アジア・マップ Vol.03 | パキスタン

《エッセイ》
パキスタンと私―1980年代後半のカラチにおける生活と工芸品―

鎌田由美子(慶應義塾大学経済学部 教授)

 1986年から3年間、父の駐在にともない、7歳だった私はパキスタンのカラチに住んだ。パキスタンは人口の96パーセント以上がムスリムの国で、両親はイスラーム圏の生活を楽しんだ。私はカラチでの生活を通じてイスラーム圏の文化や美術に触れたことがきっかけで、その後、イスラーム美術史の研究者になった。1989年に帰国後、一度もカラチを訪れていないため、メガ・シティとして大発展を遂げた近年のカラチの様子を目にしていない。ここに記すのは約40年前、まだインターネットも普及していない1980年代後半のカラチの生活と工芸品の様子である。

 当時はまだあった日本航空の南回りの欧州路線で夜中のカラチ空港に降り立った私は、見たこともない異国の生活にわくわくしていた。パキスタンでは綿花がとれるため、戦前から商社などがカラチ支店を置いており、私が通ったカラチ日本人学校も、世界で4番目に古いという(1965年設立)。小学校と中学校を合わせて、最盛期でも60名に満たない小規模な学校だったが、現地の学校との交流や、夜中のウミガメ産卵の見学、アラビア海に面したホークス・ベイでの凧揚げ、チョウカンディ遺跡(写真1)や紡績工場の見学などさまざまな行事があった。

写真1

写真1 チョウカンディ遺跡、カラチ郊外、1989年撮影

 治安は良いとは言えず、家から一歩も出てはいけないと言われており、日本人学校にはスクールバスで通っていた。日本人駐在員の家は、高級住宅地のディフェンス地区とKDA地区に集まっており、私の家はKDA地区にあった。広大な庭に囲まれた2階建ての家の床は大理石で、吹き抜けの玄関ホールには大型のシャンデリアが下がっていて、日本の住環境とのあまりの違いにびっくりした。敷地内には使用人さんの住むところもあった。使用人さんには、門番兼運転手、コック、掃除人、洗濯人、庭師がいて、門番兼運転手のヤコブさんが住み込みで、他の人は通いだった。父はサブ(主人)、母はメンサブ(女主人)と呼ばれ、使用人さんを取りまとめていた。パキスタンは、1947年以前にはイギリスの植民地だったため、カラチ市内にはイギリス統治時代の建物も点在していた。その頃の名残は家の中にもあった。イギリス貴族の家の居室には、使用人さんを呼ぶためのベルがついており、それが使用人室につながっているが、同じ機能を持つブザーがカラチの家にも備え付けられていた。

 日本人学校から帰ったあとは家で過ごすので、使用人さんたちとすぐに仲良くなった。彼らは午後、仕事がないときには、キッチンに集まりチャイを飲みつつ、おしゃべりして過ごすのだが、その様子がなんともゆったりしていた。親は親で、父が帰宅したあとはコックが夕食を知らせるまで、両親そろって庭でゆったりアペタイザーを楽しんでいた。パキスタン人の家に呼ばれると、これまた同じように、お茶やお菓子などを味わいつつ、ゆったりと過ごす。片倉もとこ氏のいうところの「ラーハ(ゆとり、くつろぎ)」的な時間が流れていた。

 生活のいたるところにイスラームがあった。私にとって興味深かったのは、使用人さんがお祈りをする姿である。門番兼運転手のヤコブさんが住み込みだったので、彼がお祈りをする姿を日常的に見かけた。夕方には近くのモスクからアザーン(礼拝の呼びかけ)が流れてくるのだが、そのゆったりとした響きが聞こえてくると、日本人学校の毎日の宿題になっていた日記に取り組む習慣だった。金曜日の昼には近くの集団礼拝モスクのあたりが車で渋滞し、ラマダン明けには市内のビルがイルミネーションで美しく飾られるというように(写真2)、街の景色もイスラームのリズムにしたがって変化していた。

写真2

写真2 ラマダン明けのカラチ市内、1986年撮影

 週末は父が運転し、家族でホークス・ベイまで行くこともあった。海辺にはお金持ちの別荘があり、そこを借りて一日過ごした。別荘の前を蛇使いが歩いていくのだが、お願いするとコブラとマングースが闘う様子を見せてくれる。蛇使いが頬を膨らませて笛を吹くと、籠の中にいたコブラがゆっくりと頭を持ち上げて姿を現す。コブラとマングースの闘う様子は激しく、互いに傷ついてしまうほどだが、それを蛇使いは笛でうまくコントロールして闘いを終わらせ、再びコブラを籠に入れるとマングースとともにどこかへ去っていく。こうした技芸も今はもう見られないかもしれない。青く美しいアラビア海の波打ち際を、ラクダに乗って移動するのも別荘での楽しみだった。しかし、海での一日は楽しいばかりでなく、パキスタンの現実を見せつけられることもあった。私たちが別荘で過ごしていると、私と同じ7-8歳の子供たちが、貝をたくさん拾って売りにくる。髪も顔も服も汚れているのだが、くりくりとした大きな瞳がきらきらして、人懐こく、明るい感じだ。また、カラチ港でも夜、まだ指が細い小さな子供たちが大きな建物に大勢集められ、輸出用のエビの皮むきをさせられている様子を見学したことがある。自分と同じ年代でも生まれた場所によってこんなに境遇が違うのかと、世界の現実を見せられた気がした。

 カラチの生活に慣れてくると両親は、パキスタンや隣国イラン、インドの工芸品に熱中しだした。振り返ってみると1980年代後半は、伝統的な方法によって工芸品が作られていた最後の時代だったように思う。インターネットの利用により近年では、ある地域の工芸品やテキスタイル(染織品)に伝わってきたモチーフやデザインが、遠く離れた全く別の地域の工芸品に取り入れられて、伝統とは無関係の、まがい物的工芸品が少なからず生産されている。たとえ伝統的な技術が生き長らえていたとしても、そのレベルはかなり低下している。後継者不足により、伝統的な技術や技法、モチーフなどが次世代に伝えられず、工芸品制作が衰退することは世界各地で共通して見られるが、1980年代後半のパキスタンではまだまだ伝統的な工芸品制作が生きていた。

 パキスタンの優れた工芸品の一つに木工品がある。繊細な木彫技術で、優雅な植物文様を施した家具や衝立の美しさは、人を惹きつける。両親はパキスタン人の友人と連れ立ってバザールに行き、お気に入りの工房を見つけ、自分たちのイニシャルをモノグラムで入れたオリジナルのテーブルセットを作ってもらった。そのほか、ライティング・デスクも購入したが、これは16世紀にまずポルトガル人が、のちにイギリス人などのヨーロッパ人がインドに来て作らせた、いわゆるコロニアル家具の伝統を引くもので、そうしたところにも植民地時代の名残を感じた。

 パキスタンの工芸といえば絨毯も有名で、父ははじめ、観光客相手の店でパキスタン絨毯を買っていた。工房で絨毯を織る様子を見学したこともある。指が細くて小さな子供のほうが、より細かなものが織れるとの理由で、暗い工房のなか、小さな子供たちが絨毯織りに従事させられているのを見たときもショックを受けた(写真3,4)。

 父は次第に、より品質の良いペルシア絨毯に魅かれるようになり、どこで伝手を得たのか、週末、父の運転でカラチ郊外の、あまり外国人が行かないようなエリアの古いアパートの一室にペルシア絨毯を探しに行くようになった。薄暗いアパートの一室に、大量の絨毯とともに一族が住んでいる様子で、次から次に、美しいペルシア絨毯を開いて見せてくれる。何枚も見た中から、気に入ったものを買っていく。絨毯を求めるのが父だったのに対し、母はテキスタイルを集めていた。

写真3

写真3 絨毯を織る子どもたち、カラチ市内、1987年撮影

写真4

写真4 絨毯を織る子どもたち、カラチ市内、1987年撮影

 インドやパキスタンは、世界的に見ても優れたテキスタイルの産地として知られる。パキスタン人は、シャルワール(ズボン)とカミーズ(丈の長い上衣)を着て、女性はドゥパタと呼ばれるショールを合わせるが、そのショールには刺繍が施された美しいものが多い。パキスタンは綿の生産で有名で、布を売る店や服の仕立屋も多かった。母はパキスタン人の友人と一緒に布を買いに行って、現地女性が着る服をパーティ用に仕立ててもらっていた。次第に母は、インドやパキスタンの古いテキスタイルにも興味を持つようになり、そうしたものを扱う専門店に足しげく通うようになった。そして、古い衣装の一部だったミラーワーク(丸くカットした鏡を縫い留めた刺繍)などを額装し、飾って楽しんでいた。カシミール地方の刺繍のショールなども買い求めていた。

 当時のカラチでは、さまざまな技法の刺繍やミラーワークを施した民族衣装を日常的に着る人も多かった。家に通ってくる掃除人は女性なのだが、彼女たちは皆、刺繍の施された衣装にショールをまとっていた。私は掃除人とも仲が良く、挨拶するとハグしてくれるのだが、そうすると衣装に付いているミラーワークや刺繍、ビーズ、金属の飾りなどが顔に当たる。今になって思い返すと、バルチスタンの衣装だったのかと思う。

 素晴らしい刺繍の施された布や民族衣装は、贈答品としても使われていた。門番兼運転手のヤコブさんの一族は、ソ連がアフガニスタンに侵攻した際に、パキスタンに逃れてきたパシュトゥーン人だった。アフガニスタンの人々もまた、素晴らしい刺繍の伝統を持っているが、そのことを実感する出来事もあった。私は育ち盛りで、日本から持ってきた洋服もすぐに着られなくなるので、母はそうしたものをヤコブさんにあげていた。するとある日、ヤコブさんがお礼にと美しいハンカチを贈ってくれた。それは、彼の奥さんが手刺繍で花模様を施したものだった。

 こんなこともあった。両親はカラチ市内でよくゴルフをしていたのだが、帰国が近くなったので、母はいつもお願いしていたパキスタン人の若いキャディーさんに、ゴルフセットをあげた。するとキャディーさんは、それがよほど嬉しかったのか、数日後、奥さんが着たという総刺繍の豪華な民族衣装をお礼に贈ってくれた(写真5)。婚礼などの特別な機会に着たものかもしれない。小さなもので、まだ子供のような歳で結婚するのだろうと思われた。

写真5

写真5 民族衣装、パキスタン、1989年以前に制作

 ここに書いたのは約40年前の経験だが、当時手に入れた絨毯や家具、テキスタイル、そのほかの工芸品は日本に持ち帰り、両親の家と私の家で今も使っている。伝統的な技術と技法によって作られたものは堅牢で、古くから伝わる装飾文様は、いつ見ても美しい。インターネットの普及により、世界中が均一化されつつある現在から見ると、異国情緒にあふれ、固有の生活文化が根付いていたカラチでの3年間は幻だったかのようにも思われる。世界有数のメガ・シティとして発展を続けるなかで失われてしまったであろう、かつてのカラチでの生活と工芸の様子を伝えたいと思い、この小文を書いた。

書誌情報
鎌田由美子《エッセイ》「パキスタンと私―1980年代後半のカラチにおける生活と工芸品―」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, PK.2.01(2025年10月22日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/pakistan/essay01/