『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧
第11回 シンキーティー知識人を求めて:知の薫りに魅せられて(湾岸諸国、アラビア語)
竹田敏之(立命館大学 立命館アジア・日本研究機構 教授)
知の探究、アラビア語の旅路
アラビア語は、東は西アジアのアラビア半島から、北アフリカを横断して西は大西洋に面したモーリタニアに至るまで、22の国と地域で用いられている国際語である。私がアラビア語を学び始めた頃、教科書の一頁で、次のような印象深い言葉に出会った。「知識を求めよ、たとえそれが中国にあろうとも」。当時、これはハディース(預言者ムハンマドのことば)の一つとして紹介されていた。現在ではハディースとは見なされず、アラブ・イスラーム世界で広く親しまれる格言として定着している。
その背景には、近年飛躍的に発展したハディース学の存在がある。膨大な伝承について、はたしてそれが本当に預言者の言葉であるかどうか、伝承経路や本文の信憑性をめぐって、専門家たちによる精緻な分析・照合の作業が進められた。その結果、「知識を求めよ、たとえそれが中国にあろうとも」は、厳密には預言者に帰することはできず、ハディースとは認められないという見解が優勢となった。
生徒のために、ラウフ(書字板)にクルアーンの章句を書写する先生(2012年2月)。クルアーンの学習だけでなく、文法学や法学の習得にも書字板が使われる
それでも、この言葉は今も色あせることなく、知識を求める姿勢を力強くたたえ、普遍の価値をもつ名言として、人々の心に響いている。インターネットやオンライン授業が普及した現代でも、知識を求める者は師のもとへ足を運び、直接学び、その人となりを会得することを尊ぶ。知識とは、単なる情報ではなく、それを体現する師の存在と不可分である。当時の「中国」は、アラブ人にとって遠方の象徴だった。そこに師がいれば、どんな距離もいとわず旅をする。それが大事だったということであろう。かつては今のようにパスポートやビザといった障壁がなく、人の移動が自由だったことも大きい。今もアラブ世界では、知識を求める側はもちろん、そのような者に対し門戸を開放し受け入れる側の意識も、昔と変わらないように思う。
この「知識を求めよ」の動詞から派生した行為者名詞(~している人)が「ターリブ」だ。日本語では「学生」と訳されるが、日本の「学生」とはニュアンスが異なる。日本では、学生は一時的な身分であり、大学を卒業すれば「社会人」になる。しかし、アラビア語のターリブは、「知識を求めている」状態や意識そのものを指す。何歳であろうと、人生のどの段階であろうと、知を追い求める者は皆ターリブなのだ。実際、年配の方が「私はターリブです」と自己紹介する場面に何度も出会った。別の格言に「揺りかごから墓場まで知識を求めよ」とあるように、知識の追求に終わりはない。
興味深いことに、このターリブという語は、西方アラブ地域(モロッコやモーリタニアなどのマグリブ諸国)では、「師匠」や「イスラーム学の専門家」の意味をもつ。敬称として「ターリブ」を冠した人名も多い。たとえば、聖典クルアーンの綴字法に関する韻文要綱の著者、ターリブ・アブドゥッラー(モーリタニア出身、1834年没)は、まさにそのような大学者である。ちなみに、他のアラブ地域では「トゥワイリブ」という表現も耳にする。これは「ターリブ」の縮小形であり、「猫」から「子猫」、「ハサン」という人名から「フサイン」(愛らしいハサンの意)を作るように、「今もなお知識を求める未熟者」という謙虚なニュアンスをもつ。この「トゥワイリブ」を自らの肩書や敬称として用いる者も少なくない。
シンキートの国を目指して、西へ東へ
学生時代、私はエジプトのカイロ大学とクウェートで学ぶ機会を得たが、大学院修了後、伝統文法の教授法とその実践を深く研究したいと考え、アラブ世界の最西端にある国、モーリタニアを目指した。なぜモーリタニアだったのか。そのきっかけは、あるサウディアラビアの先生との出会いだった。その先生は、「アラブの古詩や文法学の真髄を体感したいなら、シンキートの国を目指しなさい」と教えてくれた。シンキートの国とは、現在のモーリタニアを指す古い呼び名である。
モーリタニアは、アラビア語を公用語とするれっきとしたアラブ諸国の一員である。1960年にフランスの植民地支配から独立を果たした。その国名「モーリタニア」は、植民地時代にフランス軍が用いていた呼称に由来する。ギリシア語の「マウロス」(黒を意味し、英語の「ムーア」の語源)や、ローマ時代の属州「マウレタニア」にちなむともされるが、独立後もこの名称が引き継がれた。一方、古くから親しまれてきた地域の呼称は、今も昔も「シンキート」である。シンキートの語源については、「馬の目」を意味する現地語がアラビア語化したものとする説が有力である。
シンキートは、首都ヌアクショットから北東へ約600キロの内陸に位置する小さな町の名前でもある。日本から遠く離れたモーリタニアの沙漠の奥深く、西の果てに佇むこの町は、今でこそ途中まで舗装道路が整備されたものの、町内に舗装道路はなく、電気もほとんど通っていない。かつてはマッカ(メッカ)への巡礼路の要衝として栄え、数多の学者が集う学問の中心地であった。その歴史的重要性から、「シンキート」は町の固有名詞を越え、地域や国全体を指す呼称としても用いられてきた。
現シンキートの町。電気のない世界で、アザーンが日々の時間を刻む(2012年2月)
この辺境の地には、知を求めて海を越え、沙漠を越えて集う学生たちの姿があり、また、何世紀も前に編まれた文法書や法学書を、一字一句違えずに諳んじて教える地元の学者たちがいた。その威容と気迫、そしてそこに満ちる熱気のすべてが、私には驚きの連続であった。現地では特に、13世紀のアンダルス出身の学者イブン・マーリク(1274年、ダマスカス没)が著した『千行詩』を用いた文法学習が盛んで、その伝統が今なお息づいていた。
ある日、私は現地の先生に、フィールーザーバーディー(1414年没)が編んだ古典辞書がモーリタニアでどのように使われているか尋ねた。すると先生は次のように語った。「本や紙が普及していない沙漠の地、移動の多い遊牧生活では、辞書とは“引く”ものではなく、“覚える”ものである。必要な時、問われた時に、語義を即座に思い起こし、提示できなければならない」と。そして続けて、こう教えてくれた。かつて、ガザ(現パレスチナ)出身で四大法学派の学祖であるシャーフィイー(820年没)は、次のように詠んだという。
どこへ赴こうとも、知は常に我と共にある。
我が心は、知を蔵する器、深き箱のようなもの。
家にあれば、知もまた家にあり、
市場に出れば、知もまた市場に伴う。
シンキートの町に佇むモスク。タイルや絨毯はなく、皆が砂の地面に直接平伏する(2012年2月)
シンキートの国、すなわちモーリタニア出身の者(あるいはその出自をもつ者)は、アラビア語で「シンキーティー」と呼ばれる。英語の「Japanese」のように、地名の語尾を変えることで出身者を表す語である。ただし、「シンキーティー」は単なる出身地を示すにとどまらず、「シンキーティー知識人」という言葉に象徴されるような、深い学識と威厳を帯びた名でもある。
そのため、湾岸諸国など多くのシンキーティー知識人が活躍する地域では、人名にこの語が付く者もいれば、名乗らずとも「シンキーティー」として知られ、敬意を集める者も少なくない。とりわけエジプトやヨルダンといった東方のアラブ諸国や、サウディアラビア、アラブ首長国連邦、カタル、クウェートなどの湾岸地域では、シンキーティー知識人への敬意がひときわ篤い。アラビア半島というアラブ・イスラーム文化の「本場」の人々の間でさえ、「シンキート知識人の学識には到底かなわない。彼らの言葉づかいには一分の隙もなく、誤用はおろか、嚙むことさえない」といった声がしばしば聞かれるのだ。
それもそのはず、モーリタニアの人々の多くは、アラブの源流の一つとされるイエメンのヒムヤル部族にその系譜をもつと伝えられている。また、モーリタニアが「百万人の詩人の国」として知られることも、名声を支える背景の一つであろう。
クウェート中心部にある詩の図書館「バーブティーン図書館」で講演を行うシンキーティー知識人、ウルド・アッバー先生(左)(2014年3月)
湾岸諸国とシンキーティー知識人
「百万人の詩人の国」。このキャッチーな綽名は、クウェートの情報省が発行する汎アラブ向け文芸誌『アラビー』の1967年4月号で、モーリタニアがカラー特集された際に生まれた。その中で、詩人の宝庫であるモーリタニアを「百万人の詩人(の国)」という表現で紹介した。当時の人口は100万人ほどだったから、国民みんなが詩人の国ということになる。もちろん誇張はあろうが、じつにユニークな言い回しである。今風に言えば、アラブ諸国の読者のあいだで一気に「バズった」ワードだったと言える。現地を訪れた湾岸出身のアラブ人記者にとって、モーリタニアに根付く伝統的な詩文化の世界は、それほど鮮烈な体験だったに違いない。
この国は、イスラーム学や古詩を基盤とするアラビア語学の分野において、豊富な知的人材を擁する地である。19世紀のナフダ(アラブ文芸復興)期、さらには1970年代以降の湾岸諸国の勃興期において、アラブ諸国の近代化と発展のために多くの知識人や学者を供給してきた。
その様子は、エジプトの文豪ターハー・フサイン(1889–1973)の自伝的小説『日々』にも描かれている。著者自身をモデルとする主人公が、アズハル大学で、驚異的な暗記力をもつシンキーティーの大先生からハディース学の講義を受け、深く感銘を受ける場面である。また、東方アラブ地域で名を馳せたシンキーティー知識人には、古典文献の校訂・研究に多大な貢献をしたアフマド・アミーン・アラウィー(1872頃–1913)がいる。彼はエジプトの老舗書店ハーンジー書店との交流を通じて、『ムアッラカート詩解説』や『歌の書への補遺』といった重要文献の出版に携わったことで知られている。
教育や司法の分野でも、シンキーティー知識人は各地に足跡を残した。たとえば、クウェートの近代学校の先駆けであるムバーラキーヤ学校の設立に寄与したファール・ハイル(1876–1932)。ヨルダンにおける法学ルネサンスを導き、同国初の最高裁判事に任命されたマーヤーバー(1905–1990)。サウディアラビアの著名な法学者イブン・バーズの師であり、啓典解釈書『明示の光』の著者であるムハンマド・アミーン・ジャカニー(1905–1974)。彼らはみな、シンキーティー知識人の代表格である。
さらに、サウディアラビア王立印刷所が刊行するムスハフ(クルアーンの印刷本)の校閲・監修にあたっては、シンキーティー知識人の名がずらりと連なり、その存在感の大きさがうかがえる。同印刷所があるサウディアラビアのマディーナ、そのスィーフ地区では、今なお「ラウフ」(書字板)を用いたシンキーティー式の伝統教育が息づいている。
近年、インターネットや動画配信の普及により、シンキーティー知識人の名声とモーリタニアの伝統文化は、湾岸諸国で一層注目を集めている。特に、アラブ首長国連邦のアブダビは、マーリク法学派を公式に採用していることから、モーリタニアやマグリブ諸国出身者との親和性が高い(マグリブ地域ではマーリク法学派が主流)。碩学アブドゥッラー・バイヤ(1935–)を筆頭に、7名ものシンキーティー知識人がムフティー(権威ある法学者)として重要な役割を担っている。
アターイ(茶)は三煎で味わう。毎煎、風味が深まる(2012年2月)
モーリタニアでのフィールドワーク以降、私は湾岸各地で幾度となくシンキーティー知識人に出会い、インタビューを重ねる機会に恵まれた。彼らは決して自らを誇示せず、静かに語り始める。その姿勢にはただならぬ気配が漂い、ひとたび話し出すと、豊かな語彙と精妙な言い回しの中に深い教養が自然ににじみ出る。湾岸諸国が急速に変貌し、高層ビルが林立する都市の片隅にあっても、彼らの知の営みは力強く生き続けている。そんなフィールドワークの日々の中で、私はふとシンキートの沙漠で出会った三つの風景を思い出した。
風をはらむゆったりとしたダッラーア(伝統的な長衣)に身を包み、静かに語る学者の姿。
三煎にわたって丁寧に淹れられるアターイ(茶)の香りと、その一杯に込められたもてなしの心。
琥珀色のラウフ(書字板)に書かれたクルアーンの章句──墨汁で書き、水で洗い、記憶に刻む反復の所作。
知とは単なる情報の寄せ集めではなく、沙漠に響く実践の音声であり、学者の謙虚な姿勢であり、共同体の中で継承される学統の営みである。そうした知の薫りに触れることで、私はシンキーティー知識人の伝統が、湾岸諸国のみならず、アラブ世界全体で輝き続けるであろうと確信するに至った。その躍動を注視しながら、これからもアラビア語ということばの魅力を追い続けたい。
アラブ首長国連邦の豊かな水、高層ビルが輝く(2014年、シャルジャ)
参考文献
小杉泰(2019)『ムハンマドのことば:ハディース』小杉泰編訳、岩波書店.
竹田敏之(2024)「デジタル化される聖典:クルアーンとハディースの音と文字」『イスラーム・デジタル人文学』須永恵美子・熊倉和歌子編、人文書院、pp.36-65.
竹田敏之(2019)「現代モーリタニアにおけるアラブ・イスラーム文化の諸相」『現代アラビア語の発展とアラブ文化の新時代:湾岸諸国・エジプトからモーリタニアまで』ナカニシヤ出版、pp,182-211.
al-Naḥwī, al-Khalīl. 1987. Bilād Shinqīṭ: al-Manāra wa al-Ribāṭ(シンキートの地:学知の灯と信仰の砦). Tūnis, ALECSO.
竹田 敏之(たけだ・としゆき)
立命館大学立命館アジア・日本研究機構教授。同アジア・日本研究所副所長。専門はアラビア語学、中東地域研究、現代アラブ文化論。主な著書に『現代アラビア語の発展とアラブ文化の新時代:湾岸諸国・エジプトからモーリタニアまで』(ナカニシヤ出版、2019年)、『アラビア語表現とことんトレーニング』(白水社、2013年)、『ニューエクスプレス アラビア語』(白水社、2010年)など。