アジア・マップ Vol.03 | タイ
《総説》
タイ音楽の近代化:映画『ホムロン』における近代化像の再考
1. はじめに
タイの国民的な音楽映画『ホムロン』 (2004年、日本公開時タイトル『風の前奏曲』) は、公開当時、タイ国内で異例のロングランを記録し、スパンナホン賞(タイ・アカデミー賞)の主要7部門を受賞するなど社会現象となった。2018年には舞台化も行われている。同映画は、タイの人々にとって「タイ音楽」のイメージを象徴する作品として位置づけられている。
『ホムロン』は、タイ古典音楽 (注1) の巨匠ルアン・プラディット・パイロ (本名ソーン・シラパバンレン, 1881–1954) の伝記を原作としており、ドラマティックな演出(注2) 以外は、基本的に事実に基づいている。物語は、古典音楽の「黄金時代」と「衰退期」を対比させ、「伝統的なタイ」と「近代的な西洋」の対立を強調して描くことで、近代化の中で失われつつある伝統文化の価値を再評価するメッセージを強く打ち出している。しかし、同作に描かれている単純化された二項対立は、歴史的事実を必ずしも反映していない。本稿は、『ホムロン』の主人公ルアン・プラディット・パイロと、その息子プラシッド・シラパバンレン (1912–1999) の活動に注目することで、同作が示す近代化像を再考し、タイ音楽史の多層的な実態を再解釈することを目的とする。
2. 映画『ホムロン』における二項対立
ルアン・プラディット・パイロが生きた時代は、近代化の始まりと言われるチャクリー改革、1932年の立憲革命、第二次世界大戦など、政治的・社会的変革が続いた時代であった。立憲革命以前、古典音楽は宮廷や貴族階級の権力者がパトロンとして支援しており、彼らにとってステータスの象徴でもあった。『ホムロン』の劇中では、楽団が演奏によって戦う「競演会」がストーリーの主軸となっている。宮廷音楽家として上り詰めたソーン (ルアン・プラディット・パイロ) は、ラーマ6世 (1881-1925, 在位1910-1925) より「芸術家」を意味する姓「シラパバンレン」、官位「ルアン」、そして「美しい音楽を生み出す者」という意味の欽賜名「プラディット・パイロ」を与えられた。しかし、1932年以降の軍事政権下では西洋文化が重視され、古典音楽などの伝統芸術は規制対象となった。演奏には政府の許可が必要となり、歌詞や脚本は検閲され、地面に座っての演奏は禁止された。劇中でも、西洋文化が賛美され、伝統文化が弾圧されたり軽視されたりする場面が描かれている。
『ホムロン』は、2つの時代を行き来する「カット・バック」手法を用い、ルアン・プラディット・パイロの青年期と老年期を交互に描くことで進行する。監督は同映画のテーマを「グローバル化時代の自国文化の存続」としており、青年期を古典音楽の「黄金時代」、老年期を「衰退期」として対比させることで、「近代的な西洋」が「伝統的なタイ」を脅かす存在として描かれ、人々に伝統文化の価値を再認識させようとしている。
3. 古典音楽の「衰退期」の実態
映画で「衰退期」とされる1930年代にも、実際には古典音楽を保存・発信する動きが存在した。1929年頃から始まった古典音楽を楽譜化して保存するプロジェクトと、1934年に設立されたシャム国立舞踊音楽学校の活動である。
古典音楽保存プロジェクトの発起人であるダムロン親王 (1862–1943) は、西洋的教養を身に付け、タイ行政の近代化に貢献した人物であった。彼は記譜法という西洋の手法によって古典音楽を保存しようとした。プロジェクトの結果は出版され、タイ音楽研究史においても重要な文献となっている (注3) 。当時、西洋列強の脅威に直面していたタイでは、西洋に匹敵する「伝統的な音楽」の存在を外国に示す必要があるとダムロン親王は考えていたと推測される(注4) 。同プロジェクトには、ルアン・プラディット・パイロも協力していた。
同時期に設立されたシャム国立舞踊音楽学校は、設立翌年の1935 年、タイで初となる外国での公演を非常に大規模な形で実施している(注5) 。当時のタイでは、学校という西洋のシステムを取り入れることで、古典音楽が積極的に国外へ発信されていたことがわかる。なお、この公演には、ルアン・プラディット・パイロの息子プラシッド・シラパバンレンが同学校の教師として引率していた。
4. プラシッド・シラパバンレンの複合的な活動
プラシッドは、タイにおける西洋音楽のパイオニアとして知られている。彼は西洋音楽を学ぶために留学した最初のタイ人であり、西洋音楽の作曲家としてタイの「国家芸術家 National Artist」にも選定されている。『ホムロン』では、プラシッドはタイ古典音楽の名家に生まれながら西洋音楽を学んだ人物として描かれている。劇中には、自宅にピアノが届いた際、父ルアン・プラディット・パイロが険しい表情を浮かべ、プラシッドに演奏するよう促し、最終的には笑顔でタイ楽器と合奏をするという場面がある。監督はこれを「東洋の文化と西洋の文化が共存していることを象徴」したものと説明している。実際には、プラシッドは若くして西洋音楽を学び始めており、そのきっかけは父の勧めであった。ルアン・プラディット・パイロは古典音楽に新しい演奏技術や形式を積極的に取り入れた先進的な音楽家であり、息子に西洋音楽を学ばせたことも新しい挑戦の一環であった可能性がある。
西洋音楽家としての側面が強調されがちな一方で、プラシッドはまず父からタイの伝統的な音楽を本格的に学んでおり、1934年からはシャム国立舞踊音楽学校で古典音楽を教えていた。留学先の東京音楽学校 (現在の東京藝術大学の前身) で学ぶことになったきっかけは、同校の公演に引率するために来日した際に、師となるクラウス・プリングスハイム (1883–1972) と偶然出会ったことであった。帰国後は、指揮や作曲といった西洋音楽家としての活動だけでなく、1950年代には伝統的なタイ舞踊と音楽のためのパカワリー舞踊音楽学校を設立した。同校は外国公演や研究活動にも積極的に寄与した。
このように、プラシッドは西洋音楽の先駆者であると同時に、タイの伝統的な古典音楽の重要な実践者でもあった。彼の生涯は、西洋音楽とタイ古典音楽を二者択一ではなく、柔軟に行き来しながら活動したことを示している。
5. おわりに
映画『ホムロン』は、タイの人々に伝統文化の価値を強く訴えかけた映画である。しかし、同作が「衰退期」として描いた時期の古典音楽に関するイメージは一面的であり、映画の示す「伝統と近代の対立」という単純化された図式は、歴史的実態を十分に反映していない。ルアン・プラディット・パイロとプラシッド・シラパバンレンの活動は、西洋音楽の流入がタイ古典音楽の衰退を必然的にもたらすのではなく、むしろ相互補完的な発展を促す可能性を示唆している。
タイ音楽史の記述は、西洋音楽とタイ古典音楽の対立構造ではなく、両者の共存と相互作用に着目して再編されるべきである。ルアン・プラディット・パイロとプラシッド・シラパバンレンによる複合的な活動は、そのような再編のための重要なケーススタディであり、今後「近代化=西洋化」という通念を問い直す手がかりとなると考えられる。
注
(1) 本稿における「古典音楽」とは、演奏、歌唱、舞踊、演劇などに含まれる音楽的要素の総称としての「音楽」のうち、宮廷を中心に発展してきた伝統的な音楽と、その延長上にあるものを示す。
(2) 演奏によって風が吹いたり、雨が降ったりする描写。
(3) CHEN DURIYANGA, Phra 1948 Thai music, Bangkok: Fine Arts Dept.
(4) Thai music (1948) の序文には、同著は「タイの伝統芸術と文化の知識を広めるため」のシリーズの 1 つで、「外国人がタイの文化を学び、理解する機会を提供する」ことを想定しているとある。
(5) 同公演は日本各地に加え、満州・朝鮮半島も巡演している。約1ヵ月半にわたり、公演回数は22回にのぼった。
主要参考文献
MILLER, Terry
1998 “Thailand”, MILLER, Terry; WILLIAMS, Sean(eds.), The Garland Encyclopedia of World Music, Volume 4 Southeast Asia, New York:Garland Publishing:218-334.
MORTON, David
1976 The Traditional Music of Thailand, Berkeley: University of California Press.
ROONGRUANG, Panya
2001 “Thailand”, SADIE, Stanley; TYRRELL, John(eds.),
The New Grove Dictionary of Music and Musicians (2nd ed.), London:Macmillan Publishers: 327-336.
SILAPABANLENG, Kulthorn
2009 筆者によるインタビュー(英語), Bangkok, 9 月 29 日.
VICHAILAK, Itthisoontorn
2004a インタビュー(日本語字幕翻訳:高杉,美和),『風の前奏曲』特典映像: 東宝東和株式会社.
2004b 「イッティスーントーン・ウィチャイラック監督インタビュー」 (聞き手:白田,麻子、アジア太平洋映画祭 in 福岡にて), 『風の前奏曲』映画パンフレット
2005 「イッティスーントーン・ウィチャイラック監督 インタビュー」 (翻訳者不明),「風の前奏曲:ラナートの旋律に心弾む、タイ音楽映画の新たな伝統」『キネマ旬報』巻末付録:2-4.
WONG, Deborah Anne
2001 Sounding the center:history and aesthetics in Thai Buddhist performance, Chicago:University of Chicago Press.
山下,暁子
2016 『プラシッド・シラパバンレン(1912-1999)の研究 タイ音楽の実践者としての活動』お茶の水女子大学博士学位論文.
書誌情報
山下暁子《総説》「タイ音楽の近代化:映画『ホムロン』における近代化像の再考」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TH.1.03(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/thailand/country01/