『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧
第10回 「漢方」をめぐるあれこれ(日本/中国、日本語/中国語)
向静静(立命館アジア・日本研究機構 准教授)
「漢方」の造語について
漢方医学と言えば、中国医学のことだと思う人が多いだろう。しかし、実はそれは日本化された中国医学を意味している。そもそも、「漢方医学」という言葉自体が和製漢語、つまり日本でできた漢語なのだ。ちなみに、中国では、自国の医学を「中国医学」(略して「中医学」「中医」)と呼ぶ。「漢方」という言葉を分解してみると、「漢」は中国、「方」は手段・技術・方法を意味する。つまりは、中国における医学のことを日本から見て呼んだ言葉が「漢方」なのである。
それではこの言葉はいつから使われているのだろうか。「漢方」の初出は1726年である(長野・関屋, 2023)。江戸中期の本草学者である松岡恕庵(1668〜1746)は、日本の薬名・薬物と中国由来のものを区別するために「漢方」を造語した。「漢方」は中国から伝来した処方を指し、対照的に「和方」は日本独自の処方を指す。
松岡恕庵『用薬須知』に「漢方」が記載されている部分(京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)
松岡恕庵が活躍していた時代は、享保の改革で知られる八代将軍・徳川吉宗の治世である。この時期、日本では天然痘をはじめとする疫病の流行、飢餓問題が深刻化し、また中国や李氏朝鮮から薬物などが輸入されたことから、金貨の流出といった経済的な問題も起きていた。有名な小石川養生所の開設をはじめ、薬物国産化の実施、中国人医師の日本への招聘、採薬使の任命、医書の出版・普及といった政策は、こうした時代状況を背景としていた。
こうした吉宗による医療政策のなかで、1721年から薬品鑑定に従事していたのが松岡である。薬物の国産化がいわば国策として進められるなか、彼は日本産・中国産の区分を強く意識していたであろう。そのなかで生み出されたのが「漢方」という言葉だったのである。
ちなみに、長寿や万病に効くといわれる朝鮮人参(高麗人参、薬用人参)の国産化が実現したのも、吉宗による改革政策の成果である。筆者が、本学の教養科目「日本史」の授業で吉宗の享保改革の医療政策について話したところ、吉宗といえば時代劇で見るような「暴れん坊将軍」のイメージしかなかったため、彼が日本の医療に尽力していたことにとても驚いたというコメントをいただいた。
「東洋医学」と「漢方」
ところで、東アジア圏の医学と言えば、「東洋医学」という言葉もよく耳にする。この言葉は明治の半ば頃から使われるようになった(小曽戸, 2014)。広義には東洋諸地域の伝統医学を指し、具体的にはイスラーム文化圏のユナニー医学、東アジア漢字文化圏の中国医学、インドのアーユルヴェーダ医学、そしてチベット伝統医学が含まれる。狭義には、日本の漢方医学を指す場合が多いが、鍼灸治療と漢方医学を総称することもある。
一方で、現在中国で広く使われている「中医」という語は、「中国伝統医学」や「中国伝統医学の医師」の略称である。この言葉が現在の意味で用いられ始めたのは、1857年に上海で刊行されたホブソンの著作『西医略論』であったとされている(朱, 2017)。ホブソンはロンドン伝道会の医療宣教師である。それ以前にも「中医」という語はあったが、それは必ずしも「中国の医学」という意味ではなく、「中くらいの医者(医術)」を指す場合も含まれていた。これに対して、ホブソンは「西医」(西洋医学)との対比で「中医」の語を使用した。『西医略論』は中国の医師たちの間で広く読まれ、その後「中医」は西洋医学の対比語として、民間や政府の間で多く使われるようになった。
やがて「中医」の語は法律上にも使われるようになる。1936年1月22日に国民党政府の命令に基づき公布された「中医条例」がそれである(朱, 2017)。この規則は、1930年に公布された西洋医学に関する規則「西医条例」に対応しており、伝統医学における法的名称を正式に確立した。なお、西洋医学の導入などを受けて、1920〜40年代の中国では自国の医学を特に「国医」と呼んだ時期もあった。「国医」という言葉は、古代中国では宮廷医家を指す語として使われていたが、これを自国の医学という意味で使ったのは、清末民初の学者・思想家である章炳麟(1869〜1936)が最初で、彼が1923年に発表した文章からだという(朱, 2017)。章は中国の伝統文化思想をナショナリズムに基づいて論じたことから「国学大師」とも称されており、「国医」という言葉も「中医」を賛美するために使われていたことが分かる。
さらに、韓国の伝統医学は現在「韓医学」または「東医学」と呼ばれ、漢方医学と同様に中国医学に基づきながら、朝鮮半島で独自に発展した医学である。朝鮮植民地時代(1910〜1945)には「漢方医学」と呼ばれていたが、戦後は「韓方医学」に改められ、1986年には「韓医学」という名称が広く使われるようになった。
こうした言葉の変遷を見ていくと、東アジアの伝統医学を指す言葉が、歴史、経済、国際関係などさまざまな要素と密接に関連しながら展開してきたことがうかがえるだろう。
漢方医学の特徴
さて、話を日本の漢方医学に戻そう。漢方医学は、漢・唐代の医学、特に後漢の張仲景(2世紀後半〜3世紀初め頃)の医書に多大な影響を受けている。現在でも、日本の漢方製薬会社による製品の多くは、彼による2つの著作『傷寒論』と『傷寒雑病論』に基づく処方で作られており、その数は実に医療保険が適用される漢方製剤147処方のうち約半数にあたる70処方に当たる。
張仲景の著作は、その言葉遣いや文章が簡潔で思弁的な理論が少なく、方剤と病証の緊密な結合(「方証相対」)を論じた点に特徴があった。こうした特徴は江戸時代の日本の医家たちに高く評価され、注釈や考証が盛んに行われた。その影響は現代の漢方医学にも色濃く引き継がれている。
それに対して現代の中国医学では、張仲景の医学をはじめとする漢・唐代の医学だけでなく、明清時代の医家が著した医学書も重要視されている。例えば、明代の張景岳(1563〜1640)の『景岳全書』や、清代の呉鞠通(18世紀後半〜19世紀前半)の『温病条弁』などが挙げられる。また、中国医学は脈診(手首の脈に触れる診断法)を重視し、漢方医学は腹診(腹を触る診察法)を特に重視する。腹診は中国古典医書にも見られる方法だが、時代が進むにつれて中国では行われなくなる一方、江戸時代の後世派、古方派と呼ばれる医家たちに重視されるようになった。特に、古方派の医家である吉益東洞(1702〜1773)は、日本にける腹診の普及に大きな役割を果たした人物である(向, 2023)。
『古方便覧』に掲載されている腹診用の腹証図(京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)
このように同じ中国医学に由来していても、その後の展開によって様々な違いも生じた。たとえば、中国医学と漢方医学で使用される薬物は、すべて植物、動物、鉱物といった自然界の産物だという点で共通している。しかし、漢方医学ではエキス剤が主流であるのに対し、中国医学では丸剤や煎じ薬など、さまざまな形態の薬が使用されている。
「漢方医学」「漢方」の逆輸入
一方「漢方」は、日本だけでなく中国大陸や台湾にも逆輸入され、これらの地域でも広く使用されるようになっている。ただし、中国における「漢方」には、日本の漢方医学を指す場合とは異なる意味も含まれている。例えば、中国には「漢方薬草茶」というハーブ茶に似たお茶がある。ここでは「漢方」という言葉が日常的な養生や病気予防のために飲むお茶の意味で使われている。さらに、台北の迪化街には「思菓埕漢方食舖」という店があり、そこでは菊の花、バラの花、ナツメ、クコの実などを使用したお茶やミルクティーが提供される。このように台湾でも「漢方」という言葉は薬草茶を指し、養生という意味が含まれている。
台北・迪化街の「思菓埕漢方食舖」の前に展示されているお茶の材料サンプル(筆者撮影、2025年3月16日)
中国大陸や台湾では古くから薬草を使って料理やお茶を作る習慣があり、伝統的な養生法の一部として根付いている。特にコロナ禍以降、健康意識が高まり、若者の間でもこうした養生ブームが広がっている。これに伴い、「漢方」という言葉は、今後ますます薬草茶や日常的な健康管理を指す意味で使われるようになるだろう。
台北西昌街の「四知青草店」の前に並んでいる薬草茶の材料(筆者撮影、2025年3月14日)
「漢方」という言葉の逆輸入に象徴されるように、近現代の中国医学は日本の漢方医学から多くの影響を受けている。近代中国の医家・陳存仁(1908〜1990)は、日本で93種類の漢方医学書を収集し、それを『皇漢医学叢書』(1936)として中国で出版した。この叢書には、近世日本の医家による書籍が多数収められており、それらは近代中国の医家に大きな影響を与えた。
一方、日本の漢方医学は古代中国の医学を模範としつつ、独自の発展を遂げてきた。また、日本から影響を受けた現代の東アジア各国における「漢方」も、それぞれが独自の特徴を持つようになっている。
「漢方医学」や「漢方」という言葉を整理すると、東アジアの伝統医学はお互いに影響を与え合いながら、それぞれの地域で個性豊かな医薬文化を築いてきたことがはっきりとわかる。こうした影響の循環は、東アジアの漢字文化圏で医書を通じた知識の交流が可能であったことから生まれたのである。
参考文献
小曽戸洋(2014)『漢方の歴史』大修館書店.
向静静(2023)『医学と儒学:近世東アジアの医の交流』人文書院.
長野仁・関屋成彰(2023)「和製漢語「漢方」の生成と変遷」『漢方の臨床』第70巻第10号,27〜42頁.
朱建平(2017)「“中医”名実源流考略」『中華中医薬雑誌』第32巻第7期, 3043~3047頁.
向静静(こう・せいせい)
立命館アジア・日本研究機構准教授。専門は江戸時代の医学思想史、日中医学交流史。最近は「薬膳」や「医食同源」といった食と健康をめぐる思想も研究している。最近の著書論文に『医学と儒学――近世東アジアの医の交流』(人文書院、2023年。第36回矢数医史学賞、第18回立命館白川静記念東洋文字文化賞奨励賞など受賞)、Jingjing XIANG and Nara ODA eds., Asian Medicine: Tradition and Innovation(Asia-Japan Research Institute, Ritsumeikan University, 2023)、「近世日本における『傷寒論』と漢方医学:麻疹・痘瘡・腸チフス・風邪の治療から」(『立命館アジア・日本研究学術年報』第3号、2022年)などがある。