アジア・マップ Vol.03 | シリア
《総説》
シリアの音楽:人の集まるところに歌あり
シリアといえば、パルミラなどに代表される古代の遺跡からキリスト教の教会や修道院、イスラームのモスク、そしてアレッポやダマスカスなどで今でも人々が暮らす旧市街に至るまで、遺跡・史跡の宝庫だ。その歴史的重層性は、文化的な豊かさや多様性を具体的な形で示してくれる。その一方で、音楽や歌謡文化は目には見えず無形だ。本稿ではそのような無形の文化であるシリアの歌謡文化を簡単にではあるが紹介する1。
●人々の憩いの場としての旧市街の住居
シリアの中でも北西部の要衝であるアレッポは、音楽好きの間では「タラブṭarabの町」として知られている古都だ。タラブとは、後述するように何かに魅せられているような状態を示すが、この場合は「歌」とか「歌謡」、さらには「音楽」を示す。すなわちアレッポは「歌謡の街」「音楽の街」なのである。ユネスコの世界遺産にも登録されている旧市街は石造りで、町の中心に城塞、それを取り囲むように旧市街、さらには城壁が周囲をめぐり町を守っている(写真1)。家々は中庭を備えた伝統的なつくりをしており、そこでは一日の終わりには人々がつどい集まる夕べの会「サフラsahra」が催されていた。交易で栄えシルクロードの西の端の一つであるこの町には屋根のあるスーク(市場)があるが、そこに店を構えるある人物は、父の代で歌手や演奏家を定期的に家に招き歌のサフラを催していた。
●伝承歌謡、旋法、組曲形式
上述のようなサフラには歌手と数名の器楽奏者からなる集団が招かれ、演奏を披露した。結婚披露宴などにはそうした集団による音楽はつきものであったから、そのミニチュア版と考えることができよう。そこでは歌手は古典詩や口語詩を朗唱し、歌い継がれてきた伝承歌謡であるカッドqaddやムワッシャフmuwashshaḥを歌った。カッドは口語による簡素な旋律の短い歌で、ムワッシャフは古典語による四行詩程度の詩にカッドよりも凝った旋律が付き、使用される「旋法」も難易度がより高いといえる。
シリア、アラブ、そして中東の伝統音楽は、いわゆる和声を用いない「旋法」音楽で、旋法とは日本語でよりかみ砕いて表現すれば旋律の様式/作法だ。この様式はヒジャーズḥijāz、こちらはバヤーティーbayātīなどと名前があり、それぞれに様式感といいうる雰囲気がある。ヒジャーズ旋法はモスクから聞こえる礼拝への参加を促す声アザーンによく使われる2。音楽学的には旋法ごとに使う音階(使用音階)などで説明され、譜例1は同旋法で最も重要な響きとなる部分の音階で、人々がこの旋法に感じる雰囲気、いわば旋法情緒をよく表している3。バヤーティー旋法は最も基本といえる旋法である。同旋法によるよく知られたカッドに『恋人との交際のはじめawwal ‘ishrit maḥūbī4』5があるが、五線譜ならば一段ほどの短い旋律が繰り返され、旋法情緒だけでなくそうした繰り返しの妙が聴き手を心地よくさせ、本稿冒頭の「タラブ」な状態へと導く。以下は歌詞の翻訳だが、ダイヤモンドの指輪をめぐる女心が透けて見える内容となっており、古典語によるムワッシャフよりも庶民的だ。
恋人(彼)との交際のはじめに、彼は私にダイヤモンドの指輪をくれた
(彼女は思う)これは私の望みで、必須だし、世間的にも適切だわ
彼女は(彼に)言った、「(ダイヤの指輪はホントは)ほしいけど、、、必要ないのよ、
(贈り物なら)私は薔薇色のハンカチでいいの」6
こうした伝承歌謡は、詩の朗唱や器楽の独奏・合奏などと組み合わせて組曲形式で演奏される。その際には、琵琶の祖先といわれるリュート系の伝統楽器ウード(写真2)や台形の台に弦を張り巡らせ爪で弾くカーヌーン、そしてタンバリンに似た打楽器のリックなどの演奏者が歌手に付き添い伴奏し、時に即興演奏をして組曲を盛り上げる。
●歌手とフェスティバル
シリアを代表する歌手といえばアレッポ出身のサバーフ・ファフリー(Ṣābaḥ Fakhrī,
1933-2021)が有名だ。伝承歌謡をレパートリーとし、組曲形式で歌った。彼は演奏時間が長いことで知られ、連続12時間という記録がギネスブックに登録されている7。ムトリブ(世俗歌手)として活躍し、多くの都市・国でその歌声を披露した。彼とは対照的なのが、アレッポに留まり、商いをし、歌手活動もしながらムアッズィン(アザーンを行う人)でもあったサブリー・ムダッラル(Ṣabrī
Mudallal, 1918-2006)である。彼は主にムンシド(宗教歌手)として多くの人に記憶され、宗教行事では宗教詩の一節を朗唱し宗教歌を歌う一方で、世俗歌手としてはサフラや結婚披露宴でも歌い続けた。
内戦前はアレッポ城塞やシリア南西部にあるローマ時代の遺跡ボスラの円形劇場などでフェスティバルが開かれ、伝承歌謡を歌う歌手だけでなく、若手のスターや民族舞踊団など多くの演奏家・舞踊家が集まり観客を沸かせていた。聴き手の中には旋律を口ずさんで一緒に歌ったり、音楽に同調して体を揺らしたり、感極まり涙したりなどした人もいただろう。特に伝統音楽に関して言及される、本稿冒頭でも紹介したような音楽に没入し同調する聴き方を「タラブ」といい、アラブ音楽の特徴の一つになっている8。
●教会に響く旋律
ところで、イスラームがシリアにもたらされたのは歴史的には7世紀で、それ以前は今日ではギリシア正教やシリア正教などと呼ばれるキリスト教の東方諸教会が信仰の中心であった。そうした教会の聖歌群にも上述のような旋法による響きを聴くことができる。その一例に復活祭前の四旬節期間に響くシリア正教会の旋律がある9。この期間中に日々の祈りである聖務日課の一部として聞かれるこの旋律は、キリストの受難が近いことを思いつつ「いと高きところにおわします神に栄光あれ、地には平和と安寧、人には希望あれ」と世界の平安を祈願し歌う旋律で、サバーṣabā旋法(譜例1)で譜例2のようにゆっくりと威厳を保ちながらもどこか悲しげに唱えられる10。その悲しみはキリストが磔刑となる受難の聖金曜日に頂点に達する。
末筆になるが、昨年(2024年)のアサド政権の崩壊以降、再生の途上にある今日のシリアでも、宗教・宗派、そして民族の違いを超えて、人々に平和と安寧、そして希望がもたらされることを願ってやまない。
1 詳しくは拙著『アラブ古典音楽の旋法体系 : アレッポの歌謡の伝統に基づく旋法名称の記号論的解釈』(2017年,
スタイルノート)参照。
2本稿で紹介しているムダッラルによるヒジャーズ旋法のアザーンの録音が以下のCDにある。CD中の14番目の録音で、この旋法の特徴がよく表れている美しい例である。CD:Sabri
Moudallal『Songs from Aleppo/Chants d’Alep』(1999, Institut de Monde
Arabe)。名前のつづりに注意。この録音は今日ではストリーミング配信のSpotifyで聴くことができる。なお、ネット上にはアザーンの録音があふれているが、ムアッズィンはアザーンを音楽として実行しているのでもなければ、ムダッラルのように音楽の専門知識が皆に備わっているのではないことから試聴には注意が必要である。
3詳しくは拙著『アラブ音楽入門:アザーンから即興演奏まで』(2016年、スタイルノート)等を参照。
4口語アラビア語(アレッポ方言)で歌われているため、転写表記はそれに従っており正則アラビア語の転写表記ではない。
5ムダッラルによるこの歌は脚注2のCD(録音)で聴くことができる。CD中の10番の最初の旋律。
6口語アラビア語からの翻訳。簡素な歌詞ゆえに直訳ではわかりにくく、意味を補ってある。
7組曲一つは短いもので10分程度、長いもので30分ほどと幅があるが、彼はこうした組曲を組み合わせることで延々と歌い続けることができた。ギネス登録は1968年にベネズエラのカラカスでのコンサートと報道されている。
8タラブ的現象はアラブ音楽に特徴的とされるが、さまざまな違いはあるものの、トルコやギリシアなどの東地中海沿岸諸国の伝承歌謡(民謡)系コンサートでも見られる現象であることを指摘しておこう。
9古いミサの録音も今日ではストリーミング配信で聴けるようになった。次の例はシリア正教会の20世紀中ごろのミサの録音(もとはCD)である。CD:『Syrian
Orthodox Church: Tradition of Tur Abdin in Mesopotamia』(1973, Auvidis).
10譜例2ではミの音が(半音の半分、すなわち四分の一音)だが、厳密さを排除して♭としてピアノなどで弾いたり、口ずさんだりしてみるとその雰囲気がつかめるだろう。
書誌情報
飯野りさ《総説》「シリアの音楽:人の集まるところに歌あり」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, SY.1.03(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/syria/country02/