アジア・マップ Vol.03 | ベトナム
《総説》
ベトナムの文化遺産と観光
はじめに
ベトナムは、長い歴史と多様な民族文化を背景に、豊富な文化遺産を有する国である。各地に中国やフランス等の影響を受けた多様な建築、自国の農村の生活文化等が色濃く残されており、文化的なアイデンティティを持つだけでなく、観光資源としても高く評価されている。ベトナムの文化遺産保全と観光への取り組みについて、筆者が携わった中部ホイアン旧市街地の例も交えて紹介していきたい。
文化遺産保護のはじまりと現在
ベトナムにおける文化遺産の保護は、植民地時代のフランスによる文化財調査に起源を持つ。20世紀初頭、フランス極東学院がカンボジア国アンコール遺跡やベトナム国内の古建築の調査・記録を始めたことが、文化財への関心の端緒であったとされている。
実際の文化遺産保護にかかる施策は、1945年のベトナム民主共和国の独立宣言以降となる。フランス極東学院を継承する組織として設立された東洋研究所がベトナムの史跡保存に責務を担うことを定めた「東洋研究所の責務と規定」(1945年11月23日)が、国家主席令として発令され、当時の戦火の状況から文化遺産を護るための政策が取られた。これにちなみ、11月23日は、2005年に「ベトナム文化遺産の日」と定められ、以降、各地で文化遺産と関連がある記念事業が行われている。
1976年に南北ベトナムが統一され、現在のベトナム社会主義共和国が誕生した。文化財保護に関する動きが体系化されたのは、1984年「歴史文化遺跡(遺物)と名称旧跡の保護と利用に関する法令」が発布されたことによる。この法令により、歴史的、科学的、芸術的価値、歴史的事象、社会的発展に関する価値をもつ建造物、場所、資料、景勝名跡等が、国家文化財の対象となり、指定や保護が開始された。
1990年代に入ると、同法令で指定された国家文化財の中から選定が行われ、ユネスコ世界遺産として、フエ建造物群(1993年)、ハロン湾(1994年)、ホイアン旧市街とミソン遺跡(1999年)が登録された。
現在に至る文化遺産保護の法的基盤として、2001年に「ベトナム文化遺産法」が制定され、有形・無形・埋蔵文化財を含めた国家の文化資産を対象に、保護・調査・公開・活用の制度的枠組みが整備された。この法律は2009年、2013年、2024年に改正され、ユネスコとの連携を前提とした世界遺産登録推進や、地方政府の役割強化などが盛り込まれた。文化財は「国家特別文化財」、「国家文化財」、「省級文化財」に分類され、ユニークな点として、国を建て、国を守る過程での代表的な歴史的事件、民俗的英雄、革命や抗戦と結ついた場所や建造物等も含まれている点があげられる。例えば、国家特別文化財として、ホーチミン元国家主席の生家がある「キムリエン村におけるホーチミン記念館史跡(ゲアン省)」や、晩年の執務をこなした「主席官邸におけるホーチミン記念館史跡(ハノイ市)」等が指定されている。
観光政策の歴史的経緯
ベトナムの観光政策をみてみると、1945年(ベトナム民主共和国の独立宣言)以前は、植民地時代の影響を受け、フランス政府などが、避暑地として中部高原ダラットや北部サパなどの高原地帯に別荘地を開発した。転地療用として、病気療養や静養のために使われていた。ダラットやサパは、現在でも高原、山岳の観光地として人気が高い。
1976年(南北ベトナム統一)以降、1978年に政府機関として「ベトナム観光総局」が設立され、傘下に国営の旅行会社、ホテル等が作られた。当時は、海外の共産党や社会主義国からの要人の受入れ等が主であったとされている。
1990年に中央省庁に「文化スポーツ観光省」が設立され、ベトナム観光総局はその傘下機関として位置づけられることとなる。同年に、外国人の個人旅行客の入国を解禁する政令が発令され、海外からの自由な旅行が制度的に許可された。しかし、当時のベトナムは戦火からの復興の真っただ中であり、外国人の受入れや地方への訪問には慎重であった。
1990年年代後半から2000年代にかけては、外国人観光客の受入れも盛んになり、外貨の獲得が可能であることから、政府は「観光は重要な経済産業である」と政策上の位置づけがされることとなる。1999年にベトナム観光総局が文化遺産観光を軸とした戦略を発表し、世界遺産登録を契機とした観光地の整備が加速された。フエ、ホイアン、ミソンは中部地域の文化遺産はその象徴となった。
2010年以降は、ベトナム観光開発戦略に持続的な観光や観光の経済効果等が強調され、その政策の効果もあり、世界遺産やビーチリゾート等の主要な観光地だけでなく、山岳地域や農村地域のコミュニティや少数民族を対象とした観光も新たな柱となっている。
人が住む文化遺産と観光:ホイアン旧市街地の例
中部に位置するホイアン旧市街地(写真1,2)は、16~18世紀にかけて日本、中国、オランダ、ポルトガルなどとの交易で栄えた港町であり、町には中国会館、日本人町の遺構、フランス植民地時代の建築が存在している。1985年に国家文化財として指定され、1999年に世界遺産登録を果たし、現在では、年間400万人(2024年推計)の観光客を受け入れ、ベトナムで最も人気の観光地のひとつとなっている。なお、前述の文化遺産保存と観光を巡る歴史的な展開と照らし合わせると、ホイアン旧市街地はその政策を一地域で展開してきた例でもある。
1976年の南北統一以降、戦後の貧困や食糧難等を理由に多くのベトナム人が難民として海外脱出をし、また1979年の中越戦争によりホイアンの華僑が建物を手放して帰国するなどの影響で、多くの建物が空き家となり、町並みの荒廃が進んだ。ホイアン政府は、これらの空き家を国有財産として、保護、管理を始めた。
町並み保存が本格的に開始されるのは、1985年のホイアン旧市街地の国家文化財指定以降となる。旧市街地を保存地区、周囲を緩衝地区として定め、建物群を4つの等級に分類し、特に歴史的価値が高い建物は、単体としても文化財の指定対象となった。また、国家文化財の管理を行う専門機関が設置され、スタッフが配置された。しかし、修復等の予算が十分に確保されなかった。
この状況下で、ホイアン政府は、中央政府や省政府と協力し、「国際商業港ホイアン・国際シンポジウム」を開催し、ホイアンの町並み保存への国際支援を求める文書「Appeal」をまとめた。この呼びかけに、木造建築物の修復や町並み保存に実績があった日本の文化庁と昭和女子大学を核とした大学チームが協力し、ホイアンへの国際協力活動が開始された。専門人材の派遣による修復技術移転、民間や政府予算による事業費の支援も行われた。
ホイアン側の措置として、町並み保存の予算を捻出するために、1995年に観光チケットシステムを改定し、来訪者からのチケット収益を、町並み保存や文化活動、管理やコントロールをするための費用に充てる仕組みを作り出した。政府が管理していた空き家は、これを原資として店舗付き住宅や博物館等に修復された。現在に至っても、チケット収益は大きな財源となり、町並み保存と観光事業が進められている
このような政策、技術、予算、組織(人員)などの体制が整い始め、ホイアン旧市街地の町並み保存は、1990年代後半から飛躍的に進むことになる。JICA(国際協力機構)による専門家派遣なども行われ、町並み保存の人材育成や体制整備が、国際支援のもとで進んだ。筆者自身も、2003年~2005年まで、JICA青年海外協力隊員として、ホイアン文化遺産保存センターで、町並みの保全、家屋の修復事業等に従事した(写真3)。
2003年以降は、ホイアンと歴史的にゆかりがある日本の自治体等が集まる「ホイアン祭」が毎年夏に開催されるなど、文化交流や観光振興が継続的に行われている(写真4)。
現在では、国内外からホイアンの町並みを楽しむ観光客が多数訪れ、地域に雇用が生まれ、経済が潤っている。一方、オーバーツーリズムを伴う問題も生じ、観光客の集中による環境の悪化や交通問題なども生じている。文化遺産としての保存と、観光振興、住民の生活の質のバランスをとることは、今後も大きな課題となっている。
おわりに
ホイアンに代表されるように、人が暮らす文化遺産をどう守り、活かし、共生するかは、ベトナムにおいても文化遺産と観光政策の接点で重要な課題となっている。ベトナムでは、ホイアン旧市街地の他にも、日本が協力した町並み(集落)保存の対象として、ドンラム村(ハノイ市)、フクティック村(トゥアティエンフエ省)、カイベー(ティエンザン省)といった地域もある。日本の協力については、観光ガイドブックにはあまり紹介はされていないが、ベトナムの町並みや農村集落を訪れる際には、文化遺産の保存や観光に関する歴史的な取り組みや、そこに日本が関わってきた様子なども思い浮かべながら、観光を楽しんでいただきたい。
安藤勝洋《総説》「ベトナムの文化遺産と観光」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, VN.1.02(2025年10月28日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/vietnam/country03/