アジア・マップ Vol.03 | シリア

《エッセイ》
シリアと私 ジャズィーラ地方の思い出

新妻仁一(亜細亜大学 名誉教授)

 私は1970年代から1980年代にかけてダマスカス大学に通っていた。当時書き留めたノートを開き、あの日々を思い起こして書いてみよう。

 シリア東北部、ユーフラテス川とチグリス川の間に広がるメソポタミアの地をシリアの人々はジャズィーラ地方と呼ぶ。大河の間に浮かぶジャズィーラ(島)ということだ。私はダマスカスの旧市街で、この地方の中心都市ハサカ出身の兵士と部屋を借りて暮らしていたこともあり、1980年に彼が除隊すると、この知人が住むハサカを拠点としてこの高温乾燥の広大な大地をたびたび訪れることになった。ある時大家のおばさんが言った。「なんでもあっちの方ではサタンのことを悪く言うと石を投げつけられるというじゃないか。気をつけるんだよ」ヤズィード派のことだ。ヤズィード派は、サタンを崇敬する宗教という話を聞かされたことがあった。1950年代に作成されたと思われるシリア絵地図を見ると、ジャズィーラ地方のイラク側にヤズィード派の似顔絵が描かれていた。

 ハサカの町にもヤズィード派の居住区があった。クルド人居住区に混在している感じだと地元の人々は言っていた。ハサカはもちろん、ジャズィーラ地方はそのいたるところでクルド語を耳にする世界であり、そのためヤズィード派はクルド人の宗教とみなされている感があった。知人の兄は、末端がはね上がったいわゆるカイゼル髭をはやしていないヤズィード派には会ったことがないと言う。例の絵地図に描かれたヤズィード派は、ターバンを巻き口髭をはやしているが、その形状までは判別できない。また彼は、軍隊時代の思い出話を聞かせてくれた。クルド人兵士が、本人はヤズィード派ではなかったにもかかわらず、なぜかヤズィード派を装い、ヤズィード派は円形を神聖視すると言ったところ、教官が何だそれは、ムスリムか、ドルーズ派か、アラウィー派か、キリスト教か?と困惑し、棒を持ってきて線を引き、彼の周りを丸く囲んでしまった話であった。教官と兵士の間に円形の囲みから出ろ、出ないの応酬が始まり、とうとう教官は休暇(兵士にとって最大の褒美)を二日やるから出てくれと言い始めた。兵士は譲らず、神聖な場から出たら家族や一族に弁明できないと粘り続け、なんと十二日間の休暇を条件にようやく囲みから出たという。兵士のずる賢さよりもヤズィード派と聞いて、何だそれは、と首を傾げた教官の戸惑いの表情を思い浮かべて笑ってしまった。

 他の中東諸国と同様、シリアは多くの宗派や民族がそれぞれ微妙な距離感を保つことによって社会的、政治的バランスを保つモザイク国家として独立した。モザイクを構成する一つのピースがあまりにも個性を発揮したり、また欠けたりするとこのバランスは崩壊の危機に直面する。そうした緊張感は、この地域の人々に互いの宗教的、民族的バックボーンについて詮索せずに素早く見抜き、対応する術を身に着けさせていた。にもかかわらず、また多くの兵士に接していたはずの教官が戸惑ったということは、宗派や民族を表立って表明することに神経質にならざるをえなかった当時のアサド政権下の社会情勢とヤズィード派がシリア社会では陰に隠れた存在だったことを示していた。

 知人一家によると彼らは乳製品や羊毛の販売で生計を立て、ムスリムよりキリスト教徒に親近感を持ち、生活用品のほとんどをキリスト教徒の店で買っているとのこと。ハサカ周辺にはヤズィード派が多く住むといわれる村が点在していたが、ヤズィード派を自称する人物に会うこともなく、また立派な口髭とはいえカイゼル髭と呼べるような髭を目にすることもなかった。ジャズィーラ地方の人々でさえも彼らとの関係は限られた範囲のものであり、彼らの重要な宗教施設が主にイラク領内にあったことからも、サタンや孔雀の崇敬、また円形の神聖視など、その真偽はっきりしない信条や儀礼についてはなじみが薄いようだった。

 それだけにダマスカスに戻り、ダマスカスアラブ科学アカデミー誌のバックナンバーにヤズィード派の記述を見つけたときは意外な感じがした。「イラク北部のヤズィード派」という投稿(1962.Vol.38, pp.334-336)だったが、彼らの名称の由来について、ペルシア語でゾロアスター教の神の名前と解釈する説を批判し、ヤズィード派は周辺のクルド人と同様に元来シャーフィイー派であり、サタン崇敬は度を越したスーフィズムの影響を受けたものと指摘したものだった。アカデミーは、その後ダマスカスアラビア語アカデミーと名前を変えるが、一貫してアラビア語を多くの宗派や民族が共存する「アラブ世界」の強固な絆とすべく誕生した学術機関だった。投稿の内容もさることながら、投稿者がイラクのバグダードの研究者であり、批判の対象となった説は、エジプトのカイロで出版された書籍の中でエジプト人研究者によって公表されており、そしてシリアのダマスカスの雑誌が批判の場を提供していること、こうしたアカデミーのネットワークに驚かされるとともに、アラブ連合共和国からの脱退とバアス党政権樹立のはざまに当たる62年、政治的緊張感に満ちていたであろうシリアにあって「アラブ世界」の存在を確証しようとするアカデミーの意地と理想を感じ取ることができた。その後ダマスカスでもジャズィーラ地方でもヤズィード派を自称する人と出会うことはなかった。また彼らについて書かれたアラビア語の書籍を見ることもなかった。

 シリアを去って約10年後、オックスフォード大学の中東センターの図書館でスィンジャール地域のヤズィード派の首長が書き送った彼らの信仰や習慣に関する文書が、ベイルートのアメリカン大学から1934年に刊行されているのを目にした。そしてその序文、脚注、索引を担当していたのは、独立後のシリア共和国時代にダマスカス大学の学長を務め、アラブ民族主義思想家としても名高いクスタンティーン・ズライクであった。かつてダマスカスのなじみの書店の主人から手渡されたズライクの『私たちと歴史』は名著として知られていた。1934年と言えば、まだ二十代のズライクである。こうした社会の陰に隠れた宗派の存在は、彼の民族主義思想の形成に何か影響を与えたのであろうか。ズライクのことをもっと学んでおけばよかったと後悔した。

 ヤズィード派と同様にジャズィーラ地方の独特なモザイクを構成するピースとしてアーシューリー(アッシリア教会信徒)があった。ハサカでは、知人一家が所属するシリア正教会(信徒はスルヤーンと呼ばれる)やシリアカトリック教会、またアルメニアカトリック教会など東方教会や古代教会と呼ばれるキリスト教がその存在感を示していた。知人によるとハサカからハーブール川を上っていき緑で囲まれた村が見えたら、その多くは植林に精を出すアーシューリーの村である、またハサカ市内にアーシューリーは暮らしているが、アーシューリー居住区と呼ばれている地区はないとのことだった。キリスト教史における様々な神学論争は多くの分派を生み出すが、その中にネストリウス派と単性論派があり、アーシューリーは前者、スルヤーンは後者に属していた。アーシューリーもスルヤーンも、そしてアルメニア人もオスマン朝末期にジャズィーラ地方に逃避してきた宗派や民族であり、ハサカや周辺の町の教会は生存をかけてこの地方にたどり着いた彼らの苦難の道のりを思い起こさせるものだった。

 当時のノートに書き留めたハサカの地図になぜかアッシリア教会の名がないのが不思議であるが、ハーブール川の支流であるジャグジャグ川を上ったトルコ国境の町カーミシュリーにはシリア正教会、シリアカトリック教会、アルメニアカトリック教会があり、こうした教会から少し離れたところにアッシリア教会が二つ、マール・アフラーム教会と建築中のマール・ジュルジス教会があった。そしてその周辺は、アーシューリー居住区と呼ばれていた。マール・アフラームは、シリア正教会総主教の名であり、カーミシュリーではシリア正教会も同じ名称を名乗っていた。シリア正教会の南側入り口には教会建設年(1952年)、北側入口には主教館建設年(1957年)を示す文がアラビア語で刻まれていた。一方アッシリア教会の建設年についてはノートに1942年と書かれているが、これは教会を開けてくれた司祭が語ったことか、それともどこかに記されていたことなのか不明である。

 多くの教会が集中するダマスカスの旧市街バーブ・トゥーマ地区にはシリア正教会総司教館とマール・ジュルジス聖堂、そしてシリアカトリック教会があったが、アッシリア教会はなく、代わりにクルダーン教会(ローマカトリックの教義を受け入れたネストリウス派でカルデア教会とも呼ばれる)があった。カーミシュリーでシリア正教会とアッシリア教会が同じ名前を使用していたように、これらの教会の間にはある種の連帯感のようなものがあるような気がしていた。スルヤーンもアーシューリーもそしてクルダーンも典礼でシリア語を使用していることもこの連帯感を強める要因だったかもしれない。

 あるときハサカから知人の知り合いというアーシューリーの若者がやってきた。彼はアーシューリーは、世界最古の民族であるといい、古代アッシリア人とのつながりを否定しなかった。スルヤーンは、彼らの教会の伝統やシリア語の文化的遺産を誇りとしていたが、スルヤーンと民族性を関連づけることには慎重な立場をとっていた。一方この若者は、アーシューリーをはっきり民族として自認していた。後にサッダーム・フサイン体制崩壊後のイラクにおいて、アッシリア教会はクルド人として認定されることを拒否し、アーシューリーをイラク国民を構成する独自の民族であると訴え、またクルダーン教会も新憲法におけるカルデア民族の確定を要求するなど民族意識を明確に表明することになるが、(拙稿「イラクのキリスト教徒の国外脱出をめぐる一考察」『革新と創造』財団法人アジア・アフリカ文化財団創立50周年記念誌、2008年、191頁-212頁)1970年代から80年代当時、シリアでアーシューリーが民族集団としての存在を表明していたのかどうか私には分からなかった。

 若者は訪問記念と言って私のノートを開くと、教会で習ったというシリア語で書き始めた。シリア語は、アラビア語が普及する以前、西アジアで広く使用されていたアラム語の系統に属し、独自の文字を持ち、ジャズィーラ地方を中心にシリアのキリスト教徒が用いる言語として知られていた。しかしそれまでダマスカスで知り合ったスルヤーンの若者の中にシリア語の読み書きができる人はほとんどいなかった。また当時ダマスカス大学の歴史学科にはシリア語の母というべきアラム語の授業はあったがシリア語自体は教えられていなかった。そのためシリア語は典礼用語として生き残っているものの、現実的には近い将来消滅する可能性の高い言語というイメージを持っていたが、この若者を見てそのイメージは払拭されることになった。シリア語は力強く生き残る生命力を持った言語だったのだ。ダマスカスのシリア正教会でも一般信徒向けのシリア語講座が開講されていたことを知ったが、ダマスカスよりジャズィーラ地方の教会の方がシリア語教育に関して積極的だったのかもしれない。それから1年後ハサカからやってきた知人からあの若者がその年(1982年)の6月に始まったイスラエルのレバノン侵攻に伴う戦闘で戦死したことを聞いた。シリア語文化の支え手、シリア人でありアッシリア人でもあった人間が一人こうして命を落とすことの意味はなんだろう。どう受け止めるべきか考えさせられた。

 ヤズィード派、アーシューリー、スルヤーン、アルメニア、クルド、こうしたジャズィーラ地方独特のピースによってバランスを保ってきたモザイクは2003年以後のイラク、そして2011年以後のシリアを覆った政治的混乱の中、米国、ロシア、トルコの介入、さらに利権の絡んだ国々から支援を受けた宗派や民族を名乗る武装勢力の台頭によって崩壊の危機を迎えた。ヤズィード派やアーシューリーをはじめこの地方の少数宗派が受けた傷の深さは計り知れない。シリアは、いつの時代も避難民が最後にたどり着くところ、誰でもたどり着けば安全が保障される地と当時聞かされていた。そのシリアが、これまで国内外で1000万人におよぶ避難民を出す戦乱の地となることをパレスチナ難民の苦悩と15年に及んだレバノン内戦の悪夢を目に焼き付けたはずのシリア国民の誰が想像したであろうか。

 水資源に恵まれた豊かな大地、悠久の歴史を語り続ける古代遺跡群、互いに距離感を保ち静かに暮らす少数宗派の信者たち、ジャズィーラ地方のモザイクがその独特の美しさを蘇らせることはできるのだろうか。半世紀に及んだ独裁政権の崩壊後、昨年(2024年)末に暫定政権が成立したとはいえ、シリア再統一に向けた展望が開けたとは言えない。

写真1

シリア絵地図。右下にスィンジャール地域のヤズィーディーの似顔絵がある。ハサカはالحسجةと表記されている。正しくはالحسكةであるが、地元の遊牧民の発音に従って表記されたといわれている。

写真2

アッシリア教会のダーウード司祭とアーシューリー居住区の人たち(カーミシュリー、1985年10月21日)

写真3

アーシューリーの若者が訪問記念として書き残したシリア語


書誌情報
新妻仁一《エッセイ》「シリアと私 ジャズィーラ地方の思い出」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, SY.2.02(2025年9月29日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/syria/essay01/