アジア・マップ Vol.04 | 中国
《総説》
日中文化交流:「薬膳」の起源とその普及の物語
1 「薬膳」の意味と変遷
中国には古くから「民以食為天」(人々にとって食こそが最も大切なものである)という言葉がある。また「食為政首」(食こそ政治の最優先事項である)という言葉もある。これらの言葉がよく伝えるように、早くから食は人びとの生活にとってもっとも重要なものだと考えられてきた。日々の食を何より重んじるこうした感性は、中国で今日も社会的立場を問わず共有されている。これは、食が健康の維持と切り離せないからでもある。
とくに中国では、健康を保つうえで、病気になってから薬を飲むこと以上に、日々の食生活が重要であると考えられてきた。中国医学の考え方のもと、生薬を普段の料理に取り入れ、食事を通して日常的に健康管理を行う習慣も古くから存在してきた。現在でも、中国大陸や香港、台湾では、「薬膳」を掲げるレストランを数多く見かける。人びとは家庭でも薬膳料理を作っており、友人と会った時や、人びとが集まる場では、「何を食べると身体によいのか」「最近どのような薬膳レシピを試しているのか」といった話が話題にのぼることも少なくない。
ところで、こうした薬膳への関心は、いまや中国大陸や台湾だけにとどまるものではない。とくに最近では、日本でも「薬膳」をテーマにしたレシピ本が数多く刊行されている。さらには、薬膳おやつや薬膳酒、薬膳ペットフードなど、「薬膳」を関した商品も多岐にわたる。薬膳は、そのもとになった食療の思想とともに、いま東アジア全体に広がりつつある。
それでは、「薬膳」という言葉は、そもそもどのような意味なのだろうか。『広辞苑』(第7版、2018年)には、「漢方薬と食材とを組み合わせた中国料理。健康増進、病気の予防と治療、延寿を図る」ものとある。ここでは、「薬膳」が中国料理におけるジャンルのひとつとして定義されている。一方、中国で刊行された『中国薬膳大辞典』(2017年)では、薬膳を「中国医学の理論に基づき、薬物と食材を一定の考え方に沿って組み合わせ、伝統的な調理技術や現代の加工法によって作られた、色・香り・味・形のいずれにも優れ、健康の維持や治療効果を備えた料理」とする。ここでは、生薬との組み合わせを伴うという点が、欠かせない要素として組み込まれていることがわかる。これらの用例は、それぞれの地域における「薬膳」がたどった歴史を示唆している。しかし、そもそもの原点に戻れば「薬膳」とは、いかなる意味だったのだろうか。
もともと、「薬」と「膳」は別々に用いられてきた語だった。中国最古の漢字字典である『説文解字』(西暦100年頃に成立)は、「薬」を「病を治すための草」と定義する。対して「膳」は食事を用意することとされ、段玉裁の『説文解字注』(1815年)によれば、用意された食事のことも意味するという。
この二字が並んで「薬膳」として現れる最古の例は、5世紀に成立した中国の正史『後漢書』までさかのぼることができる。『後漢書』は、後漢王朝の歴史をまとめた公式の歴史書であり、皇帝の事績を記した「本紀」や、人物・諸民族などを扱う「列伝」などから成る。日本でもよく知られる「東夷伝」も、その一部である。「薬膳」という語は、その『後漢書』の「列女伝」に見られる。「列女伝」とは、模範とされる女性たちの事績をまとめた伝記である。
そこには、穆姜という女性の逸話が記されている。穆姜は夫の前妻の子どもたち(継子)から憎まれ、中傷を受けていたが、それでも長男が重い病にかかった際には「親調薬膳」、つまり自ら薬や食事を整えて看病し、深い思いやりを示したという。この話は、彼女の徳の高さを伝えるものとして語られている。
もっとも、この時点での「薬膳」は、現在のような「薬膳料理」を意味するものではない。文字どおり、薬と食事を並べて表した言葉であった。当時の人々は、薬の服用と日常の食事との関係を重視しており、食べ合わせや禁忌にも注意を払っていた。そのため、「薬」と「膳」を並べて用いることがあったのである。
現在の意味で用いられる「薬膳」という言葉は、中国や日本の古典医書などには見当たらない。そこに多く見られるのは、「食養」「食治」「食療」といった語である。「食養」とは、日々の食生活に気を配り、健康を保つことを指す。一方、「食治」や「食療」は、食べ物の取り合わせや調理法などを工夫することで、病気の治療をはかることを意味する。これらの語は、必ずしも生薬の使用を前提としておらず、食を通じて身体を整える実践全体を指すより広い概念であった。また、日本では、「薬膳」に近い意味をもつ言葉として、「漢方料理」といった表現も使われていた。
それでは、今日的な意味で「薬膳(料理)」という語が使われはじめたのは、いつからなのか。実は、それほど遠い昔のことではない。それは1980年代の中国に端を発し、日本にも広がった薬膳ブームから始まる。
2 近現代中国の中国医学と薬膳
薬膳ブームの背景には、近代以降の中国医学の再評価が深く関わっている。近代に入ると、西洋医学の流入にともない中国医学に対して低い評価が下されるようになった。とくに、中華民国期(1912〜1949年)には、二千年以上の歴史を持つ中国医学はしばしば「古くさくい迷信」とみなされ、その存在意義が厳しく問われたのである。もっとも、都市部では西洋医学が次第に主流となっていったものの、農村社会では、中国医学は依然として重要な医療や健康管理の手段であり続けた。そこでは、家族や地域共同体を通じて、伝統的な民間治療法や食養生の知識が受け継がれていた。
中国では古くから、朝鮮人参や、ツバメの巣などを食事に取り入れ、健康維持をはかる習慣が存在していた。しかし、こうした高価な生薬を日常的に利用できたのは、主として宮廷や官僚層、富裕層などであり、一般庶民にとっては容易なことではなかった。そのため、庶民のあいだでは、身近なものを用いて、健康を維持する工夫がなされていた。こうした習慣は中華民国期にも受け継がれ、「食養」あるいは「食養療法」という言葉で表された【図1.1939年1月13日『申報』掲載「食養」記事】。たとえば、体調不良の際にはニンニクを食べたり、スベリヒユなどの薬草を用いたりすることである。あるいは、産後の女性が生薬のと鶏を煮込んだスープを食養生として摂取する習慣も見られた。
1950年代半ばになると、中華人民共和国政府は中国医学を改めて重視する政策を打ち出す。これに伴い、中国医学は制度的な再編と再評価を受けるようになった。たとえば、政府は1955年に北京に中医研究院を設立し、中国医学の研究と教育を積極的に推進した。また、1960年代初頭には、深刻な農業不況によって生薬不足が生じたが、政府は薬草採集や薬草栽培を奨励し、経済的支援を行うことで、生薬供給の回復をはかった。
1980年代に入ると、改革開放政策の進展とともに経済成長が進み、人びとの生活水準や健康への関心も大きく高まっていく。この時期、中国では食養生へ関心が高まり、一般の人びとも中国医学で用いられる生薬を比較的容易に購入できるようになった。こうして、生薬を日常的に入れる食養生のあり方は、再び都市生活者の日常のなかに広がっていったのである。そして、このような下地のうえに薬膳ブームが巻き起こる。
中国初の薬膳レストランと薬膳ブーム
薬膳ブームの発祥地となったのが四川省である。そこは、古代から現在に至るまで、中国を代表する薬草の産地として知られ、大規模な生薬の卸売市場も存在してきた。そしてこうした歴史的背景を備えた地域に、ひとりの人物が現れる。薬膳学の祖ともいうべき四川省の彭銘泉である。
彭銘泉(1933〜2019年)は、中国薬膳学の創始者とされる。専門は中国医学ではなく、出身校は中国人民解放軍陸軍防化学院であった。彭銘泉は1980年10月、四川省成都市に中国最初の薬膳専門レストラン「成都同仁堂滋補薬店」を創業した。「同仁堂」は清朝時代に創業された老舗の薬舗の名である。レストランは、薬舗である成都同仁堂の中にあり、薬材会社である成都市中薬材公司の支援を受けていた。このように、近代的な意味における中国「薬膳」の成立は、薬材会社とも密接に連携したところで進められた。
創業時の同仁堂は、価格も比較的手頃だったため、国内のみならず、日本・アメリカ・イギリスを始めとする海外からの利用者で賑わった。開業3年目には国内外から89万人の利用者があったという。レストラン創設後まもない1982年には、成都市中薬材公司が薬膳飲料や缶詰製品の開発にも乗り出している。
レストランの開業後、中国の薬膳を主題とする映画やドキュメンタリーが香港やアメリカ、イギリスで制作され、海外の新聞でも「成都同仁堂滋補薬店」が取り上げられた。たとえば、『読売新聞』では、この時期「新中国の漢方 現地からの報告」という連載が行われており、成都の薬膳もここで取り上げられている(1986年6月8日付朝刊)。こうした海外メディアの報道を通じて、薬膳の影響力は国際的にも広がっていった。
1980年代、中国では市場化や商業化が進み、読者層の拡大とともに、大衆向け出版も急速に発展した。ラジオやテレビ、出版業界も健康分野に注目し、健康に関する知識や実践法を積極的に発信するようになった。彭銘泉もまた、レストラン経営にとどまらず、『大衆薬膳』(1984年)、『中国薬膳学』(1985年)、『中国薬膳大全』(1994年)など、多くの薬膳レシピ本を刊行した。彼の薬膳レシピ本は、薬膳の社会的普及に大きな役割を果たし、現在でも中国大陸や台湾の書店の書棚に並び続けている。また『中国薬膳菜譜』(1986年、水雲社)という日本語版もある。これは、『大衆薬膳』を基にしつつ、翻訳編集されたものである。
これらの薬膳レシピ本には、漢代、元代の中国古典医書や食療本草書に見られるレシピ、民間治療法に由来するレシピに加え、彭銘泉自身が考案した薬膳も収められていた。その内容は、風邪や消化不良、婦人病、産後の不調など、さまざまな身体の不調に対応するものである。「成都同仁堂滋補薬店」で提供されたレシピは、創設当初は96種であったが、10年後には270種以上にまで増加していた。
彭銘泉は、薬膳の国内外における普及にも力を注ぎ、それは書籍の刊行にとどまらない。成都市のほか、中国各地の都市で薬膳レストランの顧問を務め、日本や香港なども訪れて、1990年には富山医科薬科大学(現・富山大学)の難波恒雄教授(1931〜2004年)の招聘により来日し、薬膳に関する講演を行っている。さらに、1992年にはイギリス統治下の香港を訪れ、同地における薬膳の普及にも携わっている。
その後、中国の経済の発展に伴い、薬膳レストランで提供される料理には、次第に高級食材が用いられるようになり、価格も上昇していった。また当初は高齢者や体調不良の人びとなど、一般庶民を主な対象としていた薬膳も、しだいにダイエットや美容、知力向上、長寿などより広い層を対象としたものへと変化していった。こうした薬膳レストランの普及を通じて、薬膳料理はしだいに中国料理の一分野として位置づけられるようになっていく【図2.3.4.成都の薬膳レストラン;薬膳レストランの中庭;薬膳料理―冬虫夏草花入り鴨煮込みスープ)】。
中国医学を専門としない人物によって、薬膳が広められたという事実は、生薬に関する知識が、医師だけに独占されたものではなく、薬商やさらには一般の消費者にも共有されていたことをよく示している。
ところで、彭銘泉のほかにも、現代における薬膳の普及に大きく関わった人物として、翁維健(1933〜2016年)がいる。翁は中国医学を専門とし、北京中医薬大学の教授として、疾病の予防と治療における飲食について教育・研究に携わった。彼は中国の大学において医学栄養学研究という専門分野を新たに開拓し、それに関する教材の編纂にも力を注いだ。さらに、翁は、「健康と衛生」「医療食品」などのテレビ番組に出演したほか、新聞や雑誌などを通じて食養生を広げることにも努めた。それらの活動にもとづき、薬膳のレシピ本『薬膳食譜集錦』(人民衛生出版社、1982年)【図5.翁維健『薬膳食譜集錦』書影】を著した。これは、今日的な意味での「薬膳」をテーマにした最初の書物である。この中で論じられた薬膳の内容は、通常の料理にとどまらず、飲み物や間食類にまで及んでいる。
このように、近現代東アジアにおける「薬膳」の発展を語るうえで、彭銘泉や翁維健らの存在は欠かすことができない。彼らによって、「薬膳」という言葉は中国で広く使われるようになり、朝鮮人参や枸杞の実、当帰などの生薬を料理に加えて、その効能を強調する風潮が生まれた。こうして90年代になると、北京・上海・広州などの大都市だけではなく、中国の地方の小都市でも、薬膳レストランを見かけるようになった。
こうして、「薬膳」という言葉は中国大陸で広まり、その後、香港、台湾、日本などへと伝わっていった。『広辞苑』に収録されたのは1998年の第5版である。中国で薬膳ブームが起こってから、すでに半世紀近くが過ぎた。その間、この言葉の意味も変化を続け、現在では先に見た辞書的な定義よりも、はるかに広い意味で用いられるようになっている。
今日、「薬膳」はもはや中国料理に限定される言葉ではない。たとえば台湾では、現在の日本でも漢方薬として用いられている処方をスープのベースにした薬膳料理が見られる。その代表例として、「十全大補湯」や「四物湯」を用いたスープがある。また、沖縄ではフーチバー(ヨモギ)を用いた料理が親しまれ、韓国では参鶏湯や粥などが「薬膳」として紹介されることも少なくない。
このように、「薬膳」という言葉の起源は中国にあるが、各地域の食文化や医療文化と結びつきながら独自の展開を遂げ、今日では東アジアを代表する食文化の一つとなっている。
主要な参考文献
彭銘泉『中国薬膳大全』四川科学技術出版社、1994年
ラルフ・C.クロイツァー著、難波恒雄ほか訳『近代中国の伝統医学』創元社、1994年
真柳誠「医食同源の思想:成立と展開 」『しにか』9巻10号、72〜77頁、1998年
王者悦『中国薬膳大辞典』中医古典出版社、2017年
新村出編『広辞苑 第七版』岩波書店、2018年
書誌情報
向静静《総説》「日中文化交流:「薬膳」の起源とその普及の物語」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, CN.1.01(2026年7月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol04/china/country01