アジア・マップ Vol.03 | ウズベキスタン

《人物評伝》
「ファイズッラ・ホジャエフ—「ウズベクのレーニン」の苦悩と選択」

 
帯谷知可(京都大学東南アジア地域研究研究所 教授)

 ソ連でスターリンの大テロルの嵐が吹き荒れていた1938年3月、「右翼トロツキスト陰謀事件」に関与した罪でN. I. ブハーリン(1888-1938)を裁くことを主眼とする「21人裁判」または第3回モスクワ裁判(いわゆる見世物裁判)において、被告となった「祖国の裏切り者」の中に、ソ連を構成する民族共和国のひとつウズベク・ソヴィエト社会主義共和国(以下、ウズベク共和国。現在のウズベキスタンの前身)の政治家が含まれていた。そのうちの一人はファイズッラ・ホジャエフ(1896-1938)、その前年までウズベク共和国の創設以来ずっと人民委員会議議長(政府首班)の要職にあった人物である。ロシア革命期よりソヴィエト政権に協力して中央アジアの変革に尽力し、「ウズベクのレーニン」とも呼ばれたホジャエフは、外国政府と通じてソ連の破壊と資本主義・ブルジョワジー権力の復活を企図したとの重大反逆罪により銃殺刑を宣告され、モスクワで粛清の露と消えた。享年41歳。ここに至るまでに彼はどのような人生を歩んだのだろうか。

ブハラ大商人の跡継ぎから革命家へ
 ファイズッラ・ホジャエフは、古来東西交易の要衝の地にして中央アジアのイスラームの中心でもあった都市ブハラの商人の家に生まれた。一説にはサイイド(預言者ムハンマドの子孫)の家系であるという。当時のブハラは、ロシア帝国の保護国となっていたウズベク系王朝ブハラ・アミール国の首都であり、父ウバイドゥッラ・ホジャエフは中央アジア名産の高級毛皮アストラハン(カラクル種の子羊または胎仔の毛皮)などを商い、モスクワに商館を構えるほど大規模に事業を展開する大商人だった。有名なブハラのマドラサ(イスラーム高等学院)に学んだが、やがて1907年からモスクワに遊学、家業を継承すべくロシア人教師による英才教育を受けると同時に、1905年第一次革命後のロシアの変革の気運をも経験し、多感な十代の一時期を過ごした。1912年、父親の急逝によりブハラへ帰還すると、中央アジアの知識人らが展開していた啓蒙的な社会改革運動「ジャディード運動」に1913年から深く関わるようになった。1916年以降、そうした活動はより政治的な目標を持つ青年ブハラ人運動へと展開し、ブハラきってのロシア通として知られたホジャエフは青年ブハラ党、後には青年ブハラ人革命家党のリーダーの一人となった。

 彼らが何よりもまず目指したのは、いかなる改革も拒む旧態依然のブハラ・アミール体制の打倒だった。1917年のロシア革命の波が中央アジアに押し寄せてもなおアミール体制は強固であり、ブハラ・アミール国は1920年まで存続した。この時、ソヴィエト政権と赤軍をブハラに呼び込む形でアミールを放逐した、ブハラでの革命の立役者の一人がホジャエフだった。新たに樹立されたブハラ人民ソヴィエト共和国(以下、ブハラ共和国)でホジャエフは人民委員会議議長として政府を率いることとなった。

ウズベク政治の中枢へ
 やがて中央アジアにもソ連の民族政策を反映させ、かつ適正な規模での統治効率を勘案した行政区分の再編が必要とされ、1924年に中央アジア民族・共和国境界画定が実施されることとなった。一足早く成立していたカザフ(当時の呼称ではキルギズ)自治ソヴィエト共和国に加えて、中央アジア南部のトルキスタン自治ソヴィエト共和国(以下、トルキスタン共和国)、ブハラ共和国、ホラズム人民ソヴィエト共和国の領域を再編し、ソ連の構成単位となる、民族名を冠した共和国の創設が目指された。

 ホジャエフは中央アジア側での具体的検討にブハラ共和国を代表して参画、かつ原案作成のための民族別小委員会としてはウズベク小委員会に属し、そこではカザフ小委員会が主張した中央アジア連邦構想に対して、民族別共和国設置構想およびウズベク共和国の創設を推進するのに中心的な役割を果たした。その背景には、中央アジアに定住民主体の強固な共和国(まさにウズベク共和国がこれに相当する)を設置したいというモスクワの強い意向もあった。結果として、中央アジア連邦構想は退けられ、中央アジア全体の連携なしに個別の民族共和国が設置されることになった。ホジャエフはブハラから新生ウズベク共和国の首都サマルカンド(当時)に移り、ここでも人民委員会議議長に就任したのだった。

ホジャエフの苦悩
 ホジャエフは、一見するとソヴィエト体制のもとで揺るぎなく、迷いなく政治家として王道を歩んだように見える。雄弁で、活力に溢れ、民衆から愛されていたという。しかし、ホジャエフは絶え間なく内なるジレンマと闘わねばならなかったようである。

 ホジャエフをはじめとするブハラのジャディードたちは、ロシア革命政権が中央アジアを抑圧から解放し、自由と自治を保証してくれることを期待していた。しかしその期待は早々にうち砕かれた。ロシア革命の理念を受けてジャディードを含む現地知識人らが1918年に樹立した「トルキスタン自治政府」が「ブルジョワ民族主義」との烙印を押されて武力で粉砕されてしまい、夥しい犠牲者が出たのである。ホジャエフらは、トルキスタンの自治を目指した朋友たちの無念に蓋をしてまで、ソヴィエト政権の力を借りてブハラ・アミール体制の打倒を目指すべきなのか、つまりトルキスタンの自治とブハラの変革のどちらを優先するのかという問題に突き当たった。1920~21年にブハラでホジャエフと密会した、バシキール人の民族運動指導者にしてテュルク系諸民族の統合を目指す地下活動に従事したザキ・ヴァリドフ(1890-1970、後のトルコ名ゼキ・ヴェリディ・トガン)は、「ホジャエフは思い違いをしていたことを悟り、ひどい良心の呵責に苛まれていた。彼は多くの同志たちを破滅させてしまった」と回想の中で書いている。

 中央アジア民族・共和国境界画定の前夜、ホジャエフらブハラ共和国の指導部は、当初明らかにブハラ共和国はブハラ共和国としてソ連に加盟すべきだと考えていた。しかし、1923年6月には、スターリンはブハラ政府にはソヴィエト的なものが一切ないとの認識を示し、ブハラがソ連邦内の政治的な単位としては生き残れそうもないことが明白になった。そのような状況下、ブハラという歴史的都市に根差した伝統的なブハラ人アイデンティティと、新たに創出すべき「民族」としてのウズベク人アイデンティティを秤にかけざるをえなくなったことであろう。ホジャエフは後者の推進者となる道を選び、ソヴィエト体制のもとでは「民族」であらねばならない、そして民族的には我々は「ウズベク人」なのだと各地で説いて回ったという。

 ウズベク共和国の時代になると、ホジャエフはウズベク共和国の現実やその住民にとっての利益と、モスクワからの急進的な指令や要求の間でしばしば板挟みとなった。例えば、1925年には農業集団化の前提としての土地・水利改革などに反対を唱えた共和国共産党の「18人組」に連座し、後に党内での自己批判を余儀なくされている。また、綿花モノカルチャーにも反対し、綿加工業の必要性を唱えた。こうして1920年代後半頃からホジャエフの立場は必ずしも盤石ではなくなり、その影響力は徐々に削がれていったという。1920年代末からの「社会主義の全面攻勢」の時期になると、ウズベク共和国におけるスターリンの諸政策への反発やその実現が不十分である状況は、連邦中央の責任を転嫁できるスケープゴートを求めるかのように、ウズベク共産党指導部の不首尾や裏切り行為に由来するとみなされて粛清の対象となり、モスクワからの弾圧と共和国共産党内の下からの告発が強まった。1937年6月の共和国共産党大会では、地下組織に関わっていたとされるホジャエフの弟の自殺をめぐる批判もあって、ついにホジャエフが共和国共産党中央委員会メンバーに選出されないという事態に至った。

大テロルの渦中で
 スターリンは急遽モスクワにやって来たホジャエフからの面会希望を拒絶しつつ、ウズベク共和国指導部と連絡を取り、最終的にホジャエフの処遇を決定したという。1937年7月ホジャエフはすべての役職を解任され、タシュケントで逮捕された。皮肉なことに、ホジャエフに関してスターリンと連絡を取り続けていたウズベク共和国共産党第一書記アクマル・イクラモフ(1898-1938)もやがて逮捕され、「21人裁判」の被告となった。1937~38年、ウズベク共和国では共和国共産党指導部のほとんどが逮捕されるという異例の事態に陥った。

 件の裁判では、ホジャエフもブハーリン以下の大半の被告同様、自分の罪を「自白」した。いわく、その反ソヴィエト活動には3つの段階、すなわち1920年のブハラ共和国でのブルジョワ民族主義組織「ミッリー・イッティハド(民族連合)」への関与、1928年からのウズベク共和国でのイクラモフとの結託による反ソヴィエト活動の組織、1930年からのA. I. ルィコフ(1881-1938、21人裁判被告)との接触に始まる右翼トロツキスト・グループとの結びつきがあったというのである。1938年3月11日の連邦検事A. Ia. ヴィシンスキーの論告では、ホジャエフはイクラモフと共に英国のスパイとの連絡に当たったとされ、「わが祖国を敵に売った裏切者、スパイを野良犬の如く銃殺せよ!」と名指された中に含まれていた。裁判の結審は3月13日、その2日後の3月15日、刑は執行された。

 ホジャエフが残した、おそらく最後のものであろう言葉は、次のようなものである。  「私は生きたいのです。自分の転落の深みのすべてを理解し、私が犯した犯罪の重大さを理解したからこそ生きたいのです。私の人生の残りの部分によって、私の咎である犯罪と巨大な罪のほんの一部なりとも払拭することができるかもしれないがゆえに、私は命を乞うのです。」(裁判における被告個々の最終弁論より、1938年3月13日)

 「70歳の母と8人の幼い子供たちの困難な状況にご配慮をお願いします。今一度、切に恩赦をお願いします。私に命を永らえさせてください。」(ソ連最高会議幹部会への恩赦請願書より、1938年3月13日付)

ホジャエフの真実はどこに?
 21人裁判の中心人物ブハーリンは、裁判記録に残されている「自白」とは別に、自らの潔白を主張する遺書を妻アンナ・ラーリナ(1914-1996)に暗記させていたことが知られている。彼女がそれをようやく書き起こしたのはスターリン批判の後のことであり、ブハーリンの名誉回復はそこからさらに30年以上を経た1988年に実現した。ソ連最高裁判所はブハーリン裁判における犯罪要件の欠如を確認し、その判決を取り消した。

 ホジャエフの名誉回復はすでに1967年に行われており、ロシア語でもウズベク語でも著作集が刊行されるなどしたが、それでもホジャエフの生涯のすべてが詳らかにされたわけではなかった。1980年代後半以降のペレストロイカ、そしてソ連解体後の歴史の見直しの流れの中では、ウズベキスタンではソ連体制全般に対する否定的な見方が主流となり、ホジャエフに対する(再)評価はもっぱらスターリンの大テロルの犠牲となった悲劇のジャディード運動指導者の一人というような位置づけとなり、また別のオブラートで包まれたような印象を受ける。ホジャエフの活動の表と裏を立体的に見通すのはとても難しい。ブハーリン裁判記録の中のホジャエフの「自白」はどこまでが強制された虚偽なのだろうか。あるいは、ホジャエフが切り捨てたかに見える、シャリーア(イスラーム法)の遵守、テュルクあるいはトルキスタンの統合といった問題は、実のところどの程度の重みを持ったのだろうか。ホジャエフの真実はどこにあったのか、まだ探り当てられていないような気がしてならない。

【参考文献】
 帯谷知可 1999 「ファイズッラ・ホジャエフとその時代」『岩波講座世界歴史23―アジアとヨーロッパ 1900年代-20年代』岩波書店、207-230頁。
須田将 2012 「スターリンの大テロルとウズベキスタン共産党」『中央ユーラシア研究を拓く―北海道中央ユーラシア研究会第100回記念』(スラブ・ユーラシア研究報告集5)、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター、172-193頁。
ソ連邦司法人民委員部、トロツキー 2018 『ブハーリン裁判』鈴木英夫訳、風塵社。
山内昌之 1999 『納得しなかった男―エンヴェル・パシャ中東から中央アジアへ』岩波書店。
ラーリナ、アンナ 1990 『夫ブハーリンの想い出(上)(下)』和田あき子訳、岩波書店。
Obiya, Chika 2001 “When Fayzulla Khodzhaev Decided to Be an Uzbek,” in S. A. Dudoignon and H. Komatsu, eds., Islam in Politics in Russia and Central Asia (Early Eighteenth to Late Twentieth Centuries), London/New York/Bahrain: Kegan Paul, pp. 99-118.
Stenogramma bukharinskogo protsessa. [n.d.] Stalin: Revoliutsioner, vozhd’, chelovek. Sait o zhizni i deiatel’nosti I. V. Stalina. (https://stalinism.ru/dokumentyi/stenogramma-buharinskogo-protsessa.html?showall=1&limitstart=)

図7 写真1: ファイズッラ・ホジャエフ像(ブハラ市、1999年筆者撮影)
図8 写真2: ファイズッラ・ホジャエフの生家。博物館として公開されているが、撮影当時はホジャエフの名は強調されず、入口脇の掲示には「19世紀~20世紀初頭ブハラ豪商の家」とあった。(ブハラ市、1999年筆者撮影。2023年に大規模改修が行われている。装飾の美しい内部については、小松久男「日本におけるウズベキスタン研究」『アジア・マップ』Vol. 2に写真が掲載されている。)
図9 写真3: 弾圧犠牲者記念館の「女性に対する弾圧の事例」セクションに展示されたファイズッラ・ホジャエフ一家の写真(向かって左から母ライホン、妻マリカ、ホジャエフ、娘ヴィロヤト、妹ロビア)。展示解説によれば、ホジャエフの母、義母、第一夫人マリカ、第二夫人ファティナ・ペトロヴァ、娘、妹、さらにホジャエフの弟の第一・第二夫人などの親族が5年ないし8年の禁固刑に処せられた。(タシュケント市、2018年筆者撮影)

書誌情報
帯谷知可 《人物評伝》「ファイズッラ・ホジャエフ—「ウズベクのレーニン」の苦悩と選択」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, UZ.9.03(2025年00月00日掲載) 
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/uzbekistan/essay02/