アジア・マップ Vol.03 | シンガポール
《総説》
国家建設に組み込まれた観光戦略
1965年にマレーシアから独立したあと、若いシンガポールの指導者たちは経済政策から教育政策、そして文化政策に至るまでの政策全般を国家の生き残りのために位置づけた。もちろん観光政策も例外ではなく、昔も今も観光局主導の観光戦略は国家建設戦略のなかに組み込まれている。
シンガポールを選ぶ観光客
落ち込んだ時期もあったものの、シンガポールの観光業はおおよそ順調に成長してきた。新型コロナウイルス感染症の影響から抜けた2024年には、わずか面積735㎢人口600万人のシンガポールに1652万人が訪れたという。さらに、2024年の観光収入は過去最高を記録した。
では、観光客は何を目的としてシンガポールに訪れるのだろうか。最も多いのは休暇旅行である。もちろんビジネス客も多く訪れる。また、日本の中高校生の修学旅行や大学のスタディツアー先としてもシンガポールは選ばれている。
シンガポールは治安と衛生状態が良く、国内のインフラが整った国である。チャンギ空港は世界150都市と直行便で結ばれており、ハブ空港として高い利便性を持つ。さらにシンガポールは英語を公用語としているので、観光客が情報を得やすい。また、世界有数のMICE(Meeting, Incentive tour, Convention, Exhibition)地として多くのビジネスイベントを開催している。休暇旅行客のみならずビジネス客や研修旅行客を惹きつける理由の一部はここにある。
シンガポールの観光戦略
とはいえ、上記の治安やインフラの整備だけがシンガポールの観光政策の肝ではない。シンガポールは経済成長戦略の一環として、時代ごとに設定した観光戦略に基づいて観光資源を(再)開発してきた。そして、潜在的ターゲットが望むものを適切に把握し、それらを提供できる国として自国を宣伝してきた。
独立初期の1960年代から70年代にはエキゾチックなアジアに惹かれる欧米人や日本人を主なターゲットに設定した。そして、インスタント・アジアのタグラインのもと、(いわばオリエンタリズム的な)アジアを一度に手軽に経験できる場所として自国を位置づけ、チャイナタウンやカンポン・グラムにリトル・インディアなどのエスニックな観光地を主に宣伝していた。さらにこの時期には、世界との接続性を強化すべくチャンギ空港(1981年完成)の建設にも着手している。
1980年代からのサプライジング・シンガポール期には、従来のエキゾチックなイメージに加えて経済発展を遂げた近代国家というイメージも同時に宣伝するようになる。現在も引き続き強調される近代性とエキゾチックなアジアの両面を持つシンガポールの姿はこの時代に原型ができあがった。
1995年にはツーリズム21という観光振興計画が発表され、アジアのハブとしての地位を確立させる方向性が明確になる。この方向性に従って、基点としてのシンガポールと他東南アジア諸国をセットにして観光客を誘致するようになる。これは、いわば他国の観光資源をも自国の観光振興に利用しようとするものであった。さらに、この時期には文化・芸術も観光資源として利用しはじめた。シンガポールの観光業におけるMICEの重要性がより明確にされたのもこの時期である。MICEを目的とする客は休暇旅行客よりもシンガポール経済に直接的に貢献し、さらに周辺産業にも良い影響が見込めるとみなしたためである。この時期のタグラインはニュー・アジアという。
シンガポールのユニークさを求めた2000年代のユニークリー・シンガポール期を経て、2010年代前半からのユアシンガポール期には宣伝の仕方が変更された。「全員のための何か一つ」がある国としてではなく、子連れ客やミレニアル世代に加えて活動的な高齢層をターゲットとして「一人一人のニーズや嗜好にあう、それぞれのための何か」を提供できる国として自国を宣伝したのだ。これによって、より多くのターゲットへの効果的なアプローチが可能となった。また、セントーサ島のIRやマリーナ・べイ・サンズが完成したことにより、さらに積極的にMICEイベントを誘致するようになる。
2017年からのシンガポールはパッション・メイド・ポッシブルのタグラインのもとで、情熱があれば何かができる、もしくは何者かになれる場所として自国を宣伝している。従来のような観光地の強調に加えて、様々な分野で活躍する実際の人物の経験(ストーリー)を観光促進に利用し、人々の感情や感覚により訴えかける戦略がとられるようになったのがこの時期であった。
国家建設と観光
上記のシンガポールの観光政策で特徴的な点は、観光客からの経済的利益獲得を目的とする以外に、「いかなる国として自国を見せるのか」というネイション・ブラディング(Nation branding)の観点からも観光資源開発が行われていた点にある。これは、観光資源開発が国際社会での自国の評判や位置づけを考慮に入れた政治的な思惑のもとでも行われていたことを意味している。
-多民族国家を見せる
たとえば、独立初期の時期のエスニックな観光地の強調はシンガポールの国家建設上の課題と連動していた。人口の8割弱を華人が占めるシンガポールは、マレー系の人々の多い海域部東南アジアでは異質な国家でもある。さらに、独立時の民族対立や冷戦構造の影響もあり、シンガポールの指導者たちは自国が華人の国とみられることを嫌った。そのため、華人だけでなくマイノリティであるマレー系やインド系の人々の文化や遺産も観光資源として整備し、観光資源を通して自国の多民族性を宣伝したのである。
とはいえ、ここで宣伝された多民族国家の姿は必ずしもシンガポールの民族的多様性をそのまま反映していたわけではなかった。独立初期には華人のサブグループやインド系のサブグループ、そしてプラナカンの文化は観光資源とはみなされず、あくまでも華人、マレー系、インド系、その他という四つの民族的多様性に基づく多民族国家としてのシンガポールの姿が強調されていた。しかし、シンガポールがグローバル・シティとなりアジアのハブとしての姿を追求する現在では、プラナカン文化も観光資源として扱われるなど、より民族・文化的多様性が豊かな国としての姿を宣伝している。
-グローバル・シティを見せる
もう一つの例は、自国の国際性や開放性の強調である。1990年代末期からシンガポールは自国をグローバル・シティとするとともに、(金融・ビジネス・交通・観光・芸術などの)アジアのハブとしての位置づけを確立させようとしてきた。特にマリーナ・エリアはアジアのハブとしてのシンガポールを象徴する場所として位置づけられていたが、その肝となるべきものがマリーナ・エリアのIR(後のマリーナ・ベイ・サンズ)であった。それゆえ、都市開発庁はシンガポールをグローバル・シティとして宣伝するようなデザインのIRを望んでいた。コンペを勝ち抜いたサンズ社と建築家のモシェ・サフディもそれをよく理解し、随所に芸術作品を組み込んだユニークなデザインと巨大なコンベンション・センターを持つマリーナ・ベイ・サンズを作り上げた。
MICEイベントには世界中の企業とビジネスパーソンが集まる。また、観光地としてのマリーナ・ベイ・サンズには世界中の休暇旅行客も訪れる。世界的金融街をのぞみ、巨大MICE用地を持つマリーナ・ベイ・サンズは、ヒト・モノ・カネが集まり、そして放散していくハブとしてのシンガポールの姿を世界に向けて発信する場でもある。
-映える(ばえる)国として
Instagramや TikTokなどの視覚的情報伝達が重要な役割を果たす現代において、その国の景観は旅行先選びの重要な要素の一つとなる。その点では、マリーナ・エリアやエスニック・エリアなどのシンガポールの「映える」観光資源は、時代とよく適合しているのだろう。
しかしその一方で、シンガポールの人々のなかには、自国の景観の急激な変化に違和感を覚える人々もいる。マリーナ・エリアは人工的で日常とはかけ離れた空間であり、エスニックなエリアもきれいに整備された観光客用の場所になってしまった。もちろん、エスニックなエリアをシンガポールの民族的多様性の象徴とみなしたり、歴史遺産として評価したりするシンガポール人も多い。しかし、土地に思い出や愛着を持つ人々にとって、観光地としての急速な変化はもろ手を挙げて歓迎できるものではないし、マリーナ・エリアの新しい観光資源も愛着の対象ではない。
世界で大きな問題となっているオーバーツーリズムもシンガポールでは他国ほど深刻化してはおらず、数字の上でもシンガポールの観光政策は成功しているように見える。しかし、その背後には、格差や人々の愛着という国家建設上の課題が隠れていることに留意されたい。
書誌情報
坂口可奈《総説》「国家建設に組み込まれた観光戦略」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, SG.1.01(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/singapore/country01/