アジア・マップ Vol.04 | パキスタン
《総説》
インダス文明とモヘンジョダロ
紀元前2600年頃に、現在のパキスタンと北西インドを中心とする地域に成立したインダス文明。紀元前1900年頃までのおよそ700年間も存続したとされている。この700年間を「インダス文明期」と呼ぶ。古代都市遺跡であるモヘンジョダロやハラッパーが有名である。
この古代文明には、王などの絶対的な権力者がいなかった。また武器や戦争などの暴力の痕跡も、社会全体にいきわたるような宗教も認められない。さらに南メソポタミアなどの外部社会との積極的な交易の証拠も乏しい(接続の痕跡はあるので、完全に孤立していたというわけではない)。
わたしたちが国家とよぶような、官僚制をともなうトップダウン式の統治機構をもたなかった古代文明。だからといって、インダス文明がユートピア的な社会であった、とするのは大きな間違いである。
都市には、富の蓄積がみられる。また社会の階層差や貧富の差もあったに違いない。では一体、そこにはどのようなボトムアップ式の〈政治〉(注1)があったのであろうか?
この大きな「謎」は、未だ解明されていない。
本稿では、インダス文明を理解するための第一歩として、インダス平原の〈状況〉(注2)を整理し、古代都市遺跡であるモヘンジョダロについてほりさげてみよう。
インダス平原の〈状況〉と人びとの〈政治〉的選択◆インダス平原の〈状況〉
当時のインダス平原は基本的に半乾燥気候に属し、夏季モンスーンとヒマーラヤの雪解け水がもたらす定期的な洪水の恩恵、つまり自然氾濫農耕を基本としていた。その証拠に、大規模な灌漑の痕跡はいっさい確認されていない。
自然氾濫農耕と聞くと、「生産力や人口扶養力は大したことがなさそうである」と思われるだろう。しかし広大なインダス平原は、土壌の養分供給能力・肥料保持能力も高く、各地で年間降水量も異なった(100〜800mmほど)。地域によってはムギ類のみに頼らない、マメ・雑穀農耕に重きをおく、混作・二毛作も可能であった。
ウシやヤギ、ヒツジを基本とする家畜も、野生動物も豊富だったし、淡水・海水産資源も豊かだった。つまり、そもそもの話として、大規模な灌漑をする必要がないほどに、この地の生産力・人口扶養力は潜在的に豊かだったのである。
さらに、装飾品やさまざまな日用品をつくるための石材や金属からなる多様な各種資源も、インダス平原に偏在的に分布しており、自前で入手することが可能であった。
インダス平原の歴史地理的状況についても確認しておこう。当時のインダス平原は、都市国家群の群雄割拠の時代にあった中心(南メソポタミア)の周辺ではなく、「亜周辺」に位置していたと考えることができる。
亜周辺とは、中心の文明が伝わる程度には近接した空間でありながら、周辺とは異なり、中心による直接的支配のおそれがない空間。その空間では、中心に存在する国家体制や官僚制のような中央集権的あるいは集権的制度を根本的に拒絶したり、文明制度の取捨選択をおこない、それらを独自に発展させることが可能であった。
◆集住を選択しなかった人びと
こうした〈状況〉にあって、インダス平原の人びとは、どこか特定の場所に集まって住むこと(集住)を選択しなかった。なぜならば、安定した生活を営むことのできる土地が、広大なインダス平原にひろがっていたので、その必要がなかったからである。これもまた〈政治〉的選択である。
インダス文明期のみならず、その前段階の「先インダス文明期(紀元前3000年頃〜紀元前2600年頃)」においても、5ha以下の小さな集落が、各地に散在していた様相を確認することができる。つまりこの地では長期間にわたり、人口が特定の場所に集中するのではなく、散在していたのだ。
各地に散在していた集落・人口は、各地で安定した地域社会・文化を維持・展開した。各地域社会・文化は、それぞれに特徴的な彩文土器などによって、認識することが可能である。
モヘンジョダロ――南アジア最古の都市◆最初の都市はどこに、誰によってつくられたのか?
[どこにつくられた?]
インダス平原の豊かな〈状況〉において人びとは、土地も各種資源も乏しくきわめて厳しい〈状況〉にあった南メソポタミアとは異なり、どこか特定の場所に集住する必要がなかった。
そうした〈状況〉にあったにも関わらず、何らかの理由で、人びとが集まって都市を建設する必要がでてきた場合を想像してみよう。ふつうに考えて、選ばれるべき建設の場所は、安定した地域社会のど真ん中がベストである。生産力や人口扶養力がもっとも安定しているからだ。
しかしインダス文明の最初の都市であるモヘンジョダロが建設された場所は、地域社会のど真ん中ではなかった。では一体どこに?
選ばれた地は、なぜか、洪水の危険性のきわめて高い、だれも住んでいなかった場所。二つの大河にはさまれた中洲的な場だった。定期的に起こる洪水の危険性から、一年を通して安定して住むことは難しいが、地域社会・文化の接触領域であり、交通の便だけは抜群の地。こうした場所に、紀元前2600年頃に、まさに新設されたのである。
[誰によってつくられた?]
新設された都市は、「空っぽ」だった。地域社会のど真ん中に建設されたわけではなかったので、裸の状態、つまり固有の伝統文化をもっていなかったのだ。
そこで都市をつくった人びとは、各地域社会の特定の文化要素を取捨選択し、再構造化することで、あらたな都市文化をつくりだした。それがインダス文明を特徴づける物質文化の一つ、「ハラッパー文化」である。
こうした遺物研究は、都市をつくったのは、各地域社会の特定の文化要素を熟知していた人びとであったことを明らかにした。
[ハラッパー文化とは?]
ハラッパー文化は、インダス文字(未解読)や一角獣などのモチーフが刻まれた凍石製印章、度量衡システムを構成したチャート製のおもり、紅玉髄をはじめとする半貴石製のビーズといった装飾品、さらにチャート製の石器や(青)銅器、インド菩提樹の葉やクジャク等が描かれた彩文土器、そして人形・動物形の土偶などから構成される。
文字や印章、おもり、高価そうな装飾品などは、社会経済的ヒエラルキーの存在を示すような遺物、つまりインダス文明の「富」と関わるアイテムであったと推察することができる。
◆〈都市〉のインフラ
モヘンジョダロは700年間利用される過程で、総面積が100haを超えたと推測されている。城壁は存在しない。西側のすこし小高い「城塞」区域と東側に展開する「市街」区域から構成されている。ただし、この「城塞」「市街」というのはただの便宜的呼称であり、その機能と直結するものではないことに注意する必要がある。
また700年間に存在したすべての遺構を一枚の図に落とし込んだ平面図をみせられると、「計画性」という謳い文句を言いたくなるが、騙されていけない。油断すると、「計画者=支配者」を勝手に想定してしまいそうになるが、この平面図はモヘンジョダロの各時期の様相を示しているわけではないのである。
だから、この平面図にもとづき推定されている2〜4万人という人口についても、すこし冷静になる必要がある。
[「城塞」区域]
「城塞」区域(写真1)には、焼成レンガつくりの基壇や「城門」のような遺構、「大沐浴場」のような遺構(写真2)、かつて「大穀物倉」とよばれていた遺構、そして「列柱の間」のような遺構が建ち並んでいる。これらの遺構の名称も便宜的につけられたもので、その機能は定かではない(なんとも紛らわしい・・・)。
大型のモニュメタルな遺構を認めることができる一方で、王のような個人を表象する遺物や富は一切出土しない(印章が数点出土するのみ)。
[「市街」区域]
「市街」区域(写真3)には、「商館」のような建物や「宿屋」のような建物、「洗濯場」あるいは「染織場」とされる遺構、一般家屋、多目的広場が、大通りと路地(写真4)に面して建ち並んでいる。けっして完備されていた訳ではないが、井戸・排水施設、トイレなども確認することができる(かつて言われていた「水の都市」は美化し過ぎである・・・)。
「商館」のような建物には、あとでみるように富の蓄積の痕跡を確認することができる。富の痕跡は、「城塞」区域ではなく、「市街」区域に認めることができるのだ。
宗教のない都市モヘンジョダロにおいて宗教の存在を確かめることができれば、そこには何らかのトップダウン式の統治機構がみえてくるかもしれない。
◆宗教に関連していそうな遺物と遺構
この都市において、宗教と関連しそうな遺物は次のとおりだ。何だか偉そうな雰囲気の「神官王」と呼ばれている男性形石像1点、下手くそなつくりのその他の男性形石像数点、水牛などの角型頭飾りを身につけた人形であらわされる「有角神」と呼ばれているモチーフ数点、あとは腕輪をたくさん身に付けた踊り子と理解されている青銅製人形像1点と人形・動物形土偶数十点。
宗教と関連しそうな遺構としては、「城塞」区域の「大沐浴場」のような遺構や「市街」区域の「寺院」と呼ばれている建物などがある。他の古代文明でみられるような明確な「神殿」は確認できない。
これらの遺物と遺構は、その見た目だけで、宗教に関連する証拠として位置づけられがちだ。その結果、インダス文明には共通の宗教があったと論じられることもある。
しかしすこし冷静になり、それらの出土状況をみてみれば、そうした解釈には大した根拠がないことが分かる。神官王像だって「市街」区域の廃土から出土したものだし、有角神のモチーフはそもそも超レア。インダス文明全体で数点しか出土しておらず、その分布も5遺跡に限られる。
これらが「大沐浴場」や「寺院」と呼ばれている遺構とセットで出土するならば、話は変わってくるが、そうでもない。ましてや「城塞」区域からは、下手くそなつくりの男性形石像が4点出土しているだけで、有角神のモチーフなどはいっさい確認されていない。
またモヘンジョダロからは墓地もみつかっていない。墓地のみつかったハラッパーなどの例をみても、仰臥伸展葬(膝を伸ばした姿勢で仰向けに埋葬するスタイル)を基本とする埋葬方法から、かれらの死生観を想像することはできるが、そこから体系化された宗教を復元するのは困難である。
副葬品は主に土器(おそらく食物などで満たされていた)で、大量の奢侈品(富)、石像や有角神のモチーフ、印章などが出土する訳でもない。
◆宗教ではなく、都市に特有の信仰儀礼?
どうやら、体系化された宗教は存在していなかった。しかし宗教がなかったからといって、そこに信仰儀礼がなかったということにはならない。
神官王像や印章に刻まれた有角神の儀礼の場面と推察されるモチーフ、都市に限定的に出土する人形土偶などの存在は、都市に住んでいた人びとの信仰儀礼と関わっていたと推察される。明確な神殿や宗教的指導者が不在でも、ボトムアップ式に執り行われていたであろう信仰儀礼だ。
ただしモヘンジョダロに推察される信仰儀礼が、他の遺跡でもみられるのかとなると、答えは「No」だ。
神官王像や有角神のモチーフの超限定的な分布傾向は、この信仰儀礼が特定の都市にのみ限定されるものであり、各地の地域社会には認められないことを明らかにしている。そうだとすれば、この信仰儀礼は、都市に特有の何らかの行為と関わっていたことを示唆しているのかもしれない。
王のいない都市体系化された宗教は存在せず、明確な神殿や宗教的指導者も不在のモヘンジョダロ。なにか他に、権力者や支配の構造を示す証拠はあるのだろうか?
答えは、本稿冒頭で言及したように、またもや「No」だ。モヘンジョダロ(というかインダス文明全体)には、武器・軍隊・戦争の痕跡もなく、中央集権的なトップダウン式の統治機構も、その頂点たる王も、もちろん王墓も存在しない。
いわゆるわたしたちが国家と呼ぶのもの、すこし小難しく言えば、固定化した権力や暴力にもとづくような支配の構造が不在なのだ。「そのうち出てくるかもしれないだろう」という意見もあるかと思われるが、インダス文明の発見から100年以上経過した今も、こうした状況はかわっていない。
では都市からは、何が出てくるのか? おもりや印章、文字、そして各種ビーズなどだ。〈おもり-印章-文字〉のセットは、秤量やハンコ、記録・伝達と関わることから、物品や情報を取引する際の信用形成のためのアイテムであったと推察される。各種ビーズなどは、そうした信用にもとづく貨幣としての役割ももっていたかもしれない。
つまり都市は、さまざまな来歴をもつ人びとが物品や情報を取引する場、つまり〈市場〉(注3)であったと理解してよい。先に述べた都市に特有の信仰儀礼は、こうした行為と関わっていたのかもしれない。
すでに言及したが、「城塞」区域からは〈市場〉に関わる遺物はほぼ出土しない。いっぽう「市街」区域の「商館」のような建物からは、〈おもり-印章-文字〉のセットをはじめ、石像などの石製品、各種ビーズ類、象牙製品、金属製品、貝製品などからなる六百点以上の多種多様な富が出土している。
ある種の富が蓄積する状況があったことは、確かなようだ。商人と平民というような社会階層も貧富の差もあったに違いない。しかしこの都市では、こうした富の蓄積が、どういうわけか、固定化した権力や暴力にもとづくような支配の構造には結びつかなかったのだ。
おわりに――インダス文明が、わたしたちに教えてくれることインダス文明には、〈市場〉としての都市(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリーバンガン、ドーラーヴィーラーなど)をつなぐ広域のネットワークが存在した。しかしそこには、わたしたちが国家と呼ぶ統治機構は不在なのである。
固定化した権力や暴力にもとづくような支配の構造をうみださなかった、人びとのボトムアップ式の〈政治〉のあり方ついては議論がはじまったばかりだ(注4)。
本稿でみたインダス文明のあり方を念頭に、他の古代文明との比較の観点から、都市、権力、国家、あるいは文明について、現在の理解を以下のようにまとめておく。
【教訓1】富の蓄積や社会の階層差、貧富の差はあったが、固定化した権力や暴力にもとづくような支配の構造をうみださない、あるいはそれを拒絶するためにつくられた〈都市〉も存在する。
【教訓2】国家とよばれるトップダウン式の統治機構をもたない、あるいはそれを拒絶した古代文明も存在する。
【教訓3】古代文明の基層にあるのは、当時のさまざまな〈状況〉における、人びとの個人的な、あるいは集合的な〈政治〉である。〈政治〉がつくりだした物質によって人間側の考えや行為が意図せずに規定されることも含め、文明とはそれらの総体としてとらえる必要がある。
【教訓4】人間は、いまある社会のオルタナティブを含めて、さまざまな社会を想像・創造する能力を本来的にもっている。
注
1)人類は、日々の暮らしの中で出くわすさまざまな問題あるいは矛盾に、なんらかの均衡状態をもたらそうとしたり、それらを解消できるように工夫してきた。社会を構成する具体的な人びとの、そのかなり自覚的で自由な価値や意味の創造活動あるいは社会の運動を、本稿では〈政治〉と記す。
2)人類は、歴史的状況、歴史地理的状況、社会学的状況、文化的状況、生態学的状況などの中で生きている。こうしたさまざまな状況の総体を、本稿では〈状況〉と記す。
3)市場といっても、その性格はさまざまである。その時の〈状況〉と〈政治〉のあり方次第であると言えよう。本稿では、「資本主義にもとづく市場ではない」という意味合いで、〈市場〉と記す。
4)たとえば筆者は、インダス平原に住んでいた人びとの〈政治〉にもとづき、「バッファ」としてつくられたと考えられる〈都市〉の機能に着目している。仮説の詳細は、下記拙稿を参考のこと。
小茄子川歩(2025)「第5章 インダス――都市・権力・国家の比較考古学」関雄二編著『もっと深く知る 最新考古学でわかる古代文明 上』(NHK3か月でマスターするMOOK), NHK出版
参考文献
ウェングロウ・デヴィッド (近刊) 『文明論――古代近東と西洋の未来』小茄子川歩・酒井隆史訳、以文社
グレーバー, デヴィッド、ウェングロウ・デヴィッド(2023)『万物の黎明――人類史を根本からくつがえす』酒井隆史訳, 光文社
小茄子川歩・関雄二編著(2025)『考古学の黎明――最新研究で解き明かす人類史』光文社新書
書誌情報
小茄子川歩《総説》「インダス文明とモヘンジョダロ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, PK.1.02(2026年09月02日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol04/pakistan/country02/