アジア・マップ Vol.03 | トルコ

《人物評伝》
イブラヒムの軌跡をたどって

小松久男(東京大学 名誉教授・東洋文庫 研究員)

 アブデュルレシト・イブラヒム(1857-1944)は、戦争と革命のユーラシアを舞台に類い希な行動力を発揮した汎イスラーム主義者にしてジャーナリストであった。ロシア領内の西シベリアに生まれ、東京に没した彼の活動は、19世紀末から20世紀なかばにかけての世界史の激動と密接に結びついている。

 14歳で両親を失った彼は苦労の末にメディナに留学し、その学識を買われて1892年ロシア内地のムスリムを統括するムスリム宗務協議会の要職に就くが、その実態に反発して辞職すると、ロシアのイスラーム政策を批判する在野の論客として頭角を現す。そして日露戦争さなかの1905年、第一次のロシア革命が起こるとロシア・ムスリムの政治運動の先頭に立ち、ムスリムの政治的、社会的、文化的な権利を確立するために、3度にわたるロシア・ムスリム大会を開催してロシア・ムスリム連盟という政治組織を結成する。それはロシアの国会(ドゥーマ)にムスリム議員を送る基盤となった。しかし1907年以後、帝政の反動が始まると、サンクトペテルブルクにあった彼の新聞社は閉鎖され、刑事訴追すら受ける身となった。国内での政治活動の道を閉ざされたイブラヒムは、「方々旅して歩いてみよ」というクルアーンの章句に導かれて、大旅行に出立する。

 この旅(1908-1910年)は、ロシア領中央アジアを巡った後、シベリア、日本、朝鮮、中国、東南アジア、インド、両聖都を経てオスマン帝国の首都イスタンブルに達する、まさに世界周遊の大旅行であった。旅の記録は、オスマン語の著作『イスラーム世界-日本におけるイスラームの普及』(イスタンブル、1910年)として刊行され、大きな反響を呼んだ。旅のなかでもっとも長く滞在したのは日本であり、およそ4ヶ月の間に大隈重信や伊藤博文、アジア主義者らと面談するとともに日本と日本人の観察に努めた。彼が日本に関心を向けたのは、イスラーム世界のヨーロッパ列強の支配からの解放は、新興国日本の出現によって従来の世界秩序が転化するときにはじめて可能になると考えていたからである。この戦略と表裏一体をなすのが、「日本人は生まれつきイスラームに近い民族である。イスラームの教えの中にある守るべき道徳は、日本人にはみな自然に具わっている」という彼の見立てであった。1910年、長旅の末に日本人として最初の聖都巡礼をはたした山岡光太郎とともにイスタンブルに着いたイブラヒムは、こうした日本観をスルタンアフメトやアヤソフィアなどの大モスクで熱く語り、つねに多数の聴衆を得たという。

 このころ彼と親交を結んだのが、イスラーム主義の詩人メフメト・アーキフであった。イブラヒムの日本人観に触発された詩人は、「日本人」と題する作品でこう詠んでいる。

さあ聞きたまえ、日本人とはいったいどんな民族か?
だがうまく言い表すことはできない、驚くべきことなのだ!
これだけは言っておこう、イスラームの信仰は彼の地に
あまねく広まるも、ただその形は仏陀なり、と
行ってみたまえ、純粋なイスラームを日本人にこそ見たまえ!
この背丈は小さくとも偉大な民族の子らは今
ムスリムの資質を備えるにおいて比類なし
そこに欠けるは唯一神への信仰のみ(中略)
イスラームはそこに栄えることだろう
ただオスマン人の努力あればこそ

アーキフは後に新生トルコ共和国の国歌の作詞者となる。この国民的な詩人の作品は、トルコにおける日本観の形成に大きな影響を与えたにちがいない。

 大旅行後のイブラヒムは、イスタンブルを拠点に汎イスラーム主義のジャーナリストとして活動するが、とりわけロシアのイスラーム政策に対する舌鋒は鋭かった。ときのロシア帝国首相ストルイピンは、イブラヒムの創刊した雑誌『ムスリムの親交』がロシア国内にもたらす危険を外相あての私信に記しているほどである。イブラヒムは、筆の人であるとともに行動の人であり、イタリアがオスマン領に侵攻してトルコ・イタリア戦争(1911-12年)が始まると、老骨ながら北アフリカの前線に赴いてジハード(聖戦)を応援した。このとき前線で知り合ったのが、青年トルコ革命の英雄として知られるエンヴェル・パシャ(後の陸軍大臣)であり、1912年イブラヒムはオスマン国籍を得ることができた。第一次世界大戦が始まると、ロシア領内の非ロシア系諸民族の代表らとロシア被抑圧諸民族連盟を結成して合衆国大統領ウィルソンに書簡を送る一方で、陸軍省特務機関の一員として、同盟国ドイツの捕虜となったロシア軍将兵の中からオスマン軍とともに戦うムスリム将兵を募る任務にもあたった。この工作によって編制された「アジア大隊」は、実際にメソポタミア戦線でイギリス軍と戦っている。

 オスマン帝国が連合国に降伏した後、イブラヒムの姿は1917年の革命後の内戦が続くロシアにあった。レーニン率いるソヴィエト政権と連携してロシア・ムスリムの自立とイスラーム世界の解放をめざす計画もあったのだろう。しかし、この構想は挫折し、極度の飢餓に襲われたムスリム地域の惨状を目にすることになる。彼はかつて預言者ムハンマドがマッカ(メッカ)で迫害を受けていたとき、信徒の安全をはかるために彼らを紅海対岸のエチオピアに送り、そこを治めるキリスト教徒の王の保護に委ねた故事を引きながら、西欧諸国に支援を求める文書を起草している。

 ソヴィエト・ロシアでの活動を断念したイブラヒムは、1923年末イスタンブルに帰還する。この間にオスマン帝国は崩壊し、代わって熾烈な独立戦争を勝ち抜いたトルコ共和国が生まれていた。ここでイブラヒムの立場は激変する。翌年カリフ制を廃止し、1928年には憲法から「トルコ国家の宗教はイスラーム教である」という条項も削除した政教分離の共和国に、彼のような汎イスラーム主義者の居場所はなかったからである。彼はアナトリア中部の村に蟄居することを余儀なくされる。そこにはかつて彼自身の呼びかけで西シベリアから移住してきたムスリムたちが住んでいた。それでもパレスチナやアラビア半島、さらには東トルキスタンの情勢が気になるイブラヒムは、エジプトやヒジャーズへの潜行を繰り返した。しかし、これはトルコ当局の疑念をよび、彼は憲兵の監視下に置かれることになる。こうして進退窮まったイブラヒムの招聘に動いたのが日本の参謀本部であった。アジアに広がるイスラーム世界の戦略的な重要性を認めた参謀本部にとって、イブラヒムは有用な人材であったにちがいない。彼は高齢にもかかわらず1933年10月単身で再来日するが、その2年後トルコ政府は彼の国籍を剥奪する。決定書には大統領アタテュルクの署名があった。

 老練の書き手イブラヒムは、東京でもイスラーム世界に日本を紹介するタタール語誌『新日本通報』に次々と論説を寄稿した。そのうちの一つ「アル・ジハード」(12号、1933年)と題する論説は「来るべき戦争においてムスリムは日本人と手を組んで戦うべき」という激烈なメッセージを伝えている。彼は、結果として第二次世界大戦に向かう日本の対イスラーム政策に協力することになるが、最後までムスリムとしての矜持を持っていたことは事実である。戦中に彼に焦点をあてたムスリム向けの宣撫映画『東京の回教徒』の制作にあたった青山光二は、戦後まもなくのエッセイでイブラヒムの印象をこう書いている。「私は翁の衰えぬ闘志と言った風な物よりもむしろ、翁の孤独を真直ぐに感じたのを覚えている。民族への愛情に生涯を焼き尽くして来た翁の、いわば一道に達した達人の孤独。気障な言い方をするなれば、英雄の孤独。鷲の孤独」と。ちなみに生前のイブラヒムに接した井筒俊彦や前嶋信次も興味深い回想を記している。

 1944年8月末に没したイブラヒムは、府中の多磨霊園に葬られた。以来、世俗主義を掲げたトルコ、社会主義と無神論の体制を築いたソ連、戦争に敗北した日本のいずれにおいても、彼は長く忘れられた存在となる。しかし、トルコにおける親イスラーム政党の躍進やソ連の解体などを背景として、1990年代以降イブラヒムに関する研究は大きく進展し、彼の活動の拠点となったトルコやタタルスタン(ロシア連邦内のヴォルガ・ウラル地域に位置)、さらには日本でも関心が高まるようになった。とりわけトルコでは、『イスラーム世界』の現代トルコ語版の刊行のほか、ドキュメンタリー映画の制作などによってイブラヒムの名前は広く知られるに至っている。しかし、彼の思想と活動のどこに注目し、どのように評価するかは、もちろん多様である。

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1.原書にはイブラヒムと「伊藤博文の幹部秘書たち」とある(『イスラーム世界』より)。

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2.1909年の来日時に日本のアジア主義者や軍関係者と語らって結成した「アジア義会」の誓約書。イブラヒムの筆によるアラビア文にはクルアーンの章句「契約は履行しなければいけない。契約では必ず(審判の日に)訊問されようぞ」(17-34、井筒俊彦訳)が記され、イブラヒムと並んで頭山満、河野廣中、犬養毅らの署名が見られる(若林半『回教世界と日本』大日社、1937年より)。

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3.トルコの雑誌に掲載された晩年のイブラヒム(1935年頃)の写真(永島育氏の提供による)

参考文献
小松久男『イブラヒム、日本への旅―ロシア・オスマン帝国・日本』刀水書房、2008年
アブデュルレシト・イブラヒム著、小松香織・小松久男訳『ジャポンヤ――イブラヒムの明治日本探訪記』岩波書店、2013年
小松久男「韃靼の志士―イスラーム世界と日本」『民族解放の夢』(アジア人物史 第10巻)集英社、2023年

書誌情報
小松久男 《人物評伝》「イブラヒムの軌跡をたどって」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TR.9.03(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/turkey/essay02/