『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第9回 ルンがそよぐとき(インド、チベット語/モンパ語)

長岡慶先生のお写真

長岡慶(日本学術振興会特別研究員・東京大学)

風や息、気を意味するルン

 インド北東部のタワン県(アルナーチャル・プラデーシュ州)は、東ヒマーラヤの湿潤な高山地帯に位置している。チベット仏教徒のモンパと呼ばれる人々が多く居住し、風が吹くと民家や僧院からお香が漂い、屋根や峠に掲げられた青・白・赤・緑・黄の五色旗がはためく。現地において風はルンと呼ばれている。またルンは、人間の息や身体内部を流れるとされる気(または風素)の意味もある*。ルンがそよいでいるとき、現地の人々はどのようなことを感じているのだろうか。

* 身体内部を流れるルンはチベット医学の重要な概念の一つで、気や風素と訳されることが多い。しかし、中国医学の概念である気と一部類似はあるが完全に同じというわけではない。

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図1. 峠ではためく五色旗

天候を動かし、祈りを広める

 フィールドワークを始めて間もない頃、私はタワン僧院の座主に「一年で最も多く行う儀礼は何ですか」と尋ねた。その高僧は「それは雨乞いの儀礼です。雨を呼ぶ儀礼と雨を止める儀礼はどちらも同じなのですが、なぜだかわかりますか」と問いかけた。答えに困っていると、高僧は笑顔で「日照りも長雨もルンが止まった状態が長く続くことで生じます。なので、どちらもルンを動かす儀礼をすることで天候を変えるのですよ」と言った。農業や牧畜を営む村人にとって天候不順は重要な問題であり、とくに農業ではルンが滞りなく流れていることが豊穣をもたらすとされる。

 人々は、ルンのよく流れる場所に五色旗を掲げ、生きとし生けるものの幸福や平穏を祈願する。五色旗には、チベット語の経文と一緒にルンタ(風の馬)と呼ばれる宝玉を背負った馬の絵が印刷されている。馬が人を乗せて大地を駆けるように、ルンは祈りを乗せて空を流れ、その祈りの力を遠くに運ぶと考えられているのである。チベット暦の正月には、縁起の良い日に家に掲げている五色旗を新しいものに取り換える習慣がある。新しくなった旗の下で人々は真言を唱え、新年の祈りを捧げる。

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図2. 17世紀に建立されたタワン僧院

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図3. 正月、家の屋上で五色旗を取り換えている

真言の力を吹く者たち

 ルンは、真言の力も運ぶとされている。仏教儀礼の際、僧たちは声に出して経文を読み、信徒たちはその音に耳をすませる。真言の力は、悪霊による災いを祓うとされ、僧の発するルン(息)に運ばれて周囲の信徒の耳や身体に届き、信徒たちに享受される。

 さらに、真言の力は、直接身体を治療することにも用いられる。村には密教修行をした民間治療者が多くおり、モンパ語で「真言を吹く人」を意味するンガク・ブッケン(チベット語ではンガク・ギャプケン)と呼ばれている。彼らは、特別な真言を唱えた後、自分のルンを患者の身体に吹きかけることで関節痛や腰痛、胃痛といった不調を癒やす。初めてその治療を見たとき、私は戸惑わずにいられなかった。治療者は、関節痛患者の足の周りに息をひたすらフーフーと吹きかけるだけだったからである。しかし、患者は嬉しそうに帰っていった。

 この民間治療の実践も、仏教儀礼と同様に、ルンの運ぶ働きを利用している。治療者は自らのルンを用いて真言の癒やしの力を患者に送り、患者はそのルンに直接触れる経験を通じて、癒やしの力が自分の皮膚の表面から関節の内部へと浸透していくのを感じとっているのである。

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図4. ツァトンという竹筒を用いて真言の力を吹く治療者(竹筒を使わない者もいる)

言葉の災禍

 ルンが運ぶものは多岐にわたり、それによって必ずしも良いことが起こるとは限らない。例えば、タワンの伝承にルンに関わる次のような話がある。

 あるとき、悪霊が人間に化けているのを村の娘が目撃した。悪霊は娘を脅し他言するなと言った。娘はうなずき誰にも言わなかったが、ある日秘密を言いたくてしかたなくなり、森のなかで地面に深く穴を掘り、その穴に向かって秘密を囁いた。穴を埋めて娘が去った後、その地面に生えていた植物の茎や花を通って、娘の息のルンが土中から地上に出て行き、風のルンに乗って秘密を村に運び、人々の耳に秘密が届いた。正体がばれた悪霊は怒り、娘を喰ってしまった。(村の古老からの聞き取り)

 この伝承は、ルンによる秘密の拡散がもたらした悲劇を伝えている。何かを話すとき、声の大小にかかわらず、息のルンが言葉の力を運ぶことになる。そのため、人々は何気ない言葉が生む災禍に気を遣う。例えば、赤ん坊や新築中の家を周りの人が見て何かを話すとき、それが誉め言葉であろうと悪口であろうと、話者の発するルンが言葉を運んで噂となって広がり、噂される当人(赤ん坊や新築の家の住人)に災いや病気をもたらすといわれている。それを避けるため、赤ん坊の目や耳のそばに黒い炭で点がつけられ、家を新築する際は木製の男根像が柱に掲げられる。これは、周囲の人の視線を炭や男根像にそらすことによって言葉の災禍を防いでいるのである。村では何気ない会話が容易に噂になる。そのことがルンの運ぶという働きとともに経験されている。

世界が変わる合図

 ルンは、天候や祈り、癒やし、秘密、噂といった様々な事象に関わり、環境や身体を行き来する。ルンの意味は状況に応じて変わる。チベット医学の概念として診断に用いられることもあるし、最近では車の冷房(クーラー)における人工的な風もルンと呼ばれるようになった。雨や雪のなか乗合自動車で山道を移動するとき、運転手は車窓を閉めた後もルンの流れが滞らないように、車内がどれだけ寒かろうと冷房を全開にしたりする。

 ルンがそよぐとき、人々はいまルンが何かを運んでいるということを感じている。そのルンが運ぶ何かの力は、日常生活や身体に少し変化をもたらすものである。タワンの人々にとってルンがそよぐことは、世界(=身体)が変わる合図が鳴っている感覚なのかもしれない。

(2025年3月31日)
〈プロフィール〉
長岡 慶(ながおか・けい)
日本学術振興会特別研究員(CPD・東京大学)、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員。専門は医療人類学、環境人類学、南アジア研究。主な著書論文に「アルナーチャル・ヒマーラヤにおけるシャクナゲと牧畜:異種間の連合としての移牧」『アジア・アフリカ言語文化研究』別冊5号(2025年)、“Care, Politics, and Blessing Pills in Tawang, Eastern Himalaya”(Japanese Review of Cultural Anthropology 23(1), 2022)、『病いと薬のコスモロジー:ヒマーラヤ東部タワンにおけるチベット医学、憑依、妖術の民族誌』(春風社、2021年)など。