アジア・マップ Vol.04 | カザフスタン
《総説》
いまも愛されるカザフの英雄物語
カザフスタン共和国はカザフ草原に位置する。南ロシア草原とあわせてキプチャク草原と歴史的に呼ばれてきたこの地域は、ヨーロッパとアジアをつなぐ重要な役割を果たしてきた。広大な草原に暮らすのは騎馬遊牧の民であった。季節ごとに営地を移動しながら家畜を育てるという生活様式のなかで、文字文化が発達する余地はなかった。だが、文字にかわって口承による文芸が大いに盛んとなった。
現在ではもちろん文字の使用が一般的となっている。だが、口承文芸の存在意義は非常に高く、重要な文化遺産として今なお大きな役割を果たしている。学校教育では「文学」の科目でさまざまな口承文芸のジャンルが取り上げられている。英雄叙事詩、恋愛叙事詩、宗教詩、昔話、伝説、俚諺などの口承文芸のテキストが100巻からなる『祖先の言葉』シリーズとしてカザフスタンで出版されている。このシリーズはカザフの人々が伝えてきた伝統文化の集大成であるといえよう。
カザフの口承文芸のなかで中心的なジャンルは英雄叙事詩である。英雄叙事詩は、記憶力や表現力、即興力に富む語り手によって語られてきた。伝承と公演、創造が一体となり、言葉と節を組み合わせて劇的に歌われる。英雄叙事詩は、非凡な誕生と成長をした勇者がさまざまな苦難と冒険をのりこえて成長するとともに敵を倒し、仲間を守るさまを歌うヒーロー物語である。宴や集いで人々は勇者の活躍を娯楽として楽しむとともに、遠い祖先たちの経験や教訓を学んだのであった。勇者と敵との一騎打ちが物語のクライマックスとなる。敵は、異世界の超自然的な化け物や妖怪からロシアやモンゴルなど実在する民族や国々の勇者まで多種多様である。
勇者が地下世界へ赴く物語は数多いが、そのうち代表的な英雄物語は『エル=トスティク』である。主人公のトスティクは妖婆ジャルマウズを追って地下世界に入り、特殊な能力をもったユニークな仲間たちと数々の冒険を繰り広げる。聖鳥のひなを食べようとするアイダハル(龍)を退治した見返りに、聖鳥はトスティクを地上世界へ運び飛ぶ。聖鳥は「大地のへそ」(世界の中心)に重なった世界を貫いてそびえる聖樹に営巣する。この聖樹は世界樹であり、生命樹でもある。この木が象徴する垂直性は、世界がいくつかの層からなるという、ユーラシアの古くからの世界観を示すとともに、天上と地下、鳥と龍、善と悪という古来の英雄物語の基礎的構造を呈している。ちなみに、カザフスタンの首都アスタナのランドマーク、バイテレク=タワーはこの聖樹をモチーフにしてつくられた。これは神話的世界観がいまも生きていることの証である。また、『エル=トスティク』にもとづいた『エル=トスティクとアイダハル』というアニメ映画が2013年に制作された。この映画にはタブレット端末が登場するなど現代の子どもたちにも親しみやすい演出がなされている。
実際にあった歴史事件を描くカザフの叙事詩のなかで目を引くのは『ショラ=バトゥル』という英雄叙事詩である。この物語には、フィクションでありながらもロシアのカザン侵攻という歴史的なできごとが描かれている。主人公のショラは、16世紀のカザン=ハン国に実在したチョラという高官がモデルである。当時のカザン=ハン国の中枢はモスクワ大公国派とクリミア=ハン国派に分かれて対立しており、チョラはロシア側に立っていたものの、叙事詩ではモスクワと戦った人物として描かれる。叙事詩は主人公の死とカザン陥落で終わる。1552年のカザン=ハン国滅亡後、ロシアはさらにアストラハン=ハン国やシビル=ハン国などモンゴル帝国の後継国家を次々と征服し、やがて広大なロシア帝国へと拡大するのだが、カザン征服はその嚆矢となったのである。その記憶は叙事詩のみならず、楽曲にもなっている。カザフの著名な音楽家ウクラス(1843-1916)の楽曲「カザン」はショラの死を悼む名曲として知られ、二弦の擦弦楽器コブズの音色が印象的に響く。
17世紀から18世紀にかけて、モンゴル系オイラトの中央アジア侵略が断続的に行われた。とりわけジュンガルという遊牧国家の中央アジアにたいする攻撃は苛烈で、カザフ人のみならず、この地の住民たちは退避や移住を余儀なくされた。それは、カザフ語で「アクタバン=シュブルンドゥ」(裸足での流浪)ということばでカザフの歴史に刻まれている。現在の中央アジアの人々の分布はその移動によるところが大きい。中央アジアではカルマクと呼ばれる彼らとの抗争の記憶は英雄叙事詩にも強く刻まれ、たとえば『ショラ=バトゥル』の異版には、主人公が戦う敵は先に述べたロシアではなく、カルマクとするものがある。もとのロシアによるカザン陥落の記憶を上書きするほど、カルマクの存在はカザフにとって大きかったのである。
カルマクとの戦いを描く、カザフの代表的な英雄叙事詩は『アルパムス=バトゥル』である。勇者アルパムスがカルマクと戦い、捕らわれの身になりながらも脱出・帰還し、裏切者を倒すストーリーである。ギリシア神話の『オデュッセイア』や日本の英雄伝説の『百合若大臣』と類似するこの叙事詩はヒーロー物語の王道とも言え、カザン=タタールやバシュコルト(バシキール)、アルタイ、トルコなどのテュルク系諸民族にその類話が伝わる。最終的な敵は自分の身近な人物で、それを退治するというエンディングは、敵は必ずしも外からのみ現れるのではない、身内のなかにいる敵こそ用心せねばならないという教訓となっている。『アルパムス=バトゥル』は1986年と2013年にアニメ化もされ、叙事詩とは異なる現代的なかたちで人気を博している。
『アブライ=ハン』は18世紀のカザフ=ハン国の「中興の祖」アブライ=ハン(1711-1781)の生涯と功績を伝える英雄叙事詩である。ジュンガルとの抗争のなかでアブライは頭角を現し、カザフを率いる指導者となった。とりわけ、中国(清朝)とロシアに二重朝貢を行い、国際社会におけるバランスのよい政策をとることで、カザフの自立・独立を維持したことで知られる。傍系とされる出自からハンに推戴されたことも「立身出世譚」として人気を博す要因となった。2005年に制作された映画『遊牧民』(邦題レッド・ウォリアー)はアブライを主人公とした作品であるが、敵の勇者との一騎打ちの場面など英雄叙事詩『アブライ=ハン』を基にしたと考えられる。また、地下牢に投獄されたり、敵の姫君に好意をもたれたりといった点は『アルパムス=バトゥル』などの英雄叙事詩のモチーフを参考にしているといえよう。叙事詩のあらすじには一定の展開やフォーマットがあるが、それらはある種の普遍性をもっているといえ、現代的な映画作品にも応用が可能である。なお、アブライ=ハンはカザフの民族意識の形成と高揚に一定の役割を果たした人物で、現在もその評価は高い。その孫であるケネサル(1802-47)はロシアにたいする武装蜂起を率いた英雄として、また曾孫のショカン(チョカン)(1835-65)は多大な研究業績を残した近代知識人としてその名を残している。ケネサル自身について歌う英雄叙事詩も語り伝えられ、またショカンはさまざまな英雄叙事詩の採録を行い、その功績は現在の口承文芸研究においても重要である。
いにしえから愛されてきた英雄たちはこのようにいまも人々に愛され続けているのである、とこの小文を終えたいところであるが、以前カザフの友人と英雄叙事詩について話をしていたとき、その話を聞いていた娘さんが「私は英雄叙事詩が嫌いだ」と言ったことを思い出した。聞けば、学校の授業で英雄叙事詩の一部を暗記させられ、それを暗誦するのにずいぶん苦しんだようである。「いまも愛されるカザフの英雄物語」とのタイトルではあるが、公正さを期するためにこのエピソードも一応付言しておこう。
書誌情報
坂井弘紀《総説》「いまも愛されるカザフスタンの英雄物語」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, KZ.1.01(2026年9月8日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji2/asia_map_vol04/kazakhstan/country01/