アジア・マップ Vol.03 | シンガポール

《総説》
シンガポールで活躍する日本人女性
−グローバルな労働環境におけるキャリアアダプタビリッティー1

小泉京美(相模女子大学学芸学部英語文化コミュニケーション 教授)

1 はじめに

 シンガポールは、東南アジアの中心に位置し、1965年の独立以来、急速な経済発展を遂げてきた。国土面積は東京23区とほぼ同様で2、人口約604万人(2024年現在)と東京都の6割、うち4割が外国籍(永住権保持者を含む)という構造である。この都市国家は貿易・金融のハブとして世界的に知られ、多民族国家としての特性を活かしつつ、労働市場においても多様性が尊重される環境が整っている。政府は、経済成長とともに女性の社会進出を積極的に支援し、その結果、シンガポールにおける女性の労働参加率は2022年時点で約75%(25~64歳の女性)に達しており、日本の同年代女性の労働参加率71.3%(2022年)を上回っている(OECDデータ)。さらに、管理職に占める女性の割合も高く、2023年には約38%(世界平均32%)と、グローバルに見ても女性が活躍しやすい環境が整っている(Grant Thornton調査)。特に2010年代までは、シンガポールは日本人女性にとって魅力的なキャリアの選択肢の一つであった。その背景には、日本の職場における「ガラスの天井」問題がある。多くの日本人女性は、昇進の機会の少なさや、結婚・出産後のキャリア継続の難しさに直面し、自らの可能性を試すために海外へ目を向けた。その中でシンガポールは公用語に英語が含まれ、治安が良く、女性が働きやすい環境が整っていたことから、多くの日本人女性がキャリアの場として選択した。実際に、シンガポールの「女性の安全指数」は2022年に世界トップレベル(世界銀行調査)と評価されており、深夜でも安心して移動できる都市として知られている。また、シンガポールでは成果主義が浸透し、性別に関係なくスキルや経験が評価されやすい職場文化がある。加えて、政府の政策により、育児支援や女性の管理職登用が推進されており、ワークライフバランスを維持しながらキャリアを継続しやすい制度的な環境が整っている。これにより、日本では管理職を目指しにくかった女性も、シンガポールでは自身の能力を最大限に発揮できると考え、移住を決断するケースが増加した。しかし、近年はビザ取得要件の厳格化や生活コストの上昇といった課題が浮上しており、日本人女性にとってシンガポールでの就業環境は必ずしも容易ではなくなりつつある。本稿では、シンガポールにおける日本人女性のキャリア形成に焦点を当て、なぜシンガポールが女性にとって働きやすいのか、そして彼女たちがいかにして異文化環境に適応し、辞己のキャリアを築いているのかを、筆者の2024年度サバティカル研究における調査成果に基づき明らかにする。

2 シンガポールの女性活躍政策と歴史的背景

 シンガポールの女性の労働参加率が高い理由は、政府が計画的かつ実践的に女性の社会進出を促進してきたことにある。その背景には、シンガポールが経済成長を優先する国家戦略を採用し、女性の労働力確保を重要視してきた歴史がある。本節では、女性の労働参加を後押しする要因として注目すべき四つの制度―メイド制度、ホッカー文化、兵役制度、教育制度―を取り上げる。

2-1. メイド制度の導入と育児支援の整備

 シンガポール政府は、1978年から外国人家庭内労働者(Domestic Helpers, 通称メイド)の受け入れを制度化し、共働き世帯の増加を支援した。フィリピンやインドネシアをはじめとする近隣国からの労働者が家事・育児を担うことで、シンガポールの女性は家庭責任を軽減し、出産後もキャリアを継続しやすい環境が整えられた。この制度は現在でも続いており、シンガポールの家庭の約20%が外国人メイドを雇用している(シンガポール人材開発省 2023年)。また、政府は1990年代以降、女性の労働力維持を目的とした政策を積極的に導入し、「Childcare Leave(育児休暇)」や「Working Mother’s Child Relief(働く母親の税制優遇)」といった制度を整備してきた。2024年現在、シンガポールでは産休(16週間)3、育児休暇(最大6日間/年)、子育て関連の税控除が用意されており、女性の就業継続がしやすい環境が整えられている。

2-2 ホッカー文化に見る女性のエンパワーメント

 東南アジアの街角で見かける「ホッカー(Hawker)」は、単なる食事提供者ではなく、地域文化や人々の生活、働く女性に深く関わる存在である。ホッカーとは、本来「行商人」や「露天商」を意味するが、現在では主に屋台や簡易な飲食施設で料理を提供する業者を指す言葉として定着している4。とりわけシンガポールやマレーシアにおいては、「ホッカーセンター」と呼ばれる公営の屋台集合施設が整備され、衛生面の管理や価格の安定を図りつつ、市民にとって不可欠な食のインフラとして発展を遂げてきた。シンガポールには100以上のホッカーセンターが存在し、商業地区や工業地帯、ニュータウンなど人が集まる場所には必ずと言ってよいほど設置されている。特に、政府が建設した高層住宅団地(HDB)の1階部分には、ホッカーセンターが併設されていることが多く、そこは単なる食事の場ではなく、地域コミュニティにおける社交の場としても機能している。

写真1

ラオパサホッカーセンター(Lau Pa Sat)5

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ラオパサ内での食事風景

(写真は全て筆者撮影)

 高齢者の憩いの場、地域イベントの開催場所としても活用されており、ホッカーセンターは地域社会の一部を形成している。また、多民族国家であるシンガポールでは、ホッカーにおいて多様な国の料理が提供されており、市民の多くが1日3食を外食で済ませることも少なくない。その利便性と親しみやすさから、ホッカーは観光資源であると同時に、地域住民にとっては「外の台所(second kitchen)」とも呼ばれる生活の一部となっている。加えて、ホッカーの多くが個人経営であるため、女性や移民にとっても起業のハードルが比較的低く、低所得層や移民、そして女性にとっても重要な就業機会となっている。

ホッカーの行政の関わりと女性活躍の関係

 シンガポールにおけるホッカーの起源は、1950年代にリヤカーで料理を売っていた屋台業者に遡る。当時の政府は、これら屋台を管理・整理することで都市の衛生環境を改善し、同時に市民の「台所」としての機能を持たせるべく、計画的にホッカーセンターを誘致・整備していった。この政策は、共働き家庭の増加を見据えたものであり、家事負担を軽減することで、働く女性を支援するジェンダー政策の一環としても位置づけられていた。ホッカーは現在、以下の三つの政府機関によって管轄されている。ホッカーセンターには、衛生状態に応じてA(優良)~E(不可=営業停止)までの等級制度が設けれ 、2020年にはユネスコ無形文化遺産にも登録された6

- シンガポール食品庁(Singapore Food Agency, SFA):食品の安全基準の策定と監督
- 国家環境庁(National Environment Agency, NEA):ホッカーセンターの運営・衛生管理
- 住宅開発庁(Housing & Development Board, HDB):施設の設計・建設および住環境との調和7

 ホッカー業は中小規模の起業・マイクロビジネスの典型例であり、初期投資が少なく済むため、社会的・経済的に不利な立場にある人々にとって持続可能な生計手段となっている。とりわけ、中高年女性やシングルマザーなど、フルタイムの正規雇用へのアクセスが困難な層にとっては、自営業としてのホッカー経営は柔軟性と安定性を併せ持つ魅力的な選択肢である。成功した女性ホッカーは、地域コミュニティ内で信頼と尊敬を集める存在となっており、近年ではミシュランのビブグルマンに選出された女性ホッカーも登場している。その姿は、若年層にとっての職業選択の多様性を示すロールモデルとしても注目されている。

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ミシュラン取得の店

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HBDの1Fにあるホッカー(朝食時間から運営)

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金瓜猪肉圓粥(南瓜ポークボール粥)

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HBD1Fにあるホッカー昼食風景

(写真は全て筆者撮影)

 一方で、ホッカー業には課題も多い。長時間労働、体力的負担、天候による影響などが挙げられ、また家族経営が多いために収入の安定性や社会保障の欠如といったリスクも存在する。さらに、長期滞在する日本人などからは「利便性は高いが、油分や塩分が多いため成人病のリスクがある」として控える声も聞かれる。加えて、若年層のホッカー離れや都市再開発による屋台スペースの縮小も深刻な課題である。しかしながら、ホッカー文化が女性の経済的エンパワーメントを促進する社会装置であることに疑いはない。個人の生活支援にとどまらず、地域社会の活性化、伝統的食文化の継承にも寄与している。ホッカー的なビジネスモデルは、今後、日本を含む他地域においても、女性の多様な働き方を支える仕組みとして活用される可能性を秘めている。

2―2. 兵役制度と女性のキャリア形成

 シンガポールでは、男性に対して2年間の兵役義務(National Service, NS)が課されている。これは18歳のシンガポール人男性に適用され、軍隊や警察、民間防衛隊などでの訓練を経てから社会に出る。そのため、兵役期間の影響により、シンガポールの女性は男性よりも約2年早く社会に出ることとなる。この制度によって、同年齢で比較した場合、女性の方が先にキャリアをスタートさせることができ、とりわけ新卒採用の段階においては、男女間で出発点に明確な差が生じる。加えて、シンガポールの労働市場では成果主義が徹底されており、昇進や給与は実績に基づいて評価される。このため、男性が兵役によって社会進出のタイミングが遅れる一方で、女性は若年層のうちから職場経験を積み重ね、管理職や専門職へと昇進しやすい土壌が形成されている。このような制度的背景が、シンガポールにおける女性の管理職比率の高さを支える要因の一つであると考えられる。

2-3. 教育機会の平等と女性のリーダーシップ

 シンガポールは独立以来、女性の高等教育へのアクセスを拡大し、現在では大学進学率において男女の差がほとんどない。その結果、管理職や専門職における女性の割合も増加し、2023年のデータではシンガポールの管理職の約38%が女性(世界平均32%)と、女性の社会進出が進んでいることが分かる(Grant Thornton 2023)。さらに、政府は2010年代以降、ボードメンバー(企業役員)に占める女性の割合を増やすための政策を推進し、2023年時点ではシンガポールの上場企業の取締役のうち女性の比率は21.5%に達した(Council for Board Diversity 2023)。これは、依然として10%台に留まる日本と比較すると、女性がリーダーシップを発揮できる機会が多いことを示している。このように、メイド制度による家事・育児負担の軽減、ホッカー制度による日常的な食事準備の外部化、兵役制度による女性の早期社会進出、そして教育制度による高等教育への平等なアクセスという4つの要因が、シンガポールにおける女性の社会進出を支える主要な構造的支柱となっている。

3 シンガポールのビザ制度と日本人女性のキャリア

 シンガポールで外国人が働くためには、Employment Pass(EP) または S Pass のいずれかのビザが必要である。シンガポール政府は、経済発展と労働市場の健全性を維持するため、外国人労働者の受け入れ政策を調整し続けており、特にCOVID19 以降、ビザ取得要件が厳格化している。この変化は、日本人女性を含む多くの外国人労働者に影響を与えている。

(1) Employment Pass(EP)とS Passの概要
 ● EP(高度専門職向け)

  •   ○ 最低給与要件: 5,000シンガポールドル(約55万円)以上(金融業界は5,500シンガポールドル以上)
  •   ○ 有効期限: 初回2年、更新時3年(回数制限なし)
  •   ○ COMPASS制度(2022年導入): シンガポール政府は、EP申請者の給与水準・学歴・企業の多様性指標などをポイント制で評価する新制度を導入し、ハードルを引き上げている。
EP取得に必要な月額固定給

金融セクター以外 金融セクター
23歳以下 $5,000 $5,000
30歳 $6,745 $7,409
35歳 $8,000 $8,773
40歳 $9,250 $10,136
45歳 $10,500 $11,500

2024年3月現在
MOM資料参考

表1 EP取得に必要な年齢別月額固定給

 ● S Pass(中級技能職向け)

  •   ○ 最低給与要件: 3,150シンガポールドル(約35万円)以上(業界によって異なる)
  •   ○ 有効期限: 初回2年、更新時3年(最大6年まで)
  •   ○ 外国人雇用枠の制限: 企業の外国人労働者比率によって発行数が制限される(例:製造業では全従業員の20%まで)。

(2) ビザ取得要件の厳格化とその影響
 COVID-19以前、シンガポールは比較的外国人労働者に開かれた労働市場であり、日本人女性がEPを取得することも容易であった。しかし、2020年以降、政府は外国人労働者の受け入れ基準を厳格化し、特にEPの給与要件を引き上げるとともに、審査基準を強化した。これにより、これまでEPを取得できていた日本人女性の中には、更新時に基準を満たせず、S Passへ移行せざるを得ないケースが発生している。S Passには最大6年間の更新制限があり、その後はシンガポールに留まるための選択肢が限られる。これは、シンガポールで長期的なキャリアを築きたいと考える日本人女性にとって大きな不安要素となっている。特に、30代の女性たちはEPからS Passへ移行されたことで、次回の更新ができるかどうかという不安を抱えていることが、本研究の調査で明らかになった。

4 シンガポールで働く日本人女性のキャリア意識

 今回の調査は、2022年度の予備調査から2024年度の本調査まで、企業経営層と女性、合わせて20名のインタビュー調査を実施した。経営層は、女性は優秀であると認識しており、調査対象者の多くが「日本よりも自分らしく働ける」と感じ、成果主義の評価制度、フラットな組織文化、ワークライフバランスの取りやすさが大きく影響していることが明らかになった。

(1) 日本とシンガポールの職場環境の違い
 シンガポールで働く日本人女性は、日本の労働環境とシンガポールの労働環境の違いを強く認識しており、それがキャリア観にも影響を与えている。調査対象者の多くが「日本ではキャリアの選択肢が限られていたが、シンガポールではより自由にキャリアを築ける」と述べた。
① 成果主義の評価制度
 シンガポールの企業文化では、年齢や性別に関係なく、成果を出せば昇進や給与の増加につながる。一方で、日本企業では、年功序列や暗黙のルールがキャリア形成を制約する要因となっている。

シンガポールの評価基準 :「どれだけ成果を上げたか」が昇進・昇給に直結する。
日本の評価基準 :「勤続年数」「上司との関係」「社内での暗黙のルール」が影響を与えることが多い。

 調査対象者の中には、「日本ではキャリアアップに時間がかかるが、シンガポールでは短期間で責任のあるポジションに就けて、やりがいがある。結果としてキャリアアップにつながる。」という意見が多く見られた。特に、転職が一般的なシンガポールでは、転職によって給与やポジションを向上させることがキャリアの常識となっている。

② フラットな組織文化
 日本の企業文化では、上司と部下の関係が厳格であり、年齢や役職によるヒエラルキーが強く残っている。一方、シンガポールでは、役職に関係なく意見を言いやすい環境が整っており、職場の意思決定プロセスがより透明である。また、男女を意識することがなく、相手との距離間も程よいため、自分を出しやすいという意見があった。

③ ワークライフバランスの取りやすさ
 シンガポールでは、労働時間よりも成果が重視されるため、長時間労働が美徳とされない。そのため、プライベートの時間を確保しやすいというメリットがあり、休暇も取りやすく、働き方の自由度が高い。

(2) 日本人女性のキャリア適応戦略
 シンガポールで働く日本人女性の多くが、以下のようなキャリア適応戦略を取っていることが明らかになった。
① 転職によるキャリアアップ
 シンガポールでは、同じ会社で昇進を待つよりも、転職によってキャリアアップを図る方が一般的である。転職時の年収増加率は、5%~15%程度の給与アップが目安で、転職を通じてスキル向上させ、より高いポジションと報酬を得るケースが多い。
② ビザ取得を目的としたスキル向上
 シンガポールのビザ制度が厳格化される中、日本人女性はビザを維持するためにスキルを磨く必要がある。英語力の向上: TOEICやIELTSのスコアアップを目指し、ビジネス英語を強化したり、専門資格の取得として: CPA(公認会計士)、CFA(証券アナリスト)、PMP(プロジェクトマネジメント)やMBAを取得するケースがあった。また、今回人事系の職種についている人が多かったが、人材紹介会社で働く場合も、国の定める資格を取得する必要があり、その資格を取得して職を得るという方法をとっていた。
③ 永住権(PR)の取得
 長期的にシンガポールでキャリアを築くために、PR(永住権)を取得することを目指す日本人女性も増えている。今回の調査でも、11名中10名が、長期滞在を希望しており、PR取得者2名、現在PR申請中という人が3名であった

 近年、シンガポール政府による外国人労働者のビザ取得要件の厳格化により、国外からの新規雇用者の数は減少傾向にある。加えて、日本人男性の新規流入も減少した結果、在シンガポール日本人男性の数が限定的となり、婚姻相手の選択肢も狭まっている。このような背景から、パートナーとして日本人男性を希望する一部の女性は、日本への帰国を選択するケースも見られる。このような状況下において、日本人女性にとっての競争環境は相対的に緩和され、既存の現地採用者の相対的な市場価値が上昇している。その結果、彼女たちはより良好な条件での雇用が可能となり、労働市場において「ブルーオーシャン」とも言える有利な環境が形成されている。こうした環境変化により、シンガポールに長く居住し、現地での職務経験を積んだ人材は、企業にとって貴重な戦力とみなされやすくなっている。実際に、本調査でも「シンガポールでの経験が長いほど、転職市場での競争力が高まる」という意見が多数寄せられた。

5 まとめ

 本研究の調査結果から、シンガポールで働く日本人女性たちは、異文化環境への適応力を高めながら、成果主義に基づく評価を受け、ワークライフバランスを享受しつつ、自己成長を遂げていることが明らかとなった。特に注目すべき新たな発見として、シンガポール政府によるビザ規制の厳格化が新規外国人労働者の流入を抑制し、既存の現地採用者にとって競争の少ない「ブルーオーシャン」の市場環境を生み出している点が挙げられる。この結果、日本人女性の現地採用者は需要と供給の不均衡を活かし、より有利な職業的立場を築きやすくなっている。また、「シンガポールでの経験が長いほど転職市場での競争力が高まる」という傾向も確認された。一方で、日本国内における女性のキャリア形成の困難さが、優秀な人材が海外へと活路を見出す要因となっていることも明らかとなった。日本では依然としてキャリアアップの機会が限られ、特に管理職や専門職への道が女性にとって狭い。こうした状況の中、意識と能力を持つ女性たちが、より自由度の高い働き方を求めてシンガポールへ移る傾向が見られる。また、シンガポールでは成果主義のもと、自らのスキルや経験を活かして自己実現を果たす女性が多い一方で、日本では女性同士の支援体制が弱く、それがキャリア形成における障壁となっていることも示唆された。加えて、ビザ規制の強化と生活コストの上昇により、若年層の日本人男性が婚活やライフプランを理由に30代で日本へ帰国するケースが増えていることも確認された。これは、現地採用者のライフキャリア設計に新たな課題をもたらしている。 また、本研究対象の日本人女性のパートナーが全員外国籍であったことも注目され、多様な価値観に触れる環境が、彼女たちのキャリア適応力を高める要因となっている可能性がある。

 一方で、シンガポールにおける駐在員派遣のコスト増大やビザ取得の複雑化は、日本企業にとって経営上の負担となっている。特に中小企業においては、制度変更が人材確保の障壁となり、現地採用者に対しても高い能力や給与水準が求められることから、適切な人材を確保することが一層困難となっている。この状況に対応するためには、企業側における戦略的な人材配置の見直しと、現地雇用制度に即した柔軟な対応が不可欠である。さらに、日本国内の給与水準の伸び悩みを鑑みれば、シンガポールは今後もグローバルなキャリア形成を目指す人材にとって魅力的な就業先であり続けると考えられる。しかしながら、日系企業は現地採用者に対するキャリアパスの提示が不十分であり、欧米企業と比較して企業としての魅力度が低いという課題も浮かび上がった。その結果、有能な人材が欧米企業へと流出し、日系企業における長期雇用の維持が難しくなっている。このような外部環境の変化に対応するためには、日本企業がグローバル人材戦略の一環として柔軟な雇用制度を導入し、現地市場のニーズに即した戦略を策定することが重要である。特に、多様な人材を受け入れる組織文化の醸成や、現地におけるキャリア開発支援制度の整備が、今後の国際競争力を左右する鍵となる。

 本研究を通じて、シンガポールでキャリアを築く日本人女性の姿から、日本国内におけるキャリア形成の制度的課題が改めて浮き彫りになった。現在、「103万円の壁」の問題が国会で議論されているが、これは税制度と労働政策の連動性に関わる問題である。目先の対応にとどまるのではなく、シンガポールのように長期的な視野に立ち、労働市場の活性化と税収の確保を両立させる包括的な制度設計が求められる。国が魅力を持たなければ、優秀な人材は国外へと流出し続ける。優秀で意欲のある人材が、海外経験を踏まえて国内でも活躍できるよう、女性をはじめとする働き手に対して、「循環的人材育成」という視点からキャリアパスを支援する制度の強化と、社会全体の意識改革が急務である。

 本研究は、シンガポールにおける労働環境を通じて、日本の女性キャリア形成における課題を浮かび上がらせると同時に、今後の制度設計の方向性を示すものである。日本においても、多様なキャリア形成を可能とする政策の推進と、企業による柔軟な対応が一層求められるであろう。今後の課題としては、より広範な定量的調査を実施し、統計的な知見を加えることで、日本の女性活躍政策の具体化に寄与することが期待される。

 最後に、本研究にご協力いただいたシンガポール在住の日本人女性の皆様に深く感謝申し上げるとともに、本稿が女性のキャリア形成と活躍推進に関する政策立案の一助となることを願う。

注釈
1本稿は、相模女子大学文化研究第43号(2025年3月30日発行、相模女子大学文化研究会)に掲載された論文を、本誌のテーマに即して加筆・修正したものである。
2シンガポールの国土面積720㎢、東京都619㎢、東京23区の人口は約982万人
32025年4月1日から、新たに「共有育児休暇(Shared Parental Leave, SPL)」制度が導入される。この制度は日本の、両親は追加の有給休暇を共有できるようになる。具体的には、2025年4月1日以降に生まれる子どもに対して、最初の段階で6週間のSPLが提供され、2026年4月1日以降は10週間に拡大される予定。日本との違いは、国籍がシンガポール人であることが条件(日本は一定の雇用条件を満たすと取得可能)、シンガポールのSPLは、母親の産前・産後休暇の一部を父親が共有する形となる。
4Bhowmik, S. K. (2005). Street Vendors in Asia: A Review.Economic and Political Weekly, 40(22/23), 2256–2264.
5シンガポールの金融街の中心部にある最も人気のホッカーセンター。八角形の建物の中央に向かって列になって屋台がならび、中央ではバンド演奏が毎晩行われている。年中無休で 24 時間営業。旅行誌ではシンガポールのホーカーセンターベスト10に選ばれている
6UNESCO. (2020). *Hawker culture in Singapore, community dining and culinary practices in a multicultural urban context*. https://ich.unesco.org/en/RL/hawker-culture-in-singapore-community-dining-and-culinary-practices-in-a-multicultural-urban-context-01568
7National Environment Agency (NEA). (2023). Managing Hawker Centers. https://www.nea.gov.sg

書誌情報
小泉京美《総説》「シンガポールで活躍する日本人女性−グローバルな労働環境におけるキャリアアダプタビリッティー」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, SG.1.02(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/singapore/country02/