アジア・マップ Vol.03 | シリア

《総説》
シリアのバアス党政権の崩壊は現実への迎合が招いた歴史的必然

青山弘之(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・教授)

 シリアでは、2024年12月8日、24年6ヵ月にわたって続いたバッシャール・アサド政権が崩壊した。これは、1970年11月のクーデタ(矯正運動)によるハーフィズ・アサドの政権掌握以来、54年2ヵ月にわたって続いたアサド家主導の統治、そして1963年3月の「バアス革命」によって始まった61年10ヵ月にわたるバアス党(正式名称:アラブ社会主義バアス党)の支配の終焉でもあった。

実現しなかったスローガンと理念
 バアス党は、「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」(Umma ʻArabīya Wāḥida, Dhāt Risāla Wāḥida)をスローガンに掲げて、1947年4月7日にシリアで正式に発足し、「統一」(Waḥda)、「自由」(Ḥurrīya)、「社会主義」(Istirākīya)という三つの基本原則の実現をめざした。

 スローガンにある「永遠の使命」(Risāla Khālida)とは、党のイデオロギーの根拠となっている哲学に基づいていた。ザキー・アルスーズィーが構築したこの哲学においては、アラブ民族はその言語に神性を宿しており、個人としての「自由」、社会としての「民主主義」(al-Dīmuqrāṭīya)を実現することで、民族として復興(バアス(al-Baʻth))し、神性を顕現することで、全世界を主導するとされた。

 第1の基本原則の「統一」は、西は大西洋、東はザグロス山脈、北はアナトリアの山々、南はサハラ砂漠によって隔てられた広大な地域を「アラブの祖国」(al-Waṭan al-ʻArabī)と位置づけ、列強がこれを分断・支配していると捉えたサーティウ・フスリーの現状認識に従うかたちで、「アラブの祖国」に単一民族国家を建設するという壮大な野望を体現していた。「自由」という第2の基本原則は、個人としての「自由」というよりも、「解放」(al-Taḥrīr)と同義に捉えられ、アラブ民族に分断をもたらしている植民地主義からの脱却を意味した。そして、第3の基本原則である「社会主義」は、アラブ民族において多数派を占める農民や労働者といった社会的弱者が党活動の担い手であること、また、個々人が、階級、階層、宗教・宗派にかかわらず単一民族として融和し、能力に応じて機会を得ることができる「社会的公正」(al-ʻAdāla al-Ijtimāʻīya)を指した。

 バアス党は1963年3月にシリアで政権を掌握、イラクでも1963年2月から11月と1968年7月から2003年4月まで政権を担った。アラブ民族主義を奉じるイデオロギー政党のなかで、権力を手中に収め、長きにわたってこれを維持したのはバアス党だけであり、この点においてもっとも政治的に成功したパン・アラブ主義政党と評価することもできよう。だが、この成功は、その哲学やイデオロギーを字義通りに達成したことによってもたらされたのではなく、抗うことができない現実への迎合の結果だった。

 第1の基本原則である「統一」は、委任統治時代に現在の諸国家体制が形成され、分断が既成事実化したことで、アラブの祖国の統一はおろか、歴史的シリアの統一さえも、実現可能性を失っていた。バアス党は1958年2月から1961年9月のエジプトとシリアの合邦(アラブ連合共和国)を主導するなどした。だが、これが頓挫すると、一国の統治や国家建設を目的化した。国民アイデンティティを支える統合の原理へとグレードダウンしたウルーバ(アラブ性)は、シリア社会の多様性のなかでは万能ではなく、クルド民族主義やイスラーム主義との軋轢をもたらした。

 第2の基本原則の「自由」(解放)については後述するとして、第3の基本原則である「社会主義」は、「統一」が実現できないことを正当化するためのツールとなりさがった。それは科学的社会主義と同義となり、「統一」は、アラブ諸国それぞれが「社会主義」の段階に高まれば、必然的に実現するものと解釈された。それだけでなく、「社会主義」は、政権掌握後の権力闘争の過程で、排除の論理と結びつき、権威主義、縁故主義、家産制を推し進めるダイナミズムを提供してしまった。総じて、シリア社会における宗教・宗派、民族・エスニック集団、地域、都市農村といった亀裂を超克し、「統一」に寄与すること、「永遠の使命」の核をなしていた個人としての「自由」や社会の「民主主義」を実現することもなかった。

代理戦争の主戦場:分断と占領
 第2の基本原則である「自由」、すなわち「解放」も同じだった。シリアは独立以来(あるいはそれ以前から)、列強や周辺諸国の干渉に脅かされてきた。アレキサンドレッタ地方は、フランスが1938年にトルコのナチス・ドイツへの接近を阻止するために割譲し、トルコは翌年にこれをハタイ県として併合した。バアス党はこの動きに抵抗したアルスィーズィーと弟子たちの活動を原点としていたが、アレキサンドレッタ地方がシリアに復帰することはなかった。それだけでなく、バアス党が政権を握った4年後の1967年6月に発生した第三次中東戦争では、イスラエルがゴラン高原を占領し、1981年に一方的に併合した。シリアは、ハーフィズ・アサドの強権支配のもとで、政治的安定を享受し、レバノンを実効支配に置くなど、地域大国としての存在を強めた。だが、バッシャール・アサドが権力を移譲すると、その地位は徐々に揺らいでいった。

 2003年のイラク戦争に異議を唱えたシリアに対して、米国は経済制裁を科し、締めつけを強めていった。この動きは、2005年のレバノンのラフィーク・ハリーリー元首相の暗殺事件への関与の嫌疑がシリアにかけられたことで加速した。そして、2011年3月に「アラブの春」が波及し、バッシャール・アサド政権が抗議デモ参加者を容赦なく弾圧、武装化した反体制派との戦闘が激化すると、シリアは諸外国の代理戦争の主戦場となり、再び翻弄されるようになった。

 「シリア革命」と呼ばれることになる政治変動の起点となった抗議デモが、地方都市や農村の住民、すなわち社会的弱者の疎外感を背景としていたことは、バアス党の行詰まりを示すものだった。しかも、バッシャール・アサド政権は、反体制派に対抗し、自らを存続させるために、ロシアとイランの軍事支援に依存、そのことがシリア国内各所へのロシア軍部隊、そして「イランの民兵」として知られる外国人民兵組織の駐留を許す結果となった。

 一方、反体制派もまた、アル=カーイダのメンバーを含む外国人戦闘員を受け入れるだけでなく、欧米諸国、アラブ湾岸諸国、トルコといった国々の制裁や介入に期待し、これらの国に支援を求めた。トルコ、米国(有志連合)は、それぞれクルド民族主義組織である民主統一党(PYD)とバッシャール・アサド政権の勢力拡大を抑止するために、北部、東部、そして南東部に部隊を駐留させ、これを実質占領した。

 しかも、諸外国への従属は、シリアにさらなる分断をもたらした。シリアでは、バッシャール・アサド政権の支配地、国連安保理が「シリアのアル=カーイダ」に指定するシャーム解放機構を主体とする反体制派の支配地、PYDの支配地が固定化され、またイスラーム国のメンバーが各地で潜伏を続ける混迷の地となった。

 シリア一国という枠組みのなかでさえ、自ら掲げる理念を実現することができなかったバアス党は、弾圧と暴力の応酬のなかで、自由の喪失、外国の支配、領土と社会の分断を抑止できなかった。その結果、シリア史における存在意義を失われ、必然的にその歴史的役割を終えた。バッシャール・アサドがロシアに亡命し、政権が崩壊した3日後の2024年12月11日、バアス党中央指導部(執行部)のイブラーヒーム・ハディード副書記長は声明を出し、党活動の停止を宣言した。そして2025年1月29日、シャーム解放機構が主導する新政権によって党の解散が宣言された。

「シリアは崩壊した」の真意
 バアス党が消滅したシリアでは、新政権だけでなく、これに抵抗する勢力、旧政権支持者、諸外国、国連といったほぼすべての当事者が、国民統合、領土の一体性の維持、主権と独立の尊重、民主化、外国部隊の撤退、占領地の回復、テロ撲滅が国家建設に不可欠だと主張する。バアス党の哲学やイデオロギーを改めて見返すと、バアス党が異なった表現を用いていたとはいえ、これらの実現をめざしていたこと、それにもかかわらず、まったく相反する現実を生み出してしまったことに改めて気づかされる。そしてそれゆえに、今後のシリアにおいて、これらの要件が実現されるかどうかは依然として不確実である。

 「統一」や「社会主義」といった基本原則に込められていた統合や民主化への道は、依然としてマイノリティを阻害する危険を帯びている。シャーム解放機構が主導する新政権のもとでは、宗教的な過激主義によって、女性、宗教・宗派、民族・エスニック集団といったマイノリティが排除、迫害されることが懸念されている。PYDは移行プロセスへの参加を事実上拒否し、イスラーム教ドゥルーズ派が多いシリア南部は新政権と距離を置き、アラウィー派が多い沿岸部や中部では、恣意的な逮捕や暴力への恐怖と不満がぬぐえない。女性の参加を求める声も、かつてなく高まっている。

 「自由」(解放)という基本理念が体現していた主権、独立、領土の一体性の回復も、米国、トルコ、そしてロシアの部隊残留が既定路線となりつつあるなかで、現実味を失っている。それどころか、イスラエルは1974年の兵力引き離し協定を反故にして、シリア南西部に侵攻し、不法占拠の構えを示している。新政権はこうした現状を覆し得るような実効力も自律性も持っていない。しかも、新政権には、国際テロリストを含む多くの外国人が軍に登用されている。シリアは中からも外からも外国に浸食されてしまっている。

 バアス党やバッシャール・アサド政権を支持していた者のなかからは、「シリアは崩壊した」といった声も聞かれる。この評価が正しいものであるとするならば、今日のシリアが抱える解決困難な課題がバアス党の支配のもとで作り出された時点で、シリアは崩壊しており、その状況は体制転換を経ても何ら変わっていないと言えるのかもしれない。

写真1

バッシャール・アサド前大統領を称えるバアス党のポスター(ダマスカス県スィブキー公園近く、2024年8月25日、筆者撮影)

写真2

ハーフィズ・アサド元大統領の立像(ダマスカス県サーリヒーヤ通り、2023年8月5日、筆者撮影)

写真3

反体制派に対するシリア・ロシア軍の爆撃で破壊された建物(ダマスカス郊外県ハラスター市、2024年8月26日)、筆者撮影


書誌情報
青山弘之《総説》「シリアのバアス党政権の崩壊は現実への迎合が招いた歴史的必然」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, SY.1.01(2025年5月2日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/syria/country01/