アジア・マップ Vol.03 | トルコ
《エッセイ》
トルコのイスラーム建築
トルコという言葉は、中央アジアの草原地帯にいたトルコ(テュルク)系民族を指し、彼らはトゥーラーンからホラサーン、ペルシアを経て、アナトリア半島に入り、多数のトルコ系の王朝を成立させた。最後のトルコ系王朝はオスマン朝で、1923年にトルコ共和国が成立して以来、トルコという本来は民族をあらわす言葉が領域をあらわすようになった。
イスラームが成立した7世紀以来、シリアの北側に位置するアナトリア半島(アラビア語ではルームと呼ぶ)ではキリスト教国ビザンツ勢力の支配が続く。イスラームの拡張に押され、ビザンツ勢力は南東部から北西部へ向かって後退し、特にトルコ系民族が流入した11世紀以後イスラームの支配が拡張していく。トルコ民族を出自とするセルジューク朝は、ペルシアを拠点とし、バグダードのアッバース朝カリフを傀儡化し、アナトリアまで及ぶ大帝国を打ち立てる。ここから12世紀末に分派し、コンヤを中心にした一団がルーム・セルジューク朝である。一時期はルーム・セルジュークの支配がアナトリアの広域に広がるが、13世紀後半には小さな王朝がそれぞれの都市を本拠に群雄割拠する形となった。その一つであったオスマン朝が頭角をあらわし、諸王朝を併合し、1453年にはビザンツの首都コンスタンティノープルのキリスト教徒支配を終結させ、王朝の首都とした。
1.アナトリア・イスラーム建築の前史:西暦1050年まで
トルコのイスラーム建築は、本家でペルシアを支配したセルジューク朝の影響はもちろん、ビザンツ(図1)、シリア、アルメニア、グルジアなどさまざまな建築文化の影響下に育まれた。アナトリア一帯にわたるイスラーム建築の本格的な始まりは11世紀で、トルコ系諸王国、なかんずくオスマン朝が支配をアナトリア半島に広げながらコンスタンティノープルを占領するまでと、その後のオスマン帝国時代に分けられる。東のペルシアや中央アジアが土の建築に徹していたが、アナトリアでは壁部分は切石積みとし、ドームをレンガで構築することが多い。石材の使用という点では、シリア、アルメニア、グルジアなどと共通する。
例外的ではあるが、トルコ南東部シリア国境に近いハランにはウマイヤ朝期から11世紀にかけての都市遺構が発掘され、大モスクに付属していた矩形の高い塔が残る(図2)。大シリアからジャズィーラ地方にかけて広まったキリスト教会堂の鐘楼を移動した形の高塔で、ウマイヤ朝期創建の大モスクのミナレットだったと言われる
2.各地からの影響を反映:西暦1050年から1450年
2-1.モスクの場合
11世紀から15世紀半ばにかけては、建築ジャンルごとに幾つかのタイプを観察することができる。モスクにおいては、影響の震源によって多岐な進化が確認できる。
預言者のモスクに倣い中庭のキブラ(マッカに至る礼拝の方向)に柱をグリッド状に建て礼拝室とし中庭を回廊で囲む多柱式(図3)は、少数派である。ウマイヤ朝期のハランの大モスクはこのタイプであった可能性もある。一方、ディヤルバクルの大モスク(図4)はダマスクスのウマイヤ・モスク同様に中央キブラ軸を強調して教会のような切妻ファサードをみせる。この二つはシリアからの影響と考えられる。
ペルシア建築文化の影響から多柱式モスクの中央ミフラーブ前に大ドームを挿入する例は、南東から東アナトリアに多い(図5)。同じくペルシア風のイーワーン(大アーチを開口する大広間)を大ドームと接合する例は、マラティヤの大モスク(図6)に残るのみである。なお、モスクに付設される塔は、多くの場合、ペルシアに普及した円塔形が用いられた(図7)。モザイク・タイル(図6)もペルシア由来で、タイルはモスクだけではなく他のジャンルの建築にも使われ、クーバーダーバード宮殿(13世紀初頭)には星形と十字形を並べる絵付けタイル装飾も存在する(図8)。
図5 シルヴァン(1157年)の大モスク。間口スパン9スパン奥行4スパンからなり、大ドームはキブラ壁側中央の間口3スパン奥行3スパンを占める。写真はミフラーブの背後外側からドームの部分を撮影したもので、ドームのスラストを抑えるために3つのバットレスが突出する。他にはマルディン (1176年)、キジルテペ(デュナイシール、1204/5年)があるが、双方ともに間口2スパン奥行2スパンにドームを架ける。なお、ヴァンの大モスクについては、現状では荒廃してしまったが、20世紀初頭にはムカルナス・ドームが現存しており、12世紀あるいは14世紀末の二説がある。
図6 マラティヤの大モスク(1224年)。現在は礼拝室ドーム(2スパン四方)前の中庭に面するイーワーン(写真、同)と中庭(間口2スパン奥行5スパン)周りの多柱室の構成である。創建以来、14世紀後半にはマムルーク朝の改築、オスマン朝の再建などを経ており、創建当時は、礼拝室前イーワーンに対峙する北側イーワーン(2スパン四方)をもつ2イーワーン形式であったと想定される。フワンド・ハートゥーンのモスク(カイセリ、1238年)では、縦横2スパンのドームの手前に2スパン分の大アーチがあり関連性を示唆する。しかしながら、イーワーンは後述するマドラサでは多用されるが、モスクでは根付かなかった。
土着建築からの影響が強いのは、多柱式ながら中庭をもたないモスクである。冬の寒さと黒海寄りの多雨によるもので、木柱で支えられたベイシェヒルのモスクなど木造モスク(図9)が特徴的である。同様に中庭のないプランながら石造ピア(太い構造柱)を用い、それぞれのベイに曲面天井をかけたのはディブリーの大モスクである(図10)。組積造の太いピアをグリッド状に配して多柱式とした例は12世紀から数多く、多くの場合中央ミフラーブ前のベイに特別なドームを冠する。ディブリーでは特徴的な石の浮き彫り細工がファサード(図11)に、また多様な石造ヴォールトが使われ(図12)、アルメニア建築との共通性が考えられる。
図9 ベイセヒルのエシュレフォール・モスク(1299年)。東北部に斜めに切り取られた部分があるが、平面の基本は間口7間奥行9間にグリッド状に木柱を立て、奥行方向(写真奥方向)に梁を渡し、根太天井を架ける。中央には明かり取りのためにベイを開放し、中央ミフラーブ前の1ベイだけはレンガ造としドームを冠する。同様な作例として、アンカラのアスラン・ハーネ(1290年)、アフィヨン(1272年)、マフムート・ベイ(カスタマヌ、14世紀)、シブリヒサル(1231/2年創建、修理)と共に「中世アナトリアの木造列柱モスク」として世界遺産に登録された。これらは、アナトリア半島の中北西部に位置する。
図10 ディブリーの大モスクと病院(1229年)。大モスク(写真手前)は、北辺中央と西辺に入口をもち、北西部に円形のミナレットを立てる。間口5間奥行5間ながら、異なるスパンにピアを並べ、実際には南北に長い建物である。中央ベイを明り取り窓とし、ミフラーブ前の正方形ベイにドームを載せ、その外側には8角錐状の屋根を架ける(写真中央)。一方、病院は大モスクの南側に続き、西側に入口をもち(写真右奥)、中庭となる中央部分に4本の柱を立て屋根をかけ、東にイーワーン、南北辺に小室を2層に配置した2イーワーン式のようなプランで、北東部の一室を墓とする(写真左側の8角錐屋根)。
また、次世代を担うオスマン朝の初期の兆候として、一室だけで入口にアーケードをもつ単一ドーム式、大きなドームを2つキブラ方向に並べ両脇に側室をつけるT字式(図13)へと発展する。これらは、キリスト教会堂との関係を物語る。オスマン朝の傑作スレイマニエは、礼拝室のドーム構成からハギア・ソフィアの影響が大きいとされるが、オスマン朝のドームへの執着は14世紀以後の単一ドーム式、T字型式などにすでに現れ、エディルネのウチ・シュレフェリ・モスク(図14)が定型化される要素を含んだ直前の例となる。
2-2.マドラサ、墓建築そして複合建築
一方、12世紀後半以後、寄宿制高等教育機関としてのマドラサが好んで建てられる。ペルシアで再編されたイーワーン式(中庭の直交軸上に2つあるいは4つ)で中庭周囲に2階建ての小室を並べる形が大半で、モスクのような多様なプランは発達しない。しかしながら、アナトリアの冬の寒冷な気候のために中庭を正方形にしてそこにドームをかける例は、風土に合わせた改変といえよう。12世紀後半のヤギ・バサン・マドラサ(トカトとニクサール)は早い例ながら中庭をドームで覆う。その後も正方形中庭としてドームで覆い、周囲にイーワーンや居室を並べる(図15)。マドラサのペルシア由来を示すためか、入口ファサードには2基一対のミナレットが建てられることが多い(図16)。
アナトリアにおけるこの時代の墓建築のほとんどは、墓塔(トルコ語でキュンベットと呼ばれる)で、断面は多角形で錘状の屋根をいただく(図17)。この祖型はペルシア建築文化に属するゴンバディ・ガーブース(1006年)に達するが、イランでの実例数は少なく、カスピ海沿岸を経由してアナトリアやアゼルバイジャンにおいて盛んに建設された。墓塔は単独で立つ場合もあるが、モスクやマドラサに寄進者の墓として付設されることもある。またモスクやマドラサ(医学病院を含む)が併設され複合建築となり、フワンド・ハートゥーンの例では公衆浴場も併設された(図18)。公衆浴場の収入は宗教建築を維持するために使われ、いわゆるワクフのシステムであった。オスマン朝の首都ブルサにも世俗建築を含む複合建築(キュリイェ)が複数残るが、丘を利用し建物を点在させる。
3.オスマン帝国建築:1450年から
1453年にオスマン朝のスルターン・ファティーフ(メフメットII世)は、コンスタンティノープルを征服、首都とし、ビザンツ建築の傑作ハギア・ソフィアをモスクとし、礼拝をおこなった。その後も数多くの教会がモスクへと転用される。早い時代の宮殿建築として、チニリ・キョスクには、ティムール朝建築からの影響を確認することができる(図19)。土着のビザンツ教会堂や、ペルシア系建築の影響力の中で、初期オスマン建築から抜け出る独自の帝国スタイルを模索した。
15世紀半ばから16世紀末までの150年間は、オスマン建築が最も壮麗化された時代(盛期オスマン建築)といえよう。エディルネのウチ・シュレフェリ・モスク(図14)で、その前史に言及したが、典型的スタイルはファティーフ・モスクから始まる。盛期オスマン建築における大モスクの典型は、大ドームに半ドームを接合させて大空間の礼拝室とし、中庭の代わりに回廊によって囲まれる前庭を使い、細く高い鉛筆型のミナレットを立てる。加えて、モスクを中心にマドラサや諸建築からなる複合建築(キュリッイェ)を整形なプランに配する。
歴代のスルターンは典型に磨きをかける形で壮大な建設事業を行い、オスマン朝盛期の大モスクの景観がイスタンブルの丘を飾っていく。なお、キュリッイェを構成するマドラサ等は中庭周囲に1階建ての小室が並び、教室となるドーム室を軸上に設ける形式が定着し、墓建築は八角形の平面にドームを載せる形が一般化し、15世紀半ば以前の多様な状況とは様変わりする。
そのほかにも数多くのモスクがイスタンブルを始め各地に建設されるが、特にセリム1世、スレイマン大帝、セリム2世、ムラト3世の黄金期のスルターンに仕えた建築家シナンの功績が大きいとされる(図20)。彼は、スレイマニエでハギア・ソフィアのドーム構成に挑み(図21)、セリミエ(図22 エディルネ)ではハギア・ソフィアの直径を凌駕する大ドームを構築した。そのほかにも現在のトルコ共和国をはるかに超えて広がる帝国の各地に、モスクや公共建築を建設した。また、スレイマニエ建設のために開発されたという白地に青、緑、黒、赤の植物紋様を絵付したイズニク・タイル(図23)は、ペルシア風のタイルからの飛翔を示す。商館建築、橋梁、公衆浴場など世俗建築の定型化も重要である。忘れてならないのはトプカプ宮殿(図24)で、マルマラ海と金閣湾に臨み、入口の第一中庭からスルタンの私的空間に至る男性用のセラムリクの軸性、スルタンの後宮のハラムリクまで、15世紀半ば以後の各時代の様式を観察することができる。
図19 チニリ・キョスク(1472年)。陶器亭を意味し、トプカプ宮殿の外庭内に四阿として建設される。ティムール朝からの影響は、タイルの使用、前面の柱を並べたターラール、ドームを冠する中央の部屋を十字形とする平面、十字形から3方につながるイーワーンと中軸状の奥室などである。その後のオスマン朝盛期建築は、ペルシア建築の影響から離れていく。
図20 シナンの墓(1587/8年)。彼はスレイマニエ・モスクの北側に自身で設計した廟に葬られた。1490年頃、カイセリ近くのキリスト教徒石工の息子として生まれる。異教徒として徴兵され、イスタンブルで軍事教育を受け、建築家・土木技術者としての素養を身につける。宮廷建築家として、パトロンはスルターンばかりではなく、側近としての宰相、あるいは皇妃、皇母、皇女などから依頼を受け活躍する。
図21 スレイマニエ(1557年)。大ドーム(内径27m高さ53m)の前後に半ドームを接合する点は、1000年の時を隔たるハギア・ソフィア(大ドーム内径32m高さ56m)と同様である。ドームの大きさや高さは多少劣ってはいるものの、構造的な安定性が確保される。その工夫は幾何学性を高めることにあり、ドームを支える四つの大アーチ、外観においてドームの破裂力を防ぐバットレスの工夫などに表現される。
図22 セリミエ(1568-74年)。副都エディルネの丘の上に立つモスクで、大ドームの四隅に鉛筆型のミナレットが屹立し、垂直性を強調する。大ドーム自体は8本のピア(躯体柱)の上に載り、半ドームは四隅とキブラ方向に設けられるだけで、従来の大ドーム・半ドーム接合の手法から飛躍しようとしたと考えられる。手前に見える壁は、キュリッイェの一部をなす商店街(バーザール)である。
17世紀になると、建築の規模や工夫に翳りがみえはじめる。加えてイスタンブルには、他のイスラーム圏に加えて、いち早く18世紀半ばにはヨーロッパからバロック建築の影響が届く。楕円形の前庭をもつヌール・オスマニエ(1748-55年)はその早い例である。その後、ロココ建築、新古典主義建築など、ヨーロッパでの建築の動きと同調する形となる。
2つの時代に分けて述べてきたが、11世紀から15世紀半ばまでは多様な影響から多様な建築が生まれ建築の個性が目立つ時代である。一方、15世紀半ば以後の建築は帝国の様式として整備され同質化した建築が首都イスタンブルを頂点に各地で作られるようになった時代と言えよう。
掲載した写真については、今はなき真道洋子博士(イスラーム考古学研究所)の主催する科研費『「モノ」の世界から見た中世イスラームの女性:~ガラス器と陶器を中心に~』による2013年のトルコ調査において、現在鹿児島県立短期大学准教授宍戸克実氏および筆者が撮影したものを利用した。
書誌情報
深見奈緒子《エッセイ》「トルコのイスラーム建築」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TR.7.02(2025年5月8日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/turkey/essay01/