アジア・マップ Vol.03 | ウズベキスタン
《エッセイ》
ウズベキスタンのイスラーム建築
現在のウズベキスタンは、アラル海に注ぐアムダリア川(オクサス川)とシルダリア川の間の地域を占める。アムダリア川以東の地域は歴史的に、トゥーラーンあるいはトランス・オクシアナ(オクサス川の向こう、アラビア語でマー・ワラー・アンナフル)と呼ばれ、その一部には現在のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタンも含む。一方、イラン、アフガニスタン、トゥルクメニスタンの接する地域一帯はホラサーンと呼ばれ区別される。トゥーラーンとホラサーンには、ペルシアの建築文化とほぼ同質の建築文化が広がっている。ここでは現在のウズベキスタンを中心に、より広いトゥーラーンに目をむけ、時には南西のホラサーンや中国の新疆を含めてその歴史を概観してみたい。
ペルシアとの同一性は、風土の類似の他に、イスラーム以前にこの地域がサーサーン朝の支配下に置かれていたことも一因となる。イスラーム支配は8世紀中頃以後で、仏教徒であった有力家系がイスラームに改宗し、アッバース朝の統治に組み込まれていく。サーマーン家もその一つである。
1.イスラームの受容とトゥーラーンの伝統:西暦900年から1000年
現存モニュメントでは、ブハーラのサーマーン廟(図1)が名高い。四角い部屋にドームを載せた墓建築(キャノピー墓)で、イスラーム圏にほぼ共通する墓形式の最も古い現存例とされる。ドーム自体はサーサーン朝の伝統で、サーマーン廟ではその移行部にムカルナス(鍾乳石飾り)の初歩的形態が用いられる(図2)。焼成レンガを籠状のパターンで模様積みし、外観の上部ドーム周りに廊が回る。この形は、ゾロアスター教徒の骨容器オスアリ(鳥葬後の遺骨を保存)の共通性も説かれ、土着要素の混入を物語る。同様な墓建築のアラブ・アター廟(図3)では、前者が四面のファサードが等価だったのに対し、後者では入口部分を立ち上げて強調し(ピシュターク)、この技法はその後も特筆すべきトゥーラーン建築の特徴となる。また、サマルカンドの前身都市アフラシアーブには、3重の市壁で囲まれた都市の状況が残り、これもこの地域の伝統である。モスクの遺構は古い時代には数少ないが、サマルカンド近くにあるハザラには小規模な中庭のないモスク(図4)があり、中央のドームの周りに五の目状にドームを配する。同様なプランで太い円形ピアで間口3間奥行3間として九つのドームを冠するモスクがアフガニスタンのバルフにある。
2.ペルシア建築文化復興からの伝播:西暦1000年から1250年
11世紀になると現存遺構も多くなり、ペルシア建築文化復興の影響を受ける。草原地域にいた遊牧トルコ(テュルク)族が、トゥーラーンからホラサーンを越え、ペルシア地域へと入り、それぞれの政権の支配を強化する過程で生じた現象である。トゥーラーンとホラサーンを合わせた地域において、東部はウズゲンを首都としたカラ・ハーン朝、南部はガズナを首都とするガズナ朝、西部は大セルジューク朝が支配した。大セルジューク朝は副都性をとり、バグダードのアッバース朝を傀儡化したのちにも、イスファハーン、ホラサーン地方のニーシャープールとメルブにも拠点を置いた。「イランのイスラーム建築」でセルジューク時代の新潮流を述べたが、トゥーラーンとホラサーンもその影響を受け、特に墓建築と煙突型ミナレット(礼拝のための呼びかけの塔)の特異な進展が明らかである。
セルジューク朝のスルターンを葬ったメルブのサンジャール廟(図5)では、コンセプトは前時代のサーマーン廟と同様ながら、直径約2倍のドームを冠する大建築となる。またアム・ダリアのアラル海側に広がるコニヤ・ウルゲンチはホラズム・シャー朝の首都となり矩形平面に錘状屋根を載せた正面性を強調する墓建築(図6)が残り、カラハーン朝のウズゲンにはカラハーン朝の3つのスルターンの墓建築(図7)を接して建設した例がある。墓建築において、入口側のファサードが強調されイーワーンのようにピシュタークとして立ち上がる例が多く、レンガの紋様積みや異形レンガで飾られる。またキャノピー墓の外観にはドームの代わりに錘状屋根が使われることが多い。ミナレットも数多く、ガズナの2本のミナレットは断面形が星形(12世紀初頭、アフガニスタン)と特殊で、ブハーラのカリヤン・ミナレット(図8)はペルシアには例のないほど太く、またアフガニスタンのジャームの塔(1190年)は65mという高さを誇る。
3.タイル文化への傾倒:西暦1250年から1380年
モンゴルの侵入後、この地域はモンゴル系のチャガタイ・ハン朝の支配下に置かれるが現存する実例数は少ない。サマルカンド北東郊外のシャーヒ・ズィンダは、7世紀のイスラーム拡張の際の殉教者クサム・イブン・アッバースを祀った廟を最奥に、アフラシアーブの丘を登る形で12世紀以来営まれたてきた。現存建築(発掘遺構を除く)としてはこの時代に属するホジャ・アフマド廟(図9)が最も古く、シャーヒ・ズィンダで中心となるのは次のティムール朝の建築群である。ホジャ・アフマド廟と、新疆ウィグルのイーニンにあるトゥグルク・ティムール廟 (図10)とはほぼ同様な様式で、ファサードをトルコ・ブルー、青、白の異形彫刻タイルで飾る。同質の中国的な影響をみせる新技法が、サマルカンドと新疆両者にある点に注目したい。
コニヤ・ウルゲンチのトゥラベク・ハーヌム廟(1370年)は前室と後室(墓室)を備えた廟で、中央の6角形の部屋の内側ドームはペルシア風のモザイク・タイルで覆われる(図11)。内側ドームとドラム部分は残るが、外側にはドームあるいは錘状の屋根の二説がある(図12)。この例は、次の時代に発展することとなる内側と外側が大きく乖離した二重殻ドームの関係を示唆するとともに、ペルシアのモザイク・タイル文化との共通性を語る。
4.帝国建築文化の中枢:西暦1380年から1500年
この地域での建築文化の絶頂期はティムール朝期にあると言って過言ではないだろう。ティムールは14世紀後半には生まれ故郷シャハリ・サブズを本拠地としたが、交通の便等からサマルカンドに1370年に首都を設置し、そこにはいくつかの帝都の大建築が残る。
妃の名を冠したビビ・ハーヌム・モスクは巨大なモスクで、セルジューク朝のペルシア建築で考案された4イーワーン形式が用いられる。新機軸は、キブラ側のイーワーンの背後だけでなく、そこと直交する副軸上のイーワーンの背後にも礼拝室を備え、それぞれが高いドラムの上にドームを載せるダブル・ドームの形式を採用した点にある(図13)。
先述したシャーヒ・ズィンダも整備され、参道両脇にティムールに関連する女性たちの墓建築が立ち並ぶ(図14)。一方、ティムール自身は、当初故郷シャハリ・サブズに自廟を予定していたが、サマルカンドに墓建築、マドラサ、ハーンカーからなる複合建築グル・イ・ミールをたて、ティムールだけでなく男性の係累はそこに葬られる(図15)。その後、15世紀後半に女性は南郊外のイシュラット・ハーネに、男性たちはグル・イ・ミールの南側にあるアク・サライに葬られる。両者ともに玄室の上部にある中央ドームの周囲に複数の部屋からなる墓建築で、王家の墓制を考えることのできる貴重な遺構である。
他にもサマルカンドには、ウルグ・ベクの天文台やマドラサも現存する。ウルグ・ベクのマドラサが向かい合うレギスタン広場は、他の2つは次のシャイバーン朝の建築に置き換わってしまったが、コの字型の配置の祖型はティムール朝にさかのぼる(図16)。建物の外観を重視し、建物で囲まれた公共空間を作るという手法は、トゥーラーン地方の特色である。
一方、ティムールの故郷シャハリ・サブズには、同じくアクサライと呼ばれる巨大な宮殿趾(図17)や、ティムールの父と師の廟を中心とする複合体(ダール・ティラーヴァ)、息子を葬った複合建築ダール・サーダート(図18)の2つのコンプレックスがあり、サマルカンドの遺構を考える上で参考になる。
同朝の遺構として忘れていけないのは、トルケスタンにあるアフマド・ヤサヴィー廟(図19)である。彼は12世紀の神秘主義の聖者で、遊牧トルコ(テュルク)の信仰を集めていたため、ティムールは彼らを纏めるために、彼の墓所を中核とする新たな建築を作った。巨大な矩形の建築で、軸線中央の入口イーワーンに続いて大前室(ジャマアット・ハーナ、図20)があり、その奥に墓室が続き、両脇にはさまざまな機能の部屋が取り付けられている。
ティムール朝においては、世俗権力者と聖者を葬った廟の平面形式の差異が大きく現れるようになり、前者は墓室を中心に次第に対称に平面を整え、インドのタージ・マハルに繋がっていく。一方後者は、墓室は最奥に置かれることが多く、その前に神秘主義教団員の儀礼に対応する空間を備えるようになる。
なお、ティムール朝の建築を捉えるには、今は姿を留めないサマルカンドやヘラートの郊外の庭園、あるいは15世紀のヘラートの建築が重要である。ペルシア建築文化を基本としながらも、墓建築平面の進展、それぞれの建築類型の標準化、躯体と装飾面の乖離、矩形レンガと矩形タイルを用いた壁面装飾のパターン化(ハザール・バフとも呼ばれる)などは数多くの建築を短い期間で建てるための工夫であった。加えてダブル・ドームの工法、井桁状の交差アーチなど、サファヴィー朝やムガル朝に与えた影響など評価すべき点も多い。
5.各都市におけるトゥラーン的性格の深化:西暦1500年から1850年
15世紀後半にはティムール朝はヘラート政権とサマルカンド政権が両立し、トゥラーンではウズベク族のシャイバーン朝、カザフ・ハン国など混乱状況に陥る。16世紀に入り、サマルカンドでティムール朝の後継者となったのはシャイバーン朝であったが、16世紀半ばには首都をブハーラに移す。群雄割拠した16世紀以後のトゥーラーンについては、モニュメントの集積するそれぞれの都市を単位として建築文化として捉えることが適当である。全般にはペルシア建築文化を基本に、中央アジアの建築の正面性をより誇張した。サマルカンドのレギスタン広場、ブハーラのティムール朝のカリヤン・モスクと向かい合うミール・アラブ・マドラサなど、建築の集合によって出来上がる小広場空間に焦点を当てた(図21)。内装においてはクンダルという金箔を使った装飾が好まれた(図22)。また鳳凰やライオン、目鼻を描いた太陽など具象的なモザイク・タイルをファサードに使うことは、特殊である。イスラームでは具象的な図像は、特に宗教建築では忌避されてきた(図23)。加えて、木柱を使って吹き放しの空間を作り、木柱を並べて礼拝室にするボロ・ハウズ・モスク(1712年)などもある。ヒバ・ハン国のヒバのイチャン・カラーには18世紀後半以後の建物の集積が大きい(図24)。コーカンド・ハン国には18世紀の王宮が残る。
10世紀から19世紀半ばまでを5つの時期に分けて、その潮流を述べた。トゥーラーン地方は、ペルシア建築文化の影響下におかれていたが、そこには正面性の強調、高さへの固執、ペルシアとは異なる装飾への好みなど、土地に根ざした特色が、最初の時代から観察できた。ティムール帝国建築は、その賜物であり、その後も独自の深化を遂げる。なお、19世紀半ば過ぎには、トゥーラーン一帯は、ロシア帝国の支配下に置かれ、西洋風の建物が建てられ、近代的な都市計画がなされることとなった。ソヴィエト政権の元ではイスラーム教は弾圧されていたが、それぞれの20世紀後半の共和国の独立と共に、イスラームが復興し、新しいモスク等の建設も盛んになる。
書誌情報
深見奈緒子 《エッセイ》「ウズベキスタンのイスラーム建築」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, UZ.7.01(2025年5月7日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/uzbekistan/essay01/