アジア・マップ Vol.03 | トルコ
《人物評伝》
トルコ建国の父ケマル・アタテュルクの生涯と評価
中東において地域大国としての地位を確立している国、トルコ共和国。そのトルコ共和国の建国は1923年だから、まだ100年ほど前に生まれたすぎない。1922年にオスマン帝国が崩壊したのち、帝国軍人であったムスタファ・ケマルによって新たに誕生したのが、この国である。彼は、晩年にトルコ共和国の議会から贈られた姓である「アタテュルク(父なるトルコ人)」としても、よく知られている。救国の英雄、建国の父として、いまなおトルコで敬愛される存在である。トルコを訪れた人であれば、ここかしこに彼の肖像が飾られているのを目にするだろう。それでは、彼はいったいどのような生涯を送り、死後、どのような評価を受けたのだろうか。
帝国軍人として育つ
彼は、1881年頃、テッサロニキで生まれた。生まれた時の名を、ムスタファという。テッサロニキは、現在はギリシアに属する。10万人の人口のうち、ユダヤ教徒臣民が実に半数を超えるという、多宗教都市だった。たばこ産業で栄えたこの町は、外国人も多く、西洋への玄関口といえた。
ムスタファの両親は、中流のムスリムであった。下級の税官吏だった父は、開明的な性格であり、商売にも手を出しいっとき財を成した。このとき購入した瀟洒な邸宅は、「アタテュルクの生家」とされ、現在トルコ領事館付属の博物館として用いられている。しかし、父はまもなくして商売に失敗し、酒におぼれ早くに亡くなった。
残されたムスタファ少年は、立身出世を夢見て、テッサロニキの幼年学校に入学する。当時の青少年にとって、軍人は栄達のための開かれた道だったのだ。幼年学校で頭角を現した彼は、教師に「ケマル(完璧な、完全な)」というあだ名を与えられた。以降、彼はこの名を好んで用いるようになる。優秀な成績を収めた彼は、モナストゥルの予科士官学校、そして1898年、イスタンブルの陸軍士官学校へと進学した。
時代は、皇帝アブデュルハミト二世(位1876~1908)の専制期であった。彼は、憲法と議会を停止し、スパイ網を張り巡らせて言論を弾圧した君主として知られる。そのような中で、士官学校の学生たちは、立憲主義をはじめとした西洋思想を秘密裏に学び、憲法を復活される重要性を感じていた。ケマルも、そうした学生たちのうちの一人であった。しかし、学生たちの動きは当局に察知され、いっとき逮捕された。最終的には放免されることになるが、成績優秀であったケマルの出世に響くことになる。はたして、彼が卒業後に任命されたのは、エリートコースとはやや外れたシリアであった。
1905年、シリアに赴任した彼は、現地の治安維持の任務に携わりつつ、自由と立憲政をもともめる地下活動を開始した。さらに、一時的に故郷のテッサロニキに戻り、そこでも秘密結社を組織する。1907年、マケドニアに転属した彼は、しかし、みずからが設立した結社が、オスマン自由協会という組織に吸収されているのを知る。この組織は、すぐに統一進歩協会に組み込まれた。統一進歩協会とは、1880年末、専制の打倒と立憲政の復活を求めて組織されたグループである。激しい弾圧を受けた後は、国外に拠点を移して活動を続けていた。数ある秘密結社の中でも、もっとも力のある活動的な組織だといえる。統一進歩協会テッサロニキ支部のリーダーの一人は、ケマルとほぼ同年の青年士官エンヴェルであった。ケマルはやむなく、統一進歩協会に入会するものの、指導部とは距離を置いた。
1908年、アブデュルハミト二世が統一進歩協会を弾圧するという噂を契機としてエンヴェルら士官たちが蜂起する。高級将校たちもこれに呼応し、イスタンブルに進軍すると、皇帝の専制体制はあっけなく崩壊した。憲法と議会が復活し、第二次立憲政と呼ばれる時代が始まる。この事件を、「青年トルコ革命」という。新時代を画したこの革命に、ケマルは限られた役割しか果たすことができなかった。ケマルは革命後、軍務に専心することになる。
第一次世界大戦――ガリポリの英雄
1911年、イタリアが植民地の獲得を目指し、オスマン領のリビアに侵攻した。オスマン政府が正規軍の派遣に難色を示すと、エンヴェルやケマルをはじめとした若手士官たちが個別に現地に乗り込み、リビアの部族民を指揮してイタリア軍に抵抗した。しかし1912年、バルカン諸国がオスマン帝国に宣戦布告し、バルカン戦争が勃発すると、ケマルらは帰国を強いられ、リビアは失われた。バルカン戦争では、オスマン帝国軍は壊滅的な敗北を被り、バルカン領のほとんどを喪失する。このとき、エンヴェルら統一進歩協会は、クーデタをおこし、政権を奪取する。さらにエンヴェルは、いっときブルガリアに奪われた旧都エディルネを無血奪還し、英雄としての評価を確立した。
バルカン戦争終結後、ケマルはクーデタを批判してエンヴェルらと対立し、ソフィア大使付きの武官としてブルガリアに赴く。1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国はドイツ側に立って参戦した。急遽帰国したケマルは、ダーダネルス海峡を守る要所であるガリポリ半島の防衛の任務を命じられる。おりしも1915年、イギリスを中心とする連合国軍は、ダーダネルス海峡を突破しようと、ガリポリ半島攻略を開始した。ここでケマルは、現場の指揮官として獅子奮迅の活躍を見せ、連合国軍の侵攻を食い止める殊勲を挙げる。ケマルはこの功績でもって、のちにガリポリの英雄として称賛されることになる。
その後ケマルは、東アナトリア、そしてアラブ地域へと転戦、いずれも戦果を挙げる。しかし、戦局の大勢は、連合国側に傾いていた。1918年、増援を受けたイギリス軍がアラブ地域南方から北上を開始すると、オスマン軍は壊走した。そのなかにあって、ケマルは戦線を維持すべく奮迅するも、同年10月、オスマン政府は休戦協定に調印、オスマン帝国は敗北した。すぐあとにドイツらも降伏、第一次世界大戦は終結した。
国民闘争の指導者
敗戦後、エンヴェルら指導部は国外に亡命した。連合軍は、バルカンとアナトリア各地に進駐し、イスタンブルもその管理下に置かれた。イスタンブルに帰京したケマルは、独立を守るべく、オスマン政府内での地位獲得を目指す。このときの皇帝ヴァフデッティン(位1918~22)は、皇太子のとき、ケマルとともにドイツに外遊したことがある。ケマルは、このコネクションを生かそうとしたのである。しかし、この試みはなかなか実を結ばなかった。一方アナトリアでは、各地で抵抗運動が勃発していた。しかし、それぞれの抵抗は連携を欠いており、それらをまとめ上げるリーダーを必要としていた。彼らが白羽の矢を立てたのが、ガリポリの英雄、ケマルであった。
進駐軍に忠実なヴァヒデッティンは、ケマルをアナトリアに派遣し、抵抗運動を抑えようとした。ケマルはこれを、アナトリアでの抵抗運動に参加するチャンスとする。イスタンブルから海路、黒海を渡ってサムソンに到着(1919年5月19日)したケマルは、オスマン政府に表面上服従しながらも、各地に檄文をとばし、抵抗運動をまとめあげてゆく。ちょうどこの直前、イギリスに後押しされたギリシア王国軍が、西アナトリアの主要都市イズミルに上陸していた。この行為に、オスマン世論は沸騰し、抵抗運動はさらなる盛り上がりを見せた。
ケマルは、エルズルム、そしてスィヴァスで、各地の抵抗運動の指導者を集めた会議を開いた。そこでケマルはリーダーに選出される。皇帝と政府は激怒し、ケマルを軍職から罷免した。しかし、ケマルらの抵抗運動にたいして、オスマン政府や議会議員のすくなくない人びとがシンパシーを感じていたのは確かだった。抵抗運動に呼応するかたちで、1920年1月、イスタンブルのオスマン帝国議会において、独立と領土の堅持をうたった国民誓約が採択された。連合軍はこれを危機とみなし、イスタンブルを完全占領し、抵抗勢力を一網打尽に捕らえて国外に流刑にする。これにより、イスタンブルと強調して抵抗運動を進める望みは絶たれた。アンカラを本拠地としていたケマルたちは、そこに新しい政府を構え、ギリシア王国をはじめとした占領軍、そしてイスタンブルのオスマン政府に対峙した。
ギリシア王国との戦いは、苦しいものとなった。1920年8月には、オスマン政府と連合国とのあいだでセーヴル条約が調印されている。これは、アナトリアの大部分を戦勝国が分割するという、オスマン帝国にとってきわめて厳しい内容だった。そのような危機的な状況のなか、1921年7月、ギリシア王国軍が総攻撃を開始する。アナトリア西部がつぎつぎに占領され、アンカラに至近の距離まで迫った。アンカラの大国民議会より総司令官に任命され、軍に復帰したケマルは、サカリヤ川でギリシア軍を迎え撃つ(サカリヤ川の戦い)。8月から9月にかけての激戦で、辛くもアンカラ政府軍はギリシア王国軍を撃退した。ギリシア王国軍は壊走し、それ以上進攻する力を失う。アンカラ政府軍が体制を立て直し、進軍するのは翌年8月である。「大攻勢」と呼ばれるこの戦いの勝利で、ギリシア軍は最終的にアナトリアから放逐された。続いて、イスタンブル周辺を占拠していたイギリス軍も撤退する。諸外国も、アンカラ政府を次々と承認した。ケマルたちは、国民闘争に勝利したのである。
残された問題は、オスマン帝国政府と皇帝の処遇だった。徹底して親イギリスを貫いていた、政府と皇帝の威信は地に落ちていた。1922年11月1日、アンカラの大国民議会は君主制の廃止を決定する。ただし、オスマン皇帝が保持していたカリフ(預言者ムハンマドの代理人、スンナ派イスラーム教徒の指導者)の地位は廃止されず、新カリフとしてアブデュルメジトが選ばれた。皇帝ヴァフデッティンは亡命し、ここにオスマン帝国は滅亡した。
トルコ共和国の建国者
1923年7月、連合国とのあいだで、ローザンヌ条約が結ばれた。先だってのセーヴル条約は破棄され、現在のトルコ共和国とほぼ同じ領土が約された。10月29日には、共和国宣言が行われ、ここにトルコ共和国が成立した。初代大統領となったのは、ムスタファ・ケマルである。翌1924年には、カリフ制が廃止された。カリフ制については、存続を求める声が大きかったものの、世俗的な近代国家を目指したケマルは妥協しなかったのである。
こうして、トルコ共和国の体制がととのった。ただし、ケマルはここまで、無謬の権力を握っていたわけではなかった。国民闘争の頃より、ケマルは第一人者ではあったものの、彼をとりまく同志たちはケマルと同格といっていい存在であり、潜在的なライバルだった。そのため国民闘争の末期からは、来るべき新体制のリーダーシップをめぐる角逐が表面化していた。共和国建国後もそれはつづき、大国民議会では、ケマルに反対するグループが野党を結成し、ケマルを牽制した。
これにたいし、ケマルは断固たる措置で臨んだ。1925年に起こったクルド人の反乱を期に野党を閉鎖する。翌年、ケマルへの暗殺未遂事件が起こると、これにかかわったとして多数の政治的ライバルたちを逮捕し、その一部を処刑した。こうして、ケマルの権力基盤は盤石のものとなった。ケマル率いる共和人民党の一党独裁のもと、あらたな国づくりが進められていくのである。
そのさいケマルが柱としたのは、世俗主義とトルコ民族主義である。ケマルは、西洋的な世俗主義こそがトルコに必要だと考え、カリフ制の廃止につづき、イスラーム学院やイスラーム法廷を廃止した。生活習慣の面でも、トルコ帽の禁止など西欧化がすすめられる。そしてイスラーム教にかわって、国民統合の中心にすえたのが、トルコ民族主義である。なかでも、その歴史と言語が強調され、トルコ人は古代に大帝国を築き世界の諸文明の礎を築いたとする歴史、そしてトルコ語は世界中の諸言語の祖だという説が唱えられた。こうした説は、極端にショーヴィニスティックな主張であり、当時からその学問的な水準には疑問符が付けられていた。しかし、ケマリズム(ケマルの思想に基づく主義・方針)盛期とされる1930年代には、国民統合のため、学校教育においてこうした説が教授されたのである。
1934年、姓氏法の制定に伴い、トルコ大国民議会は、ケマルに「アタテュルク」の姓を送った。名実ともにトルコ国民の父となった彼は、1938年11月8日、肝硬変で死去した。享年57。
アタテュルクの評価
アタテュルクは、死後も建国の父として称賛され、トルコの国民統合のひとつの核となった。いまでも、アンカラのアタテュルク廟には参詣者が引きも切らず、アタテュルクの肖像はいたるところに飾られている。アタテュルクが、いまなお殆どの国民に敬愛されていることは疑いない。
しかし、アタテュルクが推し進めた世俗主義とトルコ民族主義は、あまりに性急だったためか、その後の揺り戻しも少なくない。ほとんどが素朴なムスリムであるトルコ国民にとって、イスラーム教的価値観の性急な制限はおおきな不満となった。そのため、1950年に複数政党制が導入されたのちには、しばしば親イスラーム政党が得票数をのばす結果となる。また、厳格なトルコ民族主義はマイノリティの存在を認めず、とくにクルド人に対する抑圧は、現在にまで至る遺恨を産んだ。
とくに1990年代からは親イスラーム政党の伸長が止まらず、2002年の公正発展党政権の誕生にいたる。以降、長期政権を築いた公正発展党は、2025年現在のトルコ共和国大統領であるエルドアンをリーダーとする。公正発展党政権は、当初は親イスラーム的な政策を慎重に控えていたが、徐々に権力を確立すると、しだいにこれを隠さなくなった。こうした政府の意向をくみとり、極端な世俗主義を推進した事績にたいし、メディア等で暗に批判が行われることもすくなくない。建国の父の評価は、現在問い直されているといえるだろう。
(写真は全て筆者撮影)
書誌情報
小笠原弘幸《人物評伝》「トルコ建国の父ケマル・アタテュルクの生涯と評価」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TR.9.01(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/turkey/essay03/