲退治、漢字の廃止、国語辞典の編纂が進められた。この過程で、縦書きから横書きへの表記方向や組版方式の転換が行われ、「千里馬体」、「明朝体」、「光明体」、「結着体」、「青峰体」といった基本書体が開発され、1992年以降にデジタル書体へと変換を遂げた。
第一に、「千里馬体(Chol-ri-ma-che)」は、特定のデザインに基づいて描かれた書体を指し、「描かれた書体」とも称されている。北朝鮮では、1957年から1961年にかけての5カ年人民経済計画における千里馬運動や、1961年末の言語浄化運動を経て、ゴシック体から千里馬体に改名された。この書体の字形は水平および垂直であり、太さは均一である。1954年の活字開発から1992年の電子書体に至るまで、3回の改良が行われている[図1]。現在は再びゴシック体と命名されている[図2]。
第二に、「明朝体(Myong-jo-che)」は、伝統的な楷書の筆文字の形から派生した書体である。北朝鮮政府の樹立以降、最も広く本文体として使用されており、この時期に制作された活字の中でも完成度が高く、文字の空間構成が均一である。特に、縦組みと横組みにおいても遜色がないように、縦線と横線の太さが均一に保たれている。縦組みデザインでは、右側の縦柱に基準線が来るように工夫されている[図2]。
第三に、「光明体(Gwang-myong-che)」は、3.1月刊体とも呼ばれている。この書体は、横の線が太く、縦の線が細い日本語の漢字の明朝体の骨格を保持している。すべての字形は、縦書きの活字から横書きに改良される。組版の版面が均一でないのは、小型活字組版の難しさを示している。その後の改良により、字面比率が小さく適用され、文字間の間隔が広く表現されることで、可読性と識別力が向上した。
第四に、「青峰体(Chong-bong-che)」は、今日の朝鮮語の筆文字書体の伝統を継承し、発展させた書体である。青峰体は活字体からデジタル書体に移行する際に、全体的に字面の比率が小さくなり、視認性と可読性を高めるように設計されている。この書体は横書きを意識して多くの字形が修正されており、文字の空間構成が均一で、字形の完成度が非常に高いため、横縦の組版に使用しても遜色がない。全体的に文字間の間隔が均等で、画数の多い文字には錯視調整が施されている。
最後に、「結着体(Mae-chim-che)」は、中国の宋体の影響を受けて誕生した字体であり、韓国ではその存在すら知られていなかった書体である。しかし、1950年代から北朝鮮によって独自に開発され、活版印刷のさまざまな書籍のタイトルや見出しに頻繁に使用されている。その後、字面は正方形から長方形へと変化している。今日、北朝鮮で創作された結び体が電子書体として受け継がれていることは、朝鮮語の書体デザイン史において非常に重要な意義を持っている。
1980年代以降、書道の復興が始まると、はじめに行われた作業は書道理論の体系化であった。それまで様々な分野で散発的に使用されていた書体の名称を整理し、「主体書体」の体系を確立することで、朝鮮語の書芸教育と書芸理論を基に、書体の持続的な発展が図られた。2012年から金正恩時代に入ると、新たな国家産業美術事業の一環として書体デザインが重視され、5種類の基本書体がデジタル化に向けて改良されながら多様な書体へと開発されるようになった。
まとめ
北朝鮮における書体への愛着は特異なものであり、特に白頭山3大将軍の金日成筆跡は「太陽書体」、金正日筆跡は「白頭山書体」、金正淑筆跡は「海抜書体」と名付けられ「民族の最高の遺産」として神聖視されている。これに関連して、書体研究討論会の開催をはじめ、学生への模写教育活動までも行っている。北朝鮮では、指導者がこの見本の書体を示すだけでなく、自国産製品のロゴやパッケージデザインに使用される書体の決定にも関与しており、名製品や名商品を開発するための重要な役割までも果たしている。
このように、北朝鮮の書体は時代ごとの指導者の教示や労働党の方針に従って変化している。指導者や党の声を視覚的に認識するためには、過去の流れを理解することが重要である。したがって、1945年以降から2000年代に至るまで北朝鮮で使用された書体を正しく認識するためには、先ずは北朝鮮の活字文化の歴史的背景を理解することが不可欠である。
北朝鮮の書体は、人民の感情に寄り添い、伝統的な朝鮮語の筆文字を基に現代的な感覚を取り入れた「毛筆体」のような柔軟で新しい書体が開発されている。これらの書体は、ワードプロセッサーやDTP(デスクトップパブリッシング)などの電子出版で広く活用されている。現在、北朝鮮の電子書体は700種類以上に達しており、その多様性はますます増加している。また、最近では政治的な傾向が強い電子書体が開発され、普及が進んでいる。その中で、韓国に対する政策の変化の一端も垣間見られる。北朝鮮の言語政策の流れは、活字文化を解釈する上で重要な手がかりとなり、北朝鮮の活字文化の実態を再確認する契機となる。
書誌情報
劉賢国《総説》「北朝鮮における言語政策と活字文化の概括」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, KP.1.01(2025年4月16日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/north_korea/country01/