アジア・マップ Vol.03 | タイ

《総説》
タイの少数民族

片岡樹
(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 教授)

一視同仁
 タイは東南アジアの中では民族問題が比較的少ないといわれる。たしかに南部を除けば、分離主義運動などといった民族間のトラブルのニュースをめったに目にしない。もっともこのことは、タイ国内に少数民族がいないということを意味しないし、民族間の立場の違いに由来する利害の衝突が存在しないということでもない。

 東南アジア諸国はいずれも多民族国家であるが、少数民族の取り扱いには国ごとの特徴があり、それぞれがその国の成り立ちを反映している。たとえば社会主義国のベトナムでは、中国とよく似た方法で国定民族を認定し、少数民族にはクオータの割り当て等の優遇措置がなされる。またマレーシアでは、国民のID登録を民族単位に行い、そのうえで土着民とされるブミプトラに対して優遇が与えられる。

 それに対しタイの場合、民族分類への関心の欠如が際だった特徴となっている。実際に冷戦期の山地を例外として、タイでは全国的な民族別人口調査は行われてこなかった。これにはタイが植民地化されなかったという事情も関係しているかもしれない。人口統計というのは、東南アジアにおいては、新たに支配下に入った住民の属性を把握するためにもちこまれた植民地行政の技術であった。そのためタイでは、前近代国家の特徴が、民族の取り扱いにも引き継がれて現在に至っている。それが国王による一視同仁という国民統合政策である。国民はID登録にあたって宗教を記入するが民族帰属の記入欄はない。したがって国家が把握しているのは宗教のみである。もともと東南アジアでは、民族の代わりに宗教をもって人間を分類するという慣行が行われてきた。タイの民族政策(より正確にはその不在)はその延長上にとらえられる。

 タイでは憲法上の規定により、国王は仏教徒で諸宗教の擁護者とされる。これもまた前近代国家の王権観の延長であるが、ともかくタイにおいては民族ではなく宗教単位で住民を把握し、イスラム教徒もキリスト教徒も国王の保護を受ける。つまり国王に忠誠を誓うかぎりにおいて、民族の違いは問題とされない。一視同仁と述べたのはそういう意味である。ただしタイ国家が民族政策に無関心だということは、少数民族の保護のために特別な政策枠を設けたりしないということでもある。国語はタイ語のみであり、学校教育の言語もタイ語のみである。したがって少数民族には常に多数派タイ人への同化への圧力が働く。しかしひとたび同化してしまえば民族的出自は問題とされない。一視同仁政策はそうした、同化主義と平等主義の二面性をあわせもつ。

仏教徒少数民族
 前述のように、東南アジアでは伝統的に宗教をもって民族の分類に用いてきた。宗教別人口比は、仏教徒が94%、イスラム教徒が約4%、キリスト教徒が1%強、ヒンドゥー教徒・バラモン教徒・シーク教徒があわせて1%未満という構成になっている。民族別に人口を把握していない以上は、統計上は人口の9割以上が仏教徒タイ人ということになる。この点からいえば、タイは東南アジアの中でも際だって同質性の高い国である。

 とはいえ、仏教徒の中にもさまざまな民族が存在する。タイで主流なのは、仏教のなかでも南伝仏教と呼ばれる上座部仏教である。上座部仏教徒には、タイ語系と非タイ語系の諸民族が含まれる。

 タイ語系の言語のうち、タイの国家語となっているのがバンコクを中心とする中部方言である。中部地方すなわちチャオプラヤー川の下流域に栄えたアユタヤ、トンブリ、バンコクの各王朝を支えた人々の文化が、言語を含めてタイの国民文化の標準となっている。彼ら中部タイ語話者を支配民族とするならば、ほかのタイ語系方言グループは少数民族と見なすこともできる。これらタイ語系少数民族は、それぞれ民族衣装や精霊祭祀などに独自の伝統を有する。

 東北タイに住む人々はラオスの多数派民族であるラオ人と同系統である。この地域は貧困地区としても知られており、そのため冷戦期にはラオスの内戦と連動し、分離主義的要求を掲げるゲリラの活動も見られた。1980年代の民主化以降は、東北タイはその人口の多さにより下院議員選挙において最も多い議席の割り当てを受けており、東北タイの有権者の支持が各党の勝敗を左右する状態となっているため、人々は中央への政治的要求をゲリラ活動ではなく議会を通して発信するようになっている。

 北部には13世紀よりラーンナー諸王国が建てられ、中部タイの諸王朝と並立しながら独自の宮廷文化や仏教の伝統を維持してきた。ラーンナー王国は18世紀末に中部タイのトンブリ王朝の服属国となり、19世紀末から20世紀初頭にかけシャム(現在のタイ)に順次吸収合併されていった。ラーンナー王国の主要民族はタイ・ユアンと呼ばれるが、北部にはそのほかにもシャン、ルー、クーンなどといったタイ語系の少数民族も居住している。彼らの多くは隣国ミャンマー、ラオス、中国西双版納などからの移住者とその子孫である。

 現在のタイの国土において最初に仏教文化を受容して王国を繁栄させたのは、タイ語系民族ではなくモーン人と呼ばれる人々である。モーン人はモン・クメール語族に属しミャンマー東南部から中部タイにかけて分布している。モーン人がドヴァラーヴァティ、ハリプンチャイなどの古代王国を興し、その伝統を吸収・継承するかたちで中部や北部のタイ語系諸王国が成立している。19世紀に当時のラーマ4世王によりタイ仏教教団の改革が行われるが、そのときモデルを提供したのもモーン系の教団である。

 また言語的には同系統のクメール人(カンボジアの主要民族)も、かつては中部タイ全域が古代クメール帝国の影響圏だったことや、アユタヤ王国がクメール帝国の文化を移植して文化の振興を行ったことなどにより、東北タイにはクメール系の村落も点在している。スリン県のゾウ使いは全国的に知られているが、彼らもクメール系の民族である。

写真1:シャン様式の仏教寺院。チェンライ県にて

写真1:シャン様式の仏教寺院。チェンライ県にて

中国系移民
 東南アジアにおいて華僑・華人と呼ばれる中国系移民とその子孫たちの存在は、ときに国民統合上の大きな政治問題となってきた。ただし現在のタイにおいては、彼らの存在そのものが政治問題として取り上げられる局面は皆無といってよい。上述のように、タイには民族別人口統計が存在しないため、華僑・華人たちも国籍を取得してしまえば広義の仏教徒タイ人となる。20世紀半ばのピブーン政権期(1938-1944、1948-1957。特に後期)には華僑・華人に対し厳しい同化政策が実施された。そのなかには、中国語学校や中国語新聞への規制強化を通じた強制的タイ語化政策が含まれる。ただし同化主義的な一視同仁政策のものでは、主流派社会に同化した華僑・華人たちを他の仏教徒タイ人と区別する法的枠組みは存在しない。かねてから商業部門に進出していた彼らは、1980年代以降の民主化に伴い、自らの富を政治力に転換し始めた。実際に1980年代以降のタイにおいて、民選首相はそのほとんどが中国系の出自をもつ。華人人口が過半数を占めるシンガポールを除けば、東南アジアにおいて、同化華人たちが一国の行政首班となることを忌避しないタイとフィリピンは例外的存在といえる。

 人口についてであるが、民族別人口統計が存在しないことや、ホスト社会との通婚が進んでいることなどから、華僑・華人系国民の人口については不明な点が多い。おそらく全人口の一割程度ではないかと推定されている。彼らの多くは商業部門に従事するため、都市部での人口比はそれよりもはるかに高い。東南アジアの華僑・華人社会は主に福建省、広東省出身者で占められ、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポールでは福建人の割合が高いが、タイにおいては潮州人(広東省出身の福建語系方言を話す集団)がドミナントである。ただし南部はマレーシア同様に福建人が早くから進出しており、また北部のミャンマー国境沿いの山地には雲南省から陸路移動してきた人たちも居住する。

写真2:潮州人たちが崇拝する大峯祖師。バンコク報徳善堂にて

写真2:潮州人たちが崇拝する大峯祖師。バンコク報徳善堂にて

その他の移民少数民族
 英領であった隣国のミャンマーやマレーシアとは異なり、タイではインドからの労働移民の移入は積極的には行われてこなかった。統計上のヒンドゥー教徒・バラモン教徒・シーク教徒を便宜上インド人と見なせば、その人口は2万人程度で全人口の1%に満たない(イスラム教徒も含めればもう少し多い)。彼らの多くは都市部に居住し、布地や宝石の販売、一部は金融業などに進出している。

 タイ国内にはベトナム系コミュニティも存在する。古くは18世紀後半に、ベトナムでの政争に敗れた残党の一部がシャム湾岸沿いにバンコクまで逃れて当時の王朝の保護を受け、シャムとビルマ軍との戦いにも参加したため、東部のチャンタブリ、バンコク、西部国境のカンチャナブリなどにベトナム人が定着し、ベトナム系の寺院も建てられた。バンコク中華街でも大乗仏教寺院の過半は実は中国系ではなくベトナム系である。そのほか20世紀には、仏領インドシナからの移民が東北部のメコン川沿いに多くのベトナム人移民集落を建設した。これらベトナム人集落はかつてはホー・チ・ミンの支持基盤ともなっていたため、冷戦期の1970年代に当時の軍事政権は、すでに帰化していたベトナム系住民の国籍を剥奪する措置をとるが、冷戦後にこの措置が解除され現在に至っている。

写真3:バンコクのヒンドゥー寺院で祀られる弁才天

写真3:バンコクのヒンドゥー寺院で祀られる弁才天

マレー人とその他のイスラム教徒
 マレー半島北部のマレー系スルタン国はパタニー、クダ、トレンガヌなど、伝統的にはシャムの朝貢国であったが、英国の進出を受けた国境画定交渉で、19世紀末から20世紀初頭にかけて、旧パタニー国のみがシャム領に編入されることになった。マレー半島東海岸に位置する旧パタニー領のパッタニー(タイ語ではパッタニーと称する)、ヤラー、ナラティワートの3県は、人口の圧倒的多数がマレー語を話すイスラム教徒によって構成されている。彼らはイスラム寄宿学校などの独自の伝統をもち、タイ中央政府の同化政策に対して、しばしば暴力的な手段を伴いながら抗ってきた。マレーシア独立前後には、南部3県の分離独立やマレーシアとの合流をめざす勢力が武装闘争を進め、それが一時沈静化したものの、2004年の官憲の取り締まりによるイスラム教徒の大量死事件をきっかけに緊張が再燃している。

 イスラム教徒は旧パタニー王国以外にも全国各地に存在する。マレー半島西海岸には、タイ語を話すイスラム教徒が多数居住しており、彼らがイスラム化したタイ人なのか、タイ語化したマレー人なのかについてはいまだに結論が出ていない。

 バンコクにもイスラム教徒の集住地区がいくつかある。マレーシア・インドネシア群島からの海上商人が定着したり、あるいはシャム軍によるマレー半島スルタン国の討伐戦で戦争捕虜として入植させられたり、またインド亜大陸各地からのイスラム教徒移民が移住したりといった経緯で、そうしたコミュニティやモスクは建設されている。そのほか北部には、中国の回民が陸路移住して各地にモスクを建てている。

写真4:マレー人通辞がバンコク・チャオプラヤー川沿いの商業地区に建てたモスク

写真4:マレー人通辞がバンコク・チャオプラヤー川沿いの商業地区に建てたモスク

山地民と海民
 タイの北部には山地民(チャオカオ)、南部には海民(チャオレー)と呼ばれる人々が住んでいる。山地民は、その多くが伝統的には焼畑農耕を主たる生業としてきた人々である。カレン、モン、ラフ、アカ、リス、ヤオ、ルア、カム、ティンなどと呼ばれる民族がそれである。そのほか遊動的狩猟採集民のムラブリ(かつては「黄色い葉の精霊」と呼ばれた)をそこに含める場合もある。山地民は冷戦時代には共産主義対策として住民の把握が試みられたこともあり、タイ国内では例外的に、2002年まで定期的な民族別人口調査が政府によって行われてきた。2002年時点の山地民総人口は91万人強で、そのうち43万人をカレンが占め、その他の民族はモン、ラフが10万人台、その他は1~7万人程度の人口規模である。山地民のうちカレン、ルア、カム、ティンを除く各民族は、20世紀に隣国からの移入によって人口が急増した民族であり、しかも移動性の高い焼畑耕作を行い現金収入源としてケシ(アヘン、ヘロインの原料となる)を栽培し、なおかつ国境山地の彼らの居住地域が冷戦期において国防上センシティブとなったことから、20世紀後半になるとタイ政府は従来の放任政策を改め、焼畑の規制やケシ栽培の禁止など、積極的な介入策により国家への包摂を進めていく。それらの施策を通じ、森林伐採の規制、焼畑耕地の果樹園等への転換、内務行政や義務教育の浸透、舗装道路や電力インフラの普及などにより、かつては移動性が高かった山地民村落も現在では急速に定住度を高めている。

 山地においては平地国家の統治がほとんど及んでいなかったため、伝統的には仏教は普及せず、人々は精霊祭祀を主に行ってきた。世界宗教の空白地帯となった山地に最初に進出したのはキリスト教の宣教師であり、そのため山地においてはタイ国内では例外的に、キリスト教徒村落が各地に存在するようになっている。いっぽうでタイ政府は、彼らをも仏教徒タイ人として同化させるべく、仏教の布教や仏教寺院の建設を奨励している。

 海民はモーケン、ウラクラウォーイなどの小規模な言語集団に分かれ、主にアンダマン海沿いに居住する。彼らは非定住的な船上生活を行いつつも、ナマコや燕の巣といった海産物を採取し、それを仲買人に卸して主食を調達するというかたちで現金経済に包摂されてきた。彼らもまた近年では定住化が進みつつある。かつて海民はその差別を払拭するために「新タイ人(タイ・マイ)」とも命名されたが、明治期日本の新平民と同様の露骨な差別的ニュアンスが嫌われ、現在ではほとんど用いられていない。

写真5:山地民の集落(チェンライ県)

写真5:山地民の集落(チェンライ県)

外国人移民
 最後に、厳密にはタイ国内の少数民族ではないが、しかしこの国の民族的多様性を語るうえで不可欠な存在としての外国人移民(労働移民や避難民)にふれておきたい。現在のタイは300万人強の外国人労働者を抱えており、その多くが近隣諸国特にミャンマーの出身者である。そのほかミャンマーからは現在9万人を超える難民がタイ国内のキャンプで生活しているが、難民条約を批准していないタイにおいてはこれらはあくまで例外的な措置であり、実際にはそれに数倍する人々が難民としての認知を受けず、法的身分(入国の合法性や在留資格の有無)が不安定な状態でタイ国内に居住している。彼らのほとんどはパスポートでビザ申請して入国しているわけではないので、無国籍者として扱われる(つまり居住国と出身国のどちらからも法的保護を期待できない)人も多い。

 この問題にあえてここでふれるのは、これがタイの少数民族をめぐる問題と文字通り地続きだからである。たとえば難民とされる人の過半はカレンやシャンである。また2010年時点でのある報告によれば、約30万人のシャンやラフがミャンマーを逃れ、難民としての認知を受けられずに不法入国・不法就労状態でタイ国内に滞留しているという。その数は現在もっと多いだろう。シャン、カレン、ラフ、いずれもがタイの少数民族でもある。さらに事態をややこしくしているのは、前述の山地民もその少なからざる人数が隣国からの(厳密には違法な)越境によってタイ側に移住しており(山地の人口が1971年の約27万人から2002年の91万人まで3倍以上の激増を見ているというのはようするにそういうことである)、しかもそのなかにはタイ国籍取得者と未取得者がともに含まれており、なおかつそうした人口の山地村落への流入は現在でも続いているという事実である。つまりシャン、カレン、ラフなどの移民は国境の難民キャンプにも都市部の就労現場にもいて、そこにはミャンマー国籍者と無国籍者が混在しているだけでなく、彼らの移住先は山地にある同胞の集落にも及んでいて、そうした集落での受け入れ側の住民自体がミャンマー生まれ、タイ生まれ、タイ国籍者、無国籍者の混成により成り立っているわけである。

 ミャンマー出身少数民族のうち、山地を生業の場としてきたカチンやパラウンは、比較的新しい移民であることから、タイ側では上記の山地民カテゴリーに含まれていない。しかし実際にはタイ政府が2002年まで発行してきた高地集落調査報告ではカチンやパラウンの村落が認知されており、したがってその一部はタイ国籍を取得している。こうなってくると、どこまでがタイの少数民族で、どこからが難民や外国人労働者なのかの線引きが不可能に近くなってくる。

 ミャンマーでの2021年クーデターに伴う国内治安の悪化は、そうした傾向に拍車をかけている。激増する避難民の流入は国境の検問所のみならず尾根づたいの山地集落にまで及び、山地民の集住地区でも見ず知らずの避難民によってある日突然人口が急増し、行政が認知していない村落がタイ国家の把握していない民族によってあちこちに建設されるという事態が進行中である。この展開のあまりの速さに、移民や無国籍者の人権状況の改善に関わっているNGO等でもデータの把握が追いついていないというのが現状である。

書誌情報
片岡樹《総説》「タイの少数民族」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TH.1.01(2024年5月8日掲載) 
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/thailand/country01/