アジア・マップ Vol.03 | トルコ

《総説》
トルコの音楽

新井裕子(放送大学 元非常勤講師)

 「トルコの音楽」の間口は広く、奥行きは深い。ここではそれを概観し、特色を明らかにすることで、トルコという国が過去と現在において占めている位置を、音楽を通して考える契機にもなればと思う。まずは、『トルコの音楽』を語るうえで欠かせないオスマン軍楽(メフテル)から話を始めよう。

 メフテルは、オスマン朝の近衛歩兵であるイェニチェリの軍楽隊(mehterhane;メフテルハーネ)が演奏した軍楽で、オーボエ系の管楽器(zurna)、トランペット(boru)、ティンパニー型の一対の大太鼓(kös)、二個をつないだ鍋型小太鼓(nakkare)、両面太鼓(davul)、シンバル(zil)などの楽器、さらにたくさんの鈴がついた錫杖(çevgen)を振りながら拍子をとる歌い手からなっていた。そしてこの軍楽は、18世紀西洋音楽で「トルコ風」音楽を流行させるきっかけともなった。17世紀までは深刻な脅威だったオスマン朝が、1683年の第二次ウィーン包囲に失敗して後退を始めると、ひと息ついた西洋で「トルコ風」を楽しむ風潮が出現したのである。このうち音楽分野における「トルコ風」の手法とは、太鼓やシンバルのような打楽器を多用することで、メフテルハーネの勇壮な音を作り出すことであった。

 たとえば、「トルコ行進曲」としても知られるモーツァルトのピアノソナタ第11番イ長調K.331 の第3楽章(Rondo alla turca)では、オスマン軍楽隊の打楽器の響きを模倣している。また、主人公が太守セリムの後宮から恋人を救い出すという筋の歌劇『後宮からの誘拐』K.384 では、バスドラム、シンバル、トライアングルが「トルコ風」を表現し、第一幕にはイェニチェリの合唱まである。この歌劇は、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の依頼により作られ、1782年にウィーンで初演されたものである。

 そして「トルコ風」は、作曲技法だけにとどまらなかった。19世紀前半に、ウィーンを中心とした地域で制作された「跳ね上げ式」アクションのグランド・ピアノには「ヤニチャール・ペダル」を備えた例がしばしば見られる。「ヤニチャール」はイェニチェリを指しているのだが、このペダルを踏むと、その先につけられている棒がピアノの響板の裏を叩いて太鼓のような音をたて、同時に内部に装着されたベルが鳴ってトライアングルのような響きをたてるのである。このような装置をつけて「トルコ風」を演出しようとしていたのである。

 しかし、このイェニチェリは1826年に第30代スルタン、マフムート2世によって廃止され、西洋式の装備を持ち、西洋式の訓練を受けた新軍団に置きかえられた。そしてこの新軍団にメフテルハーネは似つかわしくないと考えたスルタンによって、西洋式の軍楽隊の編成と教育を任されたのが、ジュゼッペ・ドニゼッティ(1788年-1856年)だった。ナポレオンの軍楽隊を指揮した経験も持ち、オペラ作曲家として著名なガエターノの兄だったジュゼッペはスルタンたちのためのマーチを作曲し、それらはオスマン朝の種々の行事の際に演奏されることになった。ちなみに、弟のガエターノと交流のあったフランツ・リストは、ジュゼッペの口添えで1847年にイスタンブルを訪れ、ジュゼッペ作曲のマーチをピアノのために編曲してスルタンに捧げている(Grande paraphrase de la marche de Donizetti)。

 次にメヴレヴィー教団の音楽について見てみよう。「旋舞教団」として広く知られるこの教団は、ジェラールッディーン・ルーミー(1207年-73年。「ルーミー」は「ローマの土地の人」の意であり、トルコ共和国が位置するアナトリアはかつて「ローマの土地 Rum」と呼ばれていた)を開祖とする神秘主義教団で、教団の名は彼の尊称メヴラーナー(「我らが師」の意で、トルコで彼はもっぱらこの名で呼ばれている)に由来している。ルーミーは叙事詩『精神的マスナヴィー』によって「ペルシア文学史上最大の神秘主義詩人」とみなされる人物である。この書の巻頭の詩は「葦笛の歌」として知られ、この詩ゆえにメヴレヴィー教団ではネイ(葦笛)が大事な楽器とされている。

 この教団は、開祖が著名なペルシアの詩人であり、その洗練された伝統ゆえに15世紀前半のムラト2世の頃からオスマン朝の歴代スルタンの庇護を受けて大きく発展し、アナトリアのみならず、バルカン半島やダマスカス、カイロなど帝国の主要都市にも修道場(tekke)が設けられた。こうして発展したメヴレヴィー教団は、音楽を伴う独自の修行法を採用し、それによってすぐれた演奏家、作曲家を輩出した。彼らは教団のための音楽だけではなく、他の古典的諸作品も作り、稽古も行っていた。それゆえにこの教団は「オスマン朝の音楽院」と呼ばれ、「トルコ音楽史」の中ではデデ(dede、トルコ語で神秘主義教団の長たちの尊称)という称号を持つ音楽家の名前がしばしば見られることとなった。

 メヴレヴィー教団の典礼音楽(âyin)は、まず預言者ムハンマドへの賛歌の朗唱で始まり、次いでネイの即興演奏(taksîm)から、古典音楽で用いられるさまざまな楽器の合奏(peşrev)へ移り、旋舞が始まる。そして、賛歌と同じく、おもにルーミーの詩から選ばれたペルシア語の典礼歌がこの器楽合奏を伴って歌われる中、旋舞が続けられて「神秘的合一」の境地へと向かうのである。儀式を構成する4つの部分に相応して合奏も典礼歌も4つの部分から成っており、それは、さながら盛り沢山なプログラムの音楽会のようである。

 オスマン朝の滅亡とともに成立したトルコ共和国の政策により、メヴレヴィー教団は1925年、他の教団とともに禁圧され、修道場も閉鎖された。しかし、複数政党制が樹立された1946年にメヴラーナーの追悼祭が復活し、さらに1991年にはトルコの文化遺産と認定された。そして現在は、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。また、1925年の禁圧後に、それまでイスタンブルで活動し、メヴレヴィー教団に接触していた音楽家たちが、旧オスマン領に新たに誕生した国々で彼らの音楽を伝える活動をしたことも、音楽史を通観するうえで見落とすべきではないだろう。

 「トルコの音楽」に特徴的なものをもうひとつ挙げておこう。それは、オスマン朝が、その最初期からギリシア正教徒を支配層にも被支配層にもかかえこみ、バルカンからアラブ地域にいたる広大な領域を支配して、アラブ・イスラム的伝統に東ローマ(ビザンツ)、さらにトルコ的伝統を重ね合わせて複合的な文化を作り上げたことに由来する。その文化の中で、元来「記譜する」という行為が音楽家に必要とされておらず、したがって楽譜というものが存在しなかったイスラーム世界に、例外的に音楽を記録するための「楽譜」をもたらした人々が現れたのである。

 ポーランドからやってきてイスラムに改宗したアリー・ウフキー(1610年頃-75年頃)、オスマン朝の属国モルダヴィア総督の息子でオスマン宮廷に仕えたカンテミルオール(1673年-1723年)、メヴレヴィー教団の長老アブデュルバーキー・ナースィル・デデ(1765年-1821年)、そしてアルメニア人音楽家ハンパルスム(1768年-1839年)がそうした音楽家である。こうした「楽譜」を考案した四人のうち三人がキリスト教的伝統の中で育った人物であったこと、さらに、アブデュルバーキー・ナースィル・デデに記譜を勧めたのが第28代セリム3世で、彼がオスマン朝の西洋化改革の起点とも言える諸改革を推進したスルタンであったこと、そしてこのとき考案されたアラビア文字をもとにした文字譜によって、セリム3世作曲のメヴレヴィー教団のための典礼音楽が残ったことは興味深い。

 1922年にオスマン朝が滅んで翌年トルコ共和国が建国を宣言するが、その時代は多くの非西洋文化圏で、西洋文化の「普遍的」な型に合わせて自らを再編成していこうとする動きが顕著だった時代である。音楽においてそれは、西洋の理論、楽器や奏法、形式などを積極的に取り入れていくという形をとった。

 全面的な西洋化を国是とした共和国の音楽教育の場における新しい理論体系も、スプヒ・ズフテュ・エズギー(1869年-1962年)とヒュセイン・サーデッティン・アレル(1880年-1955年)、それに物理学者のサーリフ・ムラト・ウズディレッキ(1891年-1967年)によって共同で作り出された。彼ら、とくにエズギーとアレルは西洋の楽器を習った経験を持つと同時に、オスマン宮廷やメヴレヴィー教団で活動した師匠たちから稽古を受けて伝統的音楽を身につけていた。アレルにいたっては、メヴレヴィー教団の典礼音楽を50以上も作曲している。彼らが、微小音程から成る彼らの音楽を五線譜上で表すために特殊な変位記号を用いつつトルコの音楽を五線記譜法で表記し、そしてこれが実際に用いられたのである。五線譜は、オスマン朝末期にドニゼッティによって軍楽隊のために導入されていたが、それがオスマン朝の古典音楽や民俗音楽にまで広がっていったことになる。

 こうして教育の場に五線記譜法が持ち込まれると、それまでの暗記を基本とした稽古は大きな変容を余儀なくされた。口承によって伝えられてきた音楽文化が公式の教育機関で教えられ保存されることと、楽譜化されてそれに基づく演奏が導入されることとが表裏一体となる。こうして、古典音楽や民俗音楽は確かに保全されるが、同時に楽譜に拘束された硬直した状態が作り出されるだろう。

 そもそも鍵盤楽器と結びついたこの記譜法は、17~19世紀の西洋音楽で独占的な役割を果たすが、音の高さと長さの表示を最優先させる特徴を持っている。しかし、音の高さや長さよりも微細な音の揺れ、音色が大きな意味を持ち、半音よりも狭い微小音程が多く用いられる音楽文化にとっては、この記譜法が多くの制約を生み出すのは明白である。しかもトルコは、オスマン朝以来の、幾層にも重ねられた音楽文化を持っていた。したがって、エズギー、アレルらによって体系化された理論では、中世イスラーム世界の音楽理論を継承する一面を持ちながら、近代アラブ諸国やイランの音楽理論家たちが作り出した音程よりもさらに細かな分割がなされ、リズムの面でも、長大な周期を持つものや不均等な単位を組み合わせたものが追求された。ただし、深い奥行きを持つだけに、エズギー、アレルの体系を見直そうとする議論は現在でも行われている。

 最後に、以上概観してきた音楽をCDに残す事業をさまざまな機関が行っていることをつけ加えておきたい。まず、文化観光省は古典音楽や民俗音楽を収めたCDを多数出しているが、その中には、オスマン朝末期に設立されたコンセルヴァトワールで録音されていた古典音楽や民俗音楽、さらにはベクタシ教団などの宗教音楽を復刻したものも含まれている(Sırlanmış Sesler: Darülelhan ve Sonrası Taş Plak Kayıtları)。またイスタンブル市はオスマン朝創設700年(Lalezar Topluluğu, Osmanlı Türk Müziği Antolıjisi)やメヴラーナー生誕800年を記念して(Dede Efendi Mevlevi Sesler)、さらにトルコ中央銀行も2010年に創立80年を記念して40のマカームを器楽曲や声楽曲で紹介するCDを制作、刊行している(Savaş Ş. Barkçin, 40 Makam 40 Anlam)。

写真1

画像1:イェニチェリ廃止後も地方に残存したメフテルハーネ
(出典:Emre Aracı, Donizetti Paşa. İstanbul: Yapı Kredi Yayınları, 2006.)

写真2

画像2:20世紀初頭に帝室音楽隊の指揮者となったドイツ人音楽家Paul Langeと率いた楽団
(出典:Aydın Karlıbel, Piyano için bir Türk Tarihi Albümü. İstanbul: Kalan Müzik Yapım, 2002.)

写真3

画像3:メヴレヴィー教団の旋舞儀式
(出典:Farahnak Mevlevi Âyini. İstanbul: Kalan Müzik Yapım, 2003.)

写真4

画像4:エズギーが自ら考案した楽譜に採譜した古典音楽の一例
(出典:Doktor Suphi, Nazari ve Ameli Türk Musikisi. İstanbul: Milli Mecmua Matbaası, 1933.)

書誌情報
新井裕子《総説》「トルコの音楽」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TR.1.01(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/turkey/country02/